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『晋書』志第十四 「 職官」の翻訳 4)泣きながら洛陽を去る
司隸校尉,案漢武初置十三州,刺史各一人,又置司隸校尉,察三輔、三河、弘農七郡,曆漢東京及魏晉,其官不替。屬官有功曹、都官從事、諸曹從事、部郡從事、主簿、錄事、門下書佐、省事、記室書佐、諸曹書佐守從事、武猛從事等員,凡吏一百人,卒三十二人。及渡江,乃罷司隸校尉官,其職乃揚州刺史也。

司隷校尉。前漢ノ武帝がはじめて13州を置いたとき、刺史が1人ずつ任命され、司隷校尉も置かれた。三輔と三河、弘農の7郡を治めた。前漢・後漢・魏晋を通じて、官制に変更はない。属官には(中略)。東晋になると、司隷校尉の官職を除いて、同じ仕事を揚州刺史が行なった。

中領軍將軍,魏官也。漢建安四年,魏武丞相府自置,及拔漢中,以曹休為中領軍。文帝踐阼,始置領軍將軍,以曹休為之,主五校、中壘、武衛等三營。武帝初省,使中軍將軍羊祜統二衛、前、後、左、右、驍衛等營,即領軍之任也。懷帝永嘉中,改中軍曰中領軍。永昌元年,改曰北軍中候,尋複為領軍。成帝世,複為中候,尋複為領軍。
護軍將軍,案本秦護軍都尉官也。漢因之,高祖以陳平為護軍中尉,武帝複以為護軍都尉,屬大司馬。魏武為相,以韓浩為護軍,史渙為領軍,非漢官也。建安十二年,改護軍為中護軍,領軍為中領軍,置長史、司馬。魏初,因置護軍將軍,主武官選,隸領軍,晉世則不隸也。元帝永昌元年,省護軍,並領軍。明帝太寧二年,複置領、護,各領營兵。江左以來,領軍不復別領營,總統二衛、驍騎、材官諸營,護軍猶別有營也。資重者為領軍、護軍,資輕者為中領軍、中護軍。屬官有長史、司馬、功曹、主簿、五官,受命出征則置參軍。(後略)


中領軍將軍は、魏の官である。漢の建安四年、曹操が丞相府を設置した。漢中を攻めたとき、曹休を中領軍とした。曹丕が即位すると、領軍將軍を初めて設置して、曹休を任命した。五校、中壘、武衛らの3つの軍営を統括した。
司馬炎ははじめ領軍將軍を除いて、中軍將軍の羊祜に二衛、前、後、左、右、驍衛らの軍営を率いさせた。つまり領軍将軍の仕事を、中軍將軍に統合した。懷帝の永嘉年間に、「中軍」を改めて「中領軍」と呼んだ。永昌元年、「北軍中候」を改めて「領軍」と呼んだ。成帝の時代に、また「中候」に戻してまた「領軍」に戻した。
護軍將軍は、もとは秦の護軍都尉だった官である。漢も踏襲して、劉邦は陳平を護軍中尉とした。武帝は護軍都尉に呼び名を戻して、大司馬の属官とした。
曹操が丞相になると、韓浩を護軍とし、史渙を領軍として、漢の制度を変えた。建安十二年、護軍を「中護軍」と改め、領軍を「中領軍」と改めて、長史と司馬を置いた。魏の初期、後漢末にちなんで護軍將軍を置き、武官の人選を担当し、領軍を従えた。しかし晉代には領軍を従えなかった。
元帝(司馬睿)の永昌元年、護軍を「領軍」と改めた。明帝の太寧二年、再び領軍と護軍を置き、それぞれに兵を率いた。(後略)

太子太傅、少傅,皆古官也。泰始三年,武帝始建官,各置一人,尚未置詹事,官事無大小,皆由二傅,並有功曹、主簿、五官。太傅中二千石,少傅二千石。其訓導者,太傅在前,少傅在後。皇太子先拜,諸傅然後答之。武帝后以儲副體尊,遂命諸公居之;以本位重,故或行或領。時侍中任愷,武帝所親敬,複使領之,蓋一時之制也。

太子太傅と少傅は、どちらも古代からの官である。泰始三(267)年、司馬炎は初めて設置し、1人ずつ置いた。まだ詹事を設置しておらず、案件の大小に関わらず、みな太傅と少傅が検討し、功曹、主簿、五官とともに仕事をした。太傅は中二千石で、少傅は二千石である。訓導をするときは、太傅が前にいて、少傅が後ろにいた。皇太子が先に質問し、傅たちはその後に答えた。
武帝は後に尊貴な人を選んで、諸公に傅を任せた。つまり、元から職位が重い人に、行・領(兼務)をさせたのだ。ときの侍中の任愷は、武帝から親敬されていたから傅を兼務したが、おそらく一時的な職制だろう。

