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『晋書』志第十四
「
職官」の翻訳
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3)皇帝の文机の周り
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僕射,服秩印綬與令同。案漢本置一人,至漢獻帝建安四年,以執金吾榮郃為尚書左僕射,僕射分置左右,蓋自此始。經魏至晉,迄于江左,省置無恆,置二,則為左右僕射,或不兩置,但曰尚書僕射。令闕,則左為省主;若左右並闕,則置尚書僕射以主左事。
尚書僕射は、服も秩も印綬も、尚書令と同じである。漢でもともと1人置かれた。献帝の建安4年、執金吾だった栄郃を「尚書左僕射」としたときから、僕射を左右に分けることが始まったのだろう。魏を経て西晉になり、東晋になっても、設置はコロコロかわり、左右僕射の2つを置いたり、尚書僕射の1つを置いたりした。左右のどちらかが欠員するなら、尚書左僕射だけが置かれた
列曹尚書,案尚書本漢承秦置,及武帝遊宴後庭,始用宦者主中書,以司馬遷為之,中間遂罷其官,以為中書之職。至成帝建始四年,罷中書宦者,又置尚書五人,一人為僕射,而四人分為四曹,通掌圖書秘記章奏之事,各有其任。 其一曰常侍曹,主丞相禦史公卿事。其二曰二千石曹,主刺史郡國事。其三曰民曹,主吏民上書事。其四曰主客曹,主外國夷狄事。後成帝又置三公曹,主斷獄,是為五曹。
後漢光武以三公曹主歲盡考課諸州郡事,改常侍曹為吏部曹,主選舉祠祀事,民曹主繕修功作鹽池園苑事,客曹主護駕羌胡朝賀事,二千石曹主辭訟事,中都官曹主水火盜賊事,合為六曹。並令僕二人,謂之八座。尚書雖有曹名,不以為號。靈帝以侍中梁鵠為選部尚書,于此始見曹名。及魏改選部為吏部,主選部事,又有左民、客曹、五兵、度支、凡五曹尚書、二僕射、一令為八座。及晉置吏部、三公、客曹、駕部、屯田、度支六曹、而無五兵。咸寧二年,省駕部尚書。四年,省一僕射,又置駕部尚書。太康中,有吏部、殿中及五兵、田曹、度支、左民為六曹尚書,又無駕部、三公、客曹。惠帝世又有右民尚書,止于六曹,不知此時省何曹也。及渡江,有吏部、祠部、五兵、左民、度支五尚書。祠部尚書常與右僕射通職,不恆置,以右僕射攝之,若右僕射闕,則以祠部尚書攝知右事。
列曹尚書は、漢が秦を継いで設置した。前漢ノ武帝は後庭で遊宴し、はじめて宦者を中書に用いた。この役目をしたのが司馬遷で、皇帝と外臣の取次ぎをする職が不要になり、中書の職位が確立した。成帝の建始4年、中書に宦者を使うのを止め、尚書を5人置いた。1人は僕射で、他の4人は四曹となり、圖書・秘記・章奏のことを担当した。4人にはそれぞれ任務があった。
1人目の常侍曹は、丞相・禦史・公卿(中央政治)を担当した。2人目の二千石曹は、刺史・郡國(地方政治)を担当した。3人目の民曹は、主に吏民・上書(民政)を担当した。4人目の主客曹は、外國・夷狄(外交)を担当した。のちに成帝は、5人目の三公曹を設置して、斷獄(裁判)を担当させた。「五曹」となった。
後漢の光武は、三公曹主に、毎年諸州郡の査定をさせた。「常侍曹」を「吏部曹」に改めて、選舉祠祀(人選と儒教の祭)を担当させた。民曹には、繕修・功作・鹽池・園苑(土木工事)を担当させ、客曹主には護駕羌胡朝賀(異民族の管理)を担当させ、二千石曹には辭訟(裁判)を担当させた。「中都官曹」を新しく置いて、水火盜賊(治安)を担当させ、「六曹」とした。僕を2人置いて、「八座」と呼んだ。
尚書は「曹」と呼ばれていたが、晋代ではそう呼ばない。後漢ノ靈帝は、侍中の梁鵠を「選部尚書」と呼んだから、これが「曹」から「中書」に変わった最初だろう。魏は「選部曹」を「吏部曹」と改めた。選部曹はの仕事を継承させた。これ以外の、左民曹、客曹、五兵曹、度支曹とともに総称して「五曹尚書」と呼び、二僕射と一令とともに「八座」と呼んだ。
