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(C)2007-2009 ひろお
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『後漢書』本紀6、三国志開幕 2)質帝の毒殺
3月、九江の賊が皇帝を称した。九江都尉は、これを斬った。
やっと九江の叛乱は鎮圧です。皇帝がコロコロ代わっている横で、好きなように暴れていたのだが、やっと年貢の納め時になった。宮城谷『三国志』では、賊の名前まできちんと書き写して、経過を追っています。このページでは省略してしまいましたが。

4月、雨乞いをした。
済北王・劉安が死んだ。
丹陽郡の賊が、亭の役所を焼いた。丹陽太守が破った。

5月、詔が出た。
「朕は不徳だから、政治は下手だ。春から夏は日照りで、ウツになった。雨乞いをして、ちょっと雨が降ったが、麦は育たない。近日は曇りだったが、雨は降らない。寝ても覚めても、痛ましい気持ちだ。はたまた、地方官が暴政をやってるから、雨が降らないのか。着手前の裁判は、保留にせよ。地方官は、雨乞いの名人がいたら、誠と礼を尽して雨を降らしてもらえ。
近年は兵役が多くて、棺に入りきらず、死体が溢れている。周ノ文王は、身寄りのない遺骨も葬って、徳のある主君となった。私もそれに倣うぞ。埋葬に補助金を出そう
この月、下邳の人が応募してきて、九江の残党を討った。
詔があった。
「殤帝は、皇帝としての在位は長くなかったが、年をまたいで皇帝をやった。そのとき君臣ノ礼はきっちり成り立っていた。しかし順帝は、安帝の墓を、殤帝の墓の上位に作ってしまい、順序がおかしくなった。順帝のやり方では、永遠不滅の体制を築くことはできない。むかし魯ノ定公は、墓を祀る順序を正した人だ。いま殤帝、安帝、順帝の序列で墓を祀れ。親族の秩序を、万世の法とせよ」
ごちゃごちゃ言ってますが、平たく翻訳すると、「即位の順番で祀れ。自分と血統が近いからと言って、順番を変えて尊んではいけない」です。
しかし質帝にも我が身の可愛さがある。質帝は順帝の子孫ではないから、祀る順序を戻せと言っているんだ。


6月、鮮卑が代郡を侵した。
7月、阜陵王・劉代(光武帝の玄孫)が死んだ。
廬江郡の盗賊が、尋陽を攻め、ク台を攻めた。これを討った。
9月、太傅・趙峻が死んだ。
11月、南陽太守が収賄で獄死した。
中郎将が、広陵の賊を破った。
歴陽の賊が「黒帝」と称して、九江太守を殺した。これを討った。

146年正月、詔が出た。
「尭は4人の子に命じて、天道を慎ましせ、瑞祥を得た。瑞祥は、政治が純和なとき降る。時流に逆らった政治をすれば、災異を感じさせる。先人の教えは、些細なことでも、効果・影響は大きいのだ。近ごろ地方では、国禁を軽んじて、残暴に励み、冤罪が多い。情実人事をやらかし、賄賂が横行しているから、訴訟に詰め駆ける人が多い。今は春の耕作の時期だから、慎んで寛大さを育みなさい」
広陵太守が賊の討伐に行ったが、ぐずぐずしているので捕えられ、獄死した。

2月、詔があった。
九江と広陵の2郡は、寇害が多くて、惨殺ばかりだ。生者は生業を失って、死者は屍を原野に捨てられている。『書経』曰く、1人でも失業した人があれば、それは主君の責任だと。まして2郡では、人民が困毒を味わっているのだから、私の政治は酷すぎる。春だから、身を戒め、貧困を救済して、死体を埋葬しよう。周囲の郡に貯蔵した穀物を配って、私の意向を叶えよ」
4月、郡国に命令して、経書に詳しい50歳~70歳の人を招かせ、洛陽の太学で教鞭を取らせた。大将軍から六百石(下級官)に到るまで、授業を受けさせた。年齢が達すると、成績優秀の5名を郎中にして、次点の5人は太子舎人とした。
千石、六百石、四府ノ掾属(大将軍府の属僚29人、大尉府24人、司徒府31人、司空府29人)、三署ノ郎(左右の中郎将の属官)、四姓小侯(外戚の樊氏、郭氏、陰氏、馬氏が子孫のために立てた学校。列侯ではないから小侯という)にある人のうち、もともと経書に通暁している人は、それぞれ家学(代々伝授してきた学問)を続けさせ、太学を強制しなかった。家学をやる人のうち、成績優秀者の名簿を提出させ、褒賞を与えて昇進させた。

5月、楽安王を移して、渤海王とした。
海水が溢れた。謁者に視察をさせ、楽安郡・北海郡で海水に溺れて死んだ人を埋葬し、貧しい人に穀物を支給した。
金星が、火星を犯した。逆謀の相である。
天下に大赦し、民に爵をやり、粟と布を与えた。

閏6月、大将軍・梁冀は、質帝を毒殺した。享年9歳。
大尉の李固を罷免した。
司徒の胡広を大尉として、司空の趙戒を司徒として、梁冀とともに尚書のことを管理させた。太僕の袁湯を司空とした。
賛に曰く。
「順帝が即位したとき、一世の俊才が集った。だが、自ら研鑽することなく、政治改革するでもなく、ついに近習(宦官・孫程)と馴れ合ってしまった。乳母(宋氏)に封地を与え、后家(梁氏)は代々栄えた。沖帝は物心がつく前に死んだ。質帝は、聡明であるばかりに、梁冀に殺された。3帝が死んだのは天運のせいで、3人の血筋は全て途絶えた」と。
■おぼえがき
知ってはいましたが、皇帝がバタバタ死ぬだけです。
質帝がおもしろい詔を出しているのが、いい拾い物でした。まさか本人で書いているわけじゃなかろうが、所信表明や年頭挨拶などは、この時期がどういう時代だったか分かります。すなわち、地方で叛乱が絶えなかった時代だと。
三国時代だって、陳寿が「三国」にしてしまったが、実態は違います。ただ辺境の建業と成都のあたりに「賊」が居座って、皇帝を自称して代を重ねているだけです。九江郡・広陵郡あたりの賊たちは、「国」とは呼ばれないものの、似たような状態だったと言えるかも知れません。いちおう皇帝を自称している。
袁術は、クズ扱いされているが、いちおう偽皇帝として有名。140年代の賊たちは、袁術が帝位を称した寿春の近くにいた。袁術とどこが違うんだ!という話です笑
三国ファンは、沖帝・質帝のときの「独立国」を、もっと知ってあげても良いかも知れません。 090218
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
『後漢書』本紀6、三国志開幕
1)順帝の崩御
2)質帝の毒殺