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党錮と黄巾の間(霊帝紀)
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4)黄巾が2王を捕う
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182年
正月、天下に大赦した。
二月、大疫あり。
3月、司徒の陳耽を免じた。
4月、日照り。太常の袁隗を司徒にした。
5月、永楽宮(徳陽殿の西北)で火災。
7月、ホウキ星が、太微(星座)を犯した。巴郡の板楯蛮は、巴郡太守の曹謙に降伏した。罪の確定しない囚人を、絹で保釈した。
8月、92メートルの観(タワー)を、阿亭道に建てた。
10月、大尉の許イクを罷め、太常の楊賜を大尉とした。霊帝は上林苑で、木柵で囲った狩りをした。函谷関を過ぎて、広成苑に立ち寄って狩りをした。
12月、霊帝は洛陽に戻り、太学を訪れた。
黄巾は間近なのに、1ヶ月以上も洛陽を空けていたのか!
なんと!イヤイヤ書かされた日記の宿題みたいな本紀です。 本当に何もなかったのだろうか。いえいえ。孫権と朱然と、曹丕の皇后となる甄氏が生まれた年ですよ。
183年
正月、日南郡の塞外の国から、通訳を重ねて朝貢してきた。
2月、長陵県(前漢歴代皇帝の陵がある)の、租税免除を再開した。租税の免除は、豊・沛(劉邦の故郷)に倣ったものである。
3月、天下に大赦した。
夏、大いに日照りした。
秋、金城郡で黄河が溢れた。五原郡で崖崩れがあった。
絶対に呂布のしわざだろう!
初めて苑園を役所を設置し、宦官を令(長官)とした。
役所の名前はホユウ署。国構え「甫」、国構えに「有」です。
冬、東海郡、東莱郡、瑯邪郡で、井戸に25センチくらいの氷が張った。
大いに豊作の年だった。
また、日記の宿題みたいな年です。黄巾の決起直前は極寒で、ちょうど豊作だったんですね。黄巾目線で物語を描くときは、参考にせねばなりません。
184年
2月、鉅鹿郡の張角が、自ら「黄天」と称した。部帥(各地のリーダー)は、36の「方」という単位を組織した。「方」とは将軍号のようなもので、大きい方は1万人以上、小さい方でも6、7000人がいた。「方」はそれぞれ、渠帥が率いた。みな黄巾を着け、同じ日に決起した。安平国と甘陵国の人は、それぞれの王である劉続と劉忠の身柄を拘束して、叛乱に呼応した。
知らなかった!王民まで呼応するとは! 安平国は、もと楽成国。安帝のとき、河間王・劉開(章帝の子)の子、劉得が封じられた。劉得の子が、このとき捕らえられた劉続です。
甘陵国はもと清河国で、桓帝との即位競争に破れた、劉蒜の任国です。劉蒜の死後、梁冀に国名を変えられました。劉理が封じられ、次に劉理の子、劉定が継いだ。だがたった4年で死んだから、劉忠が継ぎました。
どちらの王も劉開を祖とするから、桓帝・霊帝と近い国です。 つまり、こういうことです!
