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『晋書』志第十四 「 職官」の翻訳 2)名誉職と殺害権
諸公及開府位從公者,品秩第一,食奉日五斛。太康二年,又給絹,春百匹,秋絹二百匹,綿二百斤。(中略)諸公及開府位從公為持節都督,增參車為六人,長史、司馬、從事中郎、主簿、記室督、祭酒、掾屬、舍人如常加兵公制。

諸侯および開府して公になった人は、(九品のうち)品秩は第一で、1日に5石が支給された。太康2(281)年の春に絹100匹を給わり、秋に絹200匹と綿200斤を給わった。(中略)諸侯および開府で公になった人が、持節都督となると、参車が6人に増やされ、長史、司馬、從事中郎、主簿、記室督、祭酒、掾屬、舍人は平時と同じだったが、兵は増員されるルールだった。

特進,漢官也。二漢及魏晉以加官從本官車服。無吏卒。太僕羊琇遜位,拜特進,加散騎常侍,無餘官,故給吏卒車服。其餘加特進者,唯食其祿賜,位其班位而已,不別給特進吏卒車服,後定令。特進品秩第二,位次諸公,在開府驃騎上,冠進賢兩梁,黑介幘,五時朝服,佩水蒼玉,無章綬,食奉日四斛。太康二年,始賜春服絹五十匹,秋絹百五十匹,綿一百五十斤。元康元年,給菜田八頃,田騶八人,立夏後不及田者,食奉一年。置主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人,給安車黑耳駕禦一人,軺車施耳後戶一乘。

特進は、漢代の官である。前漢と後漢および魏晋では、「特進」の官号を追加しても、もとの職位の車服のままで、吏卒は新たに与えられなかった(名前に箔がつくだけである)。太僕の羊琇が特進を拝命し、散騎常侍を加えられたが、職務が変更されることはなく、吏卒と車服は以前のままだった。 特進を追加で与えられた人は、ただ褒賜がもらえるだけで、職位はそのままである。特進としての吏卒や車服があるわけではない。これは、後にルール化された。
特進の品秩は第二で、位は諸公に次ぎ、開府や驃騎将軍の上である。服装は、進賢兩梁の冠で、黑介の幘を着け、五時朝服、佩水蒼玉、印綬はなかった(特進としての仕事はないから)。日に4石を支給された。太康2(281)年、春に絹50匹を、秋に絹150匹と綿を150斤給わった。(以下略)

左右光祿大夫,假金章紫綬。光祿大夫加金章紫綬者,品秩第二,祿賜、班位、冠幘、車服、佩玉,置吏卒羽林及卒,諸所賜給皆與特進同。其以為加官者,唯假章綬、祿賜班位而已,不別給車服吏卒也。又卒贈此位,本已有卿官者,不復重給吏卒,其餘皆給。
光祿大夫假銀章青綬者,品秩第三,位在金紫將軍下,諸卿上。漢時所置無定員,多以為拜假賵贈之使,及監護喪事。魏氏已來,轉複優重,不復以為使命之官。其諸公告老者,皆家拜此位;及在朝顯職,複用加之,及晉受命,仍舊不改,複以為優崇之制。而諸公遜位,不復加之,或更拜上公,或以本封食公祿。其諸卿尹中朝大官年老致仕者,及內外之職加此者,前後甚眾。由是或因得開府,或進加金章紫綬,又複以為禮贈之位。泰始中,唯太子詹事楊珧加給事中光祿大夫。加兵之制,諸所供給依三品將軍。其餘自如舊制,終武、惠、孝懷三世。
光祿大夫與卿同秩中二千石,著進賢兩梁冠,黑介幘,五時朝服,佩水蒼玉,食奉日三斛。太康二年,始給春賜絹五十匹,秋絹百匹,綿百斤。惠帝元康元年,始給菜田六頃,田騶六人,置主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人。