咸甯元年,以給事黃門侍郎楊珧為詹事,掌宮事,二傅不復領官屬。及楊珧為衛將軍,領少傅,省詹事,遂崇廣傅訓,命太尉賈充領太保,司空齊王攸領太傅,所置吏屬複如舊。二傅進賢兩梁冠,黑介幘,五時朝服,佩水蒼玉,食奉日三斛。太康二年,始給春賜絹五十匹,秋絹百匹,綿百斤。其後太尉汝南王亮、車騎將軍楊駿、司空衛瓘、石鑒皆領傅保,猶不置詹事,以終武帝之世。惠帝元康元年,複置詹事,二傅給菜田六頃,田騶六人,立夏後不及田者,食奉一年。置丞一人,秩千石;主簿、五官掾、功曹史、主記門下史、錄事、戶曹法曹倉曹賊曹功曹書佐、門下亭長、門下書佐、省事各一人,給赤耳安車一乘。及湣懷建官,乃置六傅,三太、三少,以景帝諱師,故改太師為太保,通省尚書事,詹事文書關由六傅。然自元康之後,諸傅或二或三,或四或六,及永康中複不置詹事也。自太安已來置詹事,終孝懷之世。渡江之後,有太傅少傅,不立師保。(中略)

咸甯元(275)年,黄門侍郎の楊珧を詹事に任命し、宮事をつかさどらせた。だから二傅は(仕事を詹事に譲って)官属を管轄しなくなった。楊珧が衛將軍となると少傅を兼務し、詹事を省いた。崇廣傅訓、太尉賈充に太保を兼務させ、司空の齊王・司馬攸に太傅をかねさせ、吏屬を旧来のように戻した。(中略)
その後、太尉で汝南王の司馬亮、車騎將軍の楊駿、司空の衛瓘、石鑒らは全員が傅や保を兼務した。官属を管理する機能は、傅や保の着任者が持っていたから、詹事は武帝のときはずっと置かれなかった。
惠帝の元康元年、再び詹事を置いた。(中略)司馬遹が皇太子に立つと、六傅、三太、三少を設置した。司馬師の名を避けて、「太師」を「太保」と改称した。尚書事を省き、代わりに詹事の文書は、六傅が管理した。元康年間(291-300)の後、諸傅は2人だったり3人だったり、4人だったり6人だったりした。永康年間になると、詹事が置かれることはなかった。
太安(302-303)になると詹事が置かれ、懐帝の時代が終わった。東晋になってからは、太傅と少傅があり、師と保は立てられなかった。

咸甯三年,衛將軍楊珧與中書監荀勖以齊王攸有時望,懼惠帝有後難,因追故司空裴秀立五等封建之旨,從容共陳時宜於武帝,
以為「古者建侯,所以籓衛王室。今吳寇未殄,方岳任大,而諸王為帥,都督封國,既各不臣其統內,於事重非宜。又異姓諸將居邊,宜參以親戚,而諸王公皆在京都,非扞城之義,萬世之固」。
帝初未之察,於是下詔議其制。有司奏,從諸王公更制戶邑,皆中尉領兵。其平原、汝南、琅邪、扶風、齊為大國,梁、趙、樂安、燕、安平、義陽為次國,其餘為小國,皆制所近縣益滿萬戶。又為郡公制度如小國王,亦中尉領兵。郡侯如不滿五千戶王,置一軍一千一百人,亦中尉領之。
于時,唯特增魯公國戶邑,追進封故司空博陵公王沈為郡公,钜平侯羊祜為南城郡侯。又南宮王承、隨王萬各於泰始中封為縣王,邑千戶,至是改正縣王增邑為三千戶。制度如郡侯,亦置一軍。