分かりにくいから、即興で作ってみた。
3月、河南尹の何進を大将軍として、兵を率いて都亭(洛陽城内)に駐屯させた。八関都尉の官を置いた。八関とは、函谷、広成、伊闕、大谷、カンエン、旋門、小平津、孟津である。
天下の党人を赦して、流罪になっていた人を赦したが、張角だけは赦さなかった。公卿に詔して、馬・弩(いしゆみ)を供出させた。列将(歴代の将軍)の子孫および、吏民で戦陣の略に明るい人を推薦させて、官軍に加えた。
北中郎将の盧植を、張角に差し向けた。左中郎将の皇甫嵩と、右中郎将の朱儁には、頴川郡の黄巾に向かわせた。南陽の黄巾・張曼成は、太守の褚貢を殺した。
ここでひとまず終わりです。
やっぱり、党錮から黄巾までは、何もなかったということが分かった。本紀がスカスカになる年もあるくらいで。
■財務担当皇帝
霊帝については、財政が厳しすぎて、政治どころではなかったということが判明しました。何をやるにも、カネ、カネ、カネで。桓帝が、国庫をゼロにしてしまったから、仕方ない。 寵愛している子弟を関内侯にするとき、霊帝はただで任命しなかった。自制心が効かないだけの皇帝なら、ホイホイ任命するでしょう。しかし霊帝はそうではないのだ。安くても代金を取った。
宮廷の中で模擬店をやったのは、モニタリングだろう。購買者がどういう心理なのか、価格はどういう動きをするのか、調査するのが目的だった。結果は、市場のルールどころか、社会常識がない宮女が品物を奪い合って、失敗したが(笑)
霊帝が、財政にも行政にも目を配れる人なら、また後漢は違ったでしょう。しかし、収支の面倒を見るだけでも、常人のキャパを越えた仕事です。巨大企業の社長と同じなんだから。社長業に加えて政治も見ろとは、無理な話だ。決して霊帝を責められない。
■党錮事件が激化したわけ
宦官は、完全に政治を代行してくれるから、忙しい霊帝には便利だった。全ての官署のトップを宦官にすることで、意識を割かずに済んだ。同質の集団は、早く動けるからね。ブレーキ役がいないから、間違った方向にも、容易に突っ走るけれど。
順風満帆なときは同質を集めるといい。解決課題があるときは異質な人を集め、意見を戦わせる必要がある。 後漢の政治はピンチなのに、同質の宦官を集めた。イヌとロバの段で、『続漢書』の著者が「霊帝は逆のことをやってる」と怒っていたが、一面の真理を突いている。
良き宰相がいれば、ベストだったんだが、宦官があまりに狡猾に主権を独占したから、それは叶わなかった。党錮で敗北した人たちは、霊帝が財政に目を奪われているのを知って、
「オレたちが政治分野を見なければ、どうするのだ」
という使命感があった。だから積極的に戦いを挑んだのでしょう。 だが、皇帝に権力が集中する制度下では、勝つ方法はなかった。宦官は、皇帝が発する文書の全てを、見たり書いたり変えたり出来るのだ。
■政治に軸足を移す
182年末に、霊帝は初めて狩りに行っている。桓帝がしょっちゅう興じてた「校狩」です。洛陽からフラフラと出かけて、うっかり函谷関に到っちゃうやつですね。
「朕はよく働いたなあ」
1ヶ月半の狩りは、頑張った自分へのご褒美です。
その証拠として、劉氏ゆかりの土地での免税再開がある。逆に言えば、前漢皇帝を祭った県ですら、税を取り立てないといけないくらい、国庫は困っていた。たかが県の税収なんて知れているのに、まるで体面を繕うことなく、徴税を行わせたのだ。
財務担当皇帝として、霊帝は前例がないほど有能だった。
182年と183年は、霊帝の小休止。だから本紀はスカスカです。宦官の大暴れもないから、きっと霊帝は、禁中で作戦を練っていたのでしょう。親政のために、情報をインストールしてた。
阿亭道に建てた高台は、霊帝が天下を観望して、政治に取り掛かるため舞台かも知れない。
「皇帝の目が、政治に向いた。やりにくくなったなあ」
宦官は思っただろう。
霊帝を激励するように、183年は豊作だった。
「財政は一気に好転した。次は政治だな」
そう思った矢先に、黄巾ノ乱だ。
黄巾は、これまで霊帝が後回しにしてきた、政治のツケが来たものです。国が富んだ代わりに、民は貧しくなったのでしょう。 桓帝は気前よく、財物を与えたり、税率を下げたりしてた。だから飢饉が頻発しても、良民の大規模な叛乱までは起きなかった。しかし霊帝は救済策を拒んだから、民は限界に来ていた。堪忍袋ではなく、生命が切れそうだった。
血筋からいえば、桓帝と霊帝との距離ほどに近い2王が、黄巾に捕えられた。これは象徴的な出来事です。ひとつ間違えば、過去の霊帝が捕捉されていてもおかしくなかった。この国は終わりですね。
後漢を滅ぼしたのは、黄巾だ。黄巾を呼んだのは、宦官だ。宦官を呼んだのは、霊帝の失政だ。霊帝の失政を呼んだのは、桓帝の出費だ。桓帝の出費を招いたのは、気候の変化だ。
天命が去った王朝は滅びるとは、道理であることよ。090221
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
党錮と黄巾の間(霊帝紀を口語訳)
1)罪人名簿のハコ
2)宦官が全官署を征圧
3)模擬店とイヌとロバ
4)黄巾が2王を捕う
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