左右の光祿大夫は、假金の印章を紫綬で提げた。光祿大夫で、金章に紫綬を与えられた人は、品秩が第二である。祿賜、班位、冠幘、車服、佩玉と、吏卒や羽林(近衛)および兵卒を置ける待遇は、特進と同じである。光祿大夫を加えられた人は、ただ仮に印綬を与えられるだけで、給与と職位は以前のままだった。車服や吏卒は新たに与えられなかった。特進の位を贈られた人は、はじめから卿に就いていて、給料と吏卒が重複して与えられることはなかった。
光祿大夫は、假銀の印章を青綬で提げて、品秩は第三である。金紫の將軍の下位で、諸卿の上位である。漢が光祿大夫を設置したとき、定員はなかった。多くは光祿大夫になると、賵贈之使や監護喪事を仮に務めた。魏氏になると、褒美としての意味が濃くなり、光祿大夫としての仕事はなくなった。諸公の年長者は、みな光祿大夫を与えられた。すなわち、すでに朝廷で顕職にある人が、重複して拝命したのである。
晋が禅譲を受けても、そのやり方を改めず、えらい人を「優崇」するための官名となった。諸公が光祿大夫になっても、待遇が加えられることはなかった。もしくは同時にさらに上の位に任命された。諸卿の尹(長官)で、朝廷で高官&高齢であった人のうち、内外の職ともに光祿大夫となった人が、とても多かった。光祿大夫には、開府したり、金章紫綬を与えられた人が多かった。光祿大夫は、「禮贈之位」なのだ。
泰始年間(265-275)、ただ皇太子に詹事(小言で指導)しただけで、楊珧は光祿大夫となった。加兵のルールは、三品の將軍と同等である。それ以外は漢代と同じである。光祿大夫の設置は、武帝・恵帝・懐帝の3世で終わった。
光祿大夫は、卿と同じ中二千石で、進賢兩梁冠、黑介幘、五時朝服、佩水蒼玉というスタイルで、食奉は日に3石。太康二(281)年、はじめ春に絹50匹を給わり、秋に絹100匹と綿100斤を給わった。惠帝の元康元(291)年、菜田6頃と田騶6人を給わり、主簿、功曹史、門亭長、門下書佐を各1人ずつ置いた。

驃騎已下及諸大將軍不開府非持節都督者,品秩第二,其祿與特進同。置長史、司馬各一人,秩千石;主簿,功曹史,門下督,錄事,兵鎧士賊曹,營軍、刺奸、帳下都督,功曹書佐門吏,門下書吏各一人。其假節為都督者,所置與四征鎮加大將軍不開府為都督者同。
四征鎮安平加大將軍不開府、持節都督者,品秩第二,置參佐吏卒,幕府兵騎如常都督制,唯朝會祿賜從二品將軍之例。然則持節、都督無定員,前漢遣使始有持節。光武建武初,征伐四方,始權時置督軍禦史,事竟罷。建安中,魏武為相,始遣大將軍督之。二十一年,征孫權還,夏侯惇督二十六軍是也。魏文帝黃初三年,始置都督諸州軍事,或領刺史。又上軍大將軍曹真都督中外諸軍事、假黃鉞,則總統內外諸軍矣。魏明帝太和四年秋,宣帝征蜀,加號大都督。高貴鄉公正元二年,文帝都督中外諸軍,尋加大都督。及晉受禪,都督諸軍為上,臨諸軍次之,督諸軍為下;使持節為上,持節次之,假節為下。使持節得殺二千石以下;持節殺無官位人,若軍事,得與使持節同;假節唯軍事得殺犯軍令者。江左以來,都督中外尤重,唯王導等權重者乃居之。

驃騎将軍以下および大將軍のうち、開府ではなく持節都督でなければ、品秩第二で、俸禄は特進と同じである。長史と司馬を1人ずつ置き、秩は千石である。主簿、功曹史、門下督、錄事、兵鎧士賊曹、營軍、刺奸、帳下都督、功曹書佐門吏、門下書吏を1人ずつ置いた。
假節を受けて都督となれば、四征将軍や四鎮将軍や、大將軍で開府せずに都督となった人と同待遇であった。
四征将軍、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍と、大將軍で開府せずに持節で都督となった人は、品秩が第二である。參佐吏卒を置き、幕府の兵騎は、平時の都督のルールに則った。朝廷の俸禄は、二品の將軍と同じだ。
持節と都督には、定員がない。前漢が(皇帝の裁断権を貸し与えて)持節を遣わしたのが、始めである。光武帝の建武初(西暦25年)、四方を征伐し、はじめて督軍禦史を設置したが、後漢が統一すると廃止になった。
建安中(190年代)曹操は丞相となり、将軍に軍を監督させた。建安21年、孫権を討ちに行って撤退すると、夏侯惇に26軍を督させたのがこの例だ。曹丕の黄初3年、はじめて「都督諸州軍事」あるいは「領刺史」を設置した。上軍の大將軍だった曹真は、都督中外諸軍事となり、假黄鉞を預かり、内外の諸軍事を総統した。曹叡の太和4年秋、司馬懿が蜀を討ちに行くと、大都督の称号を加えられた。曹髦の正元2年、司馬昭は都督中外諸軍となり、大都督を加えられた。
晋が禅譲を受けると、都督諸軍を上位として、臨諸軍がこれに次ぎ、督諸軍がその下位とされた。すなわち、使持節が上位で、持節がこれに次ぎ、假節が下位とされたのだ。使持節は、二千石以下を死刑にできた。持節は、官位のない人を死刑にできた。出陣中であれば持節は、使持節と同じように二千石以下を死刑に出来た。假節は、ただ出陣中に軍令を違反した人を殺せた。
東晋になると、都督中外がもっとも重要な職位となり、ただ王導ら有力者がこれに就任しただけだった。