咸甯三(277)年、衛將軍の楊珧と中書監の荀勖は、齊王の司馬攸が声望があり、司馬衷が暗君で国難を招くことを恐れた。だから、司空の裴秀が五等を封建することを申し出たとき、楊珧と荀勖は司馬炎に願い出た。彼ら曰く、
「古代に侯を建てたのは、王室を守るためです。いま孫呉の抵抗が終わっておらず、地方の守備は重要な仕事です。諸王を帥(指揮官)として、封じられた國の軍隊を都督させなさい。異姓の諸將に辺境を守らせ、諸王公がみな洛陽にあるのは、扞城之義と萬世之固に違反します」
司馬炎ははじめ同意しなかったが、後に諸王公を国に封じることを詔した。有司が奏上し、諸王公の戸邑の制度を変更し、中尉が兵を率いた。平原、汝南、琅邪、扶風、齊を大國として、梁、趙、樂安、燕、安平、義陽を次國とした。,その他を小國として、近い縣を繰り入れて萬戸に増やした。郡公の制度を小國の王と同じにして、中尉に兵を率いさせた。郡侯は五千戸の王より待遇を悪くして、一軍に1100人を置いて、中尉がこれを管理した。
このとき、特別に魯公国の戸邑を増やして、もと司空で博陵公の王沈を郡公とし、钜平侯の羊祜を南城郡侯とした。また南宮王の司馬承と、隨王の司馬萬は、ぞれぞれ泰始中(265-274)に縣王となり、邑千戸から三千戸に増やされた。制度は郡侯と同じで、一軍を置いた。

自此非皇子不得為王,而諸王之支庶,皆皇家之近屬至親,亦各以土推恩受封。其大國次國始封王之支子為公,承封王之支子為侯,繼承封王之支子為伯。小國五千戶已上,始封王之支子為子,不滿五千戶始封王之支子及始封公侯之支子皆為男,非此皆不得封。其公之制度如五千戶國,侯之制度如不滿五千戶國,亦置一軍千人,中尉領之,伯子男以下各有差而不置軍。大國始封之孫罷下軍,曾孫又罷上軍,次國始封子孫亦罷下軍,其餘皆以一軍為常。大國中軍二千人,上下軍各千五百人,次國上軍二千人,下軍千人。其未之國者,大國置守土百人,次國八十人,小國六十人,郡侯縣公亦如小國制度。既行,所增徙各如本奏遣就國,而諸公皆戀京師,涕泣而去。及吳平後,齊王攸遂之國。

このときから、皇子で王になれない人はおらず、諸王の支流や庶流は、みな皇帝の一族として領土を与えられた。大國と次國に封じられた家柄は公となり、その後継は侯となり、その下の代では伯となった。小國で五千戸以上の三代目と、五千戸未満の二代目と、公侯の次代は、みな男(爵)となり、爵位をもらえない人はいなかった。
公には五千戸の國の制度が適用され、侯には五千戸未満の国の制度が適用され、一軍の千人が置かれて中尉が率いた。伯子男以下には、それぞれ違いあがり、軍が置かれなかった。(中略)
封国の制度が施行されると、任国に行けと強く命じられたから、諸公はみな洛陽を恋しがり、涕泣して去った。孫呉を平定すると、斉王の司馬攸はついに国に赴任した。

護羌、夷、蠻等校尉,案武帝置南蠻校尉于襄陽,西戎校尉于長安,南夷校尉于甯州。元康中,護羌校尉為涼州刺史,西戎校尉為雍州刺史,南蠻校尉為荊州刺史。及江左初,省南蠻校尉,尋又置於江陵,改南夷校尉曰鎮蠻校尉。及安帝時,于襄陽置甯蠻校尉。
護匈奴、羌、戎、蠻、夷、越中郎將,案武帝置四中郎將,或領刺史,或持節為之。武帝又置平越中郎將,居廣州,主護南越。

護羌、夷、蠻らの校尉は、武帝が設置した。南蠻校尉は襄陽に、西戎校尉は長安に、南夷校尉は甯州に置かれた。元康中、護羌校尉を涼州刺史とし、西戎校尉を雍州刺史とし、南蠻校尉を荊州刺史とした。
東晋のはじめ、南蠻校尉を省いて江陵に置きなおし、南夷校尉を改めて鎮蠻校尉と言った。安帝のとき、襄陽に甯蠻校尉を置いた。
護匈奴、羌、戎、蠻、夷、越中郎將は、武帝が設置した。四中郎將を置き、あるいは刺史が兼任し、あるいは持節がこの役目をした。武帝は平越中郎將も廣州に置いて、南越を護らせた。


以上、省略しまくっていますが、おもしろそうなところは訳せたと思います。配下の組織(人数や俸禄など)は、訳すまでもなく見たままなので、ほとんどやってません。
どこをどれだけ省いたかは注記してないので、網羅的に読み返そうと思ったら、再び原典を参照するしかありません(笑)090328
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>『晋書』志第十四「職官」の翻訳
1)国を作った八公
2)名誉職と殺害権
3)皇帝の文机の周り
4)泣きながら洛陽を去る