晋になると、吏部、三公、客曹、駕部、屯田、度支の六曹を設置して、五兵曹をなくした。咸寧二(276)年、駕部尚書を省いた。。四(278)年、僕射を1つ省いて、再び駕部尚書を設置した。太康年間(280-290)、吏部、殿中、五兵、田曹、度支、左民を「六曹尚書」と呼んだ。駕部、三公、客曹は置かれなかった。惠帝のとき、「右民尚書」を置いて、「六曹」とは言わなくなった。このとき、どのポストが省かれたのかは不明である。
東晋になると、吏部、祠部、五兵、左民、度支が「五尚書」とされた。祠部尚書は、いつも右僕射とともに通職であるが、常置ではなかった。設置されないときは、右僕射が代行した。もし右僕射が欠員すれば、祠部尚書が代行した。
散騎常侍,本秦官也。秦置散騎,又置中常侍,散騎騎從乘輿車後,中常侍得入禁中,皆無員,亦以為加官。漢東京初,省散騎,而中常侍用宦者。魏文帝黃初初,置散騎,合之於中常侍,同掌規諫,不典事,貂榼插右,騎而散從,至晉不改。及元康中,惠帝始以宦者董猛為中常侍,後遂止。常為顯職。(中略)
著作郎,周左史之任也。漢東京圖籍在東觀,故使名儒著作東觀,有其名,尚未有官。魏明帝太和中,詔置著作郎,於此始有其官,隸中書省。及晉受命,武帝以繆徵為中書著作郎。元康二年,詔曰:「著作舊屬中書,而秘書既典文籍,今改中書著作為秘書著作。」於是改隸秘書省。後別自置省而猶隸秘書。著作郎一人,謂之大著作郎,專掌史任,又置佐著作郎八人。著作郎始到職,必撰名臣傳一人。(中略)
散騎常侍は、もとは秦の官だ。秦は散騎と中常侍を設置した。散騎の騎兵は輿車の後に従い、中常侍は禁中に入ることができた。定員はなく、他の官位に兼務で任命された。後漢のはじめ、散騎を省き、中常侍には宦者を用いることにした。 曹丕の黄初年間のはじめ、散騎を再び設置し、中常侍と役割を合わせた。どちらも古典に照らして違反することがあれば、諌める仕事をした。貂榼插右、その名の通り騎馬して車に従うことは、晋代も同じであった。 元康年間になると、惠帝は宦官の董猛を中常侍としたが、後に止めた。いつも顯職にある人が兼務するようになった。(中略)
著作郎は、周で左史が任じられた官である。後漢の書籍は東觀(東の宮殿)に納められたから、その名前を取って「儒ハ東觀ニ著作ス」と言ったが、まだ官名ではなかった。 魏ノ明帝(曹叡)の太和年間に、詔して著作郎を設置した。このときから著作郎という官が始まり、中書省に属した。晋が禅譲を受けると、武帝は中書著作郎に改めた。元康二年に詔して曰く、「著作はもとは中書に属したが、秘書省が文籍を作っているから、いま秘書省の管轄下とする」と。著作郎は定員が一人で、着任者を「大著作郎」と呼び、史書の編纂に専任した。他に「佐著作郎」を8人設置した。著作郎が初めて官職となったとき、名臣の傳(教育係)の中から1名が選ばれた。
晉初承魏制,置博士十九人。及咸甯四年,武帝初立國子學,定置國子祭酒、博士各一人,助教十五人,以教生徒。博士皆取履行清淳,通明典義者,若散騎常侍、中書侍郎、太子中庶子以上,乃得召試。及江左初,減為九人。元帝末,增《儀禮》、《春秋公羊》博士各一人,合為十一人。後又增為十六人,不復分掌《五經》,而謂之太學博士也。孝武太元十年,損國子助教員為十人。(中略)
晉ははじめ魏の制度を引き継いで、博士を19人置いた。咸甯四(278)年、司馬炎は國子學を立てて、國子祭酒を設置し、博士を1名ずつ、助教を15名ずつ任命して、生徒を教育させた。博士はみな清淳を履行して、典義に詳しい人を選んだ。散騎常侍、中書侍郎、太子中庶子より上位であれば、博士になるための諮問を受けられた。 東晋のはじめ、9人に減らされた。元帝(司馬睿)の末期、『儀禮』と『春秋公羊』の博士を1人ずつ置いたから、合計で11人となった。のちに16人に増員されたが、再び『五経』を担当することはなく、「太學博士」と呼ばれた。孝武帝の太元十年、助教員は10人に減らされた。
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このコンテンツの目次
>『晋書』志第十四「職官」の翻訳
1)国を作った八公
2)名誉職と殺害権
3)皇帝の文机の周り
4)泣きながら洛陽を去る
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