三品將軍秩中二千石者,著武冠,平上黑幘,五時朝服,佩水蒼玉,食奉、春秋賜綿絹、菜田、田騶如光祿大夫諸卿制。置長史、司馬各一人,秩千石;主簿,功曹,門下都督,錄事,兵鎧士賊曹,營軍、刺奸吏、帳下都督,功曹書佐門吏,門下書吏各一人。
錄尚書,案漢武時,左右曹諸吏分平尚書奏事,知樞要者始領尚書事。張安世以車騎將軍,霍光以大將軍,王鳳以大司馬,師丹以左將軍並領尚書事。後漢章帝乙太傅趙憙、太尉牟融並錄尚書事。尚書有錄名,蓋自憙、融始,亦西京領尚書之任,猶唐虞大麓之職也。和帝時,太尉鄧彪為太傅,錄尚書事,位上公,在三公上,漢制遂以為常,每少帝立則置太傅錄尚書事,猶古塚宰總己之義,薨輒罷之。自魏晉以後,亦公卿權重者為之。
尚書令,秩千石,假銅印墨綬,冠進賢兩梁冠,納言幘,五時朝服,佩水蒼玉,食奉月五十斛。受拜則策命之,以在端右故也。太康二年,始給賜絹,春三十匹,秋七十匹。綿七十斤。元康元年,始給菜田六頃,田騶六人,立夏後不及田者,食奉一年。始賈充為尚書令,以目疾表置省事吏四人,省事蓋自此始。

三品将軍のうち秩禄が中二千石の人は、著武冠、平上黑幘で、五時朝服、佩水蒼玉というスタイルで、食奉と春秋に賜る綿絹、菜田、田騶などが、光祿大夫や諸卿のルールと同じであった。(以下略)
録尚書は、前漢の武帝のときに設置され、左右曹諸吏は平尚書の奏事を分けたもので、樞要の機密を知る職務は、尚書事が兼ねた。光武帝のとき、張安世が車騎將軍となり、霍光が大將軍となり、王鳳が大司馬となり、師丹は左將軍と領尚書事となった。後漢の章帝のとき、太傅の趙憙と太尉の牟融は、どちらも録尚書事となった。 尚書に「録」が付いて官名となるのは、おそらく趙憙と牟融のときが最初だろう。また長安で領尚書の職務が作られたのは、きっと唐虞(尭と舜)だろう。和帝のとき、太尉の鄧彪が太傅と録尚書事となり、位は三公を上回った。これが後漢の慣例となった。幼い皇帝が立つごとに、太傅と録尚書事が置かれた。着任者が死ぬと、この立場は除かれた。
魏晉以後は、幼帝でなかろうが、公卿のうち權重な人が録尚書事となった。
尚書令は、秩は千石で、銅印墨綬を假に与えられ、冠進賢兩梁冠、納言幘を被り、五時朝服,佩水蒼玉というスタイルで、食奉は月に50石。晋が禅譲を受けるときに作文を担当したのは、端右に在るからである。(中略)はじめ賈充が尚書令となり、過失を咎めて上表で4人の官吏を辞めさせたが、尚書令が役人を辞めさせたのはこれが最初であろう。

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このコンテンツの目次
>『晋書』志第十四「職官」の翻訳
1)国を作った八公
2)名誉職と殺害権
3)皇帝の文机の周り
4)泣きながら洛陽を去る