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宦官コンプリート作戦 6)誤解された霊帝
霊帝は、万金堂を西園につくり、大司農が集めた金銭や絹布(国税)を収めた。まるで西園に、銀行や取引市場を作りたかったようだ。また故郷の河間国に広大な土地を買い、第観(高層ビル)を建てた。地域振興の公共事業である(笑)
――霊帝は貧しい皇族出身で、前任の桓帝は(帝室の)家産を作れなかった。だから霊帝、私蔵に励んだ。
『後漢書』がこう書くものだから、霊帝が貧困生活の反動で、卑しい金儲けに走ったようにイメージされる。しかし、誤解だ。霊帝は金の儲け方に主眼があり、宦官は金を儲けることに主眼があった。結果は似ていても、根本的に異なる。
時系列をぼかして、
「張常侍は私の父、趙常侍は私の母」
と霊帝が言っていたと書いてある。おそらく、180年以前で、まだ霊帝が宦官を信任していたときの台詞だ。黄巾ノ乱で覚醒してからの話ではない。史書は末尾に、時期は確定しないが、いかにもそれらしいエピソードを配してくる。その類いだ。
またかつて霊帝は、永安の見晴台(北宮の東北)に登ろうとした。
天子は高いところに登ってはいけません。高く上れば、百姓は虚しく散ってしまいます」
もとは宮殿に閉じこもって、現場を見なくなることを諌めた故事だ。これを最古参の宦官が曲解して引用して、霊帝が遠方を見渡すのを止めさせた。
なぜなら、宦官が自分の豪華な屋敷を見られるのを恐れたからだと。これも宦官がまだ霊帝に正体を見せる前の話だろう。

翌年、鉤盾令の宋典に命じて、南宮の玉堂を修繕させた。
掖庭令の畢嵐に、銅人を鋳造させ、東門と北門に立てた。
天禄(獣)と蝦蟇を鋳造させ、水を像から吐き出させて、宮殿に流れ込ませた。器械を製造し、川から道に散水する仕組みを作った。産業や芸術を振興する投資なのか、贅沢な趣味なのか、このあたりになると分からない。もし事実なら、経済通の霊帝もやや驕ったと言えようし、文飾ならば、平凡な贅沢皇帝を描き出しただけだ。
霊帝は、四出文銭を鋳造した。中央から4本の模様が放射状に出ているから、この名がある。
識者は、
「奢侈と残虐がひどい。この銭の模様は、国家の未来を暗示している。洛陽が陥落して、この銭は四道(全方向)に飛び散るだろう」
と不吉な予言をして、霊帝を批判した。
果たしてのその通りとなり、四出文銭は四海に流布した。
・・・ええっと、霊帝の政策は大成功じゃないか(笑)
作った銭が広く流通するとは、その信用と有用性が認められたということだ。良かったじゃないか。
この話の直後に、趙忠を車騎将軍にして、100余日で辞めさせたと書いてある。つまり、四出文銭は宦官と一緒になってやった愚策だと言いたいらしい。
話は違うが、曹操の軽薄さを嘲ろうとして、ゲタゲタ談笑したことが書かれている史書がある。これは期せずして、闊達な曹操の人間味を、後世のぼくらに宣伝することになった。これと同じパタンで、霊帝の馬鹿ぶりを書き立てるはずが、彼の先見を遺してしまった。

189年、霊帝が死んだ。
中軍校尉の袁紹は大将軍の何進に、宦官全滅を説いた。張譲と趙忠は先手を打ち、何進を殺した。袁紹は趙忠を斬り、宦官を老いも若きも斬った。
張譲ら数十人は、天子(少帝)をおどして人質とし、黄河のほとりに逃げた。急追を受けたので、張譲は哭いた。
私たち(宦官)が全滅すれば、天下は乱れるでしょう。陛下は、自愛なさいませ」
同じ台詞を聞いたと思ったら、呂強だ。彼が趙忠に殺されるとき、乱を予測したんだ。
張譲は、少帝と献帝の寝覚めが悪くなるような不気味なことを、あえて言っただけかも知れない。意地悪である。しかし、光武帝に中常侍を専属で任されて以来、宦官が国家を保ってきたという自負が、にじみ出たんじゃないか。
宦官は、みな黄河に身を投じて死んだ。。

これで宦者伝をコンプリートしたかと言えば、
していない。。
なぜなら、梁冀を倒した五侯、私権を最も貪った侯覧、党錮を作った曹節などを、飛ばしているからです。
「放恣しましたよ」と言いたいがために、難しい漢字をいっぱい使っている文章を読むと、飽きてくるのです(笑)
これは後日に補うとして、、後漢の宦官の流れをまとめておきます。

宦官に定職を与えたのは、光武帝だった。皇帝権力は、豪族の中で不安定だったから、最後まで味方となってくれる存在として、人ならぬ宦官を配して、未来に備えた。
その狙いは4代和帝のときに的中した。外戚の竇憲に迫害された和帝は、鄭衆の力を借りて復権した。これ以降、皇帝がまず身近に頼るのは宦官で、孫程は順帝の即位を助け、曹騰は桓帝の即位を助けた。
宦官に対する皇帝の恩返しは、五侯が梁冀を倒したときに、ピークを迎えた。世襲と列侯を保障された宦官は私財を貯め、郊外に巨大な屋敷を構えた侯覧がその象徴的な成功例だ。
曹節は霊帝を迎えて、党錮ノ禁も発動。政治的な影響力は、曹節のときにピークになった。
これまで宦官は、栄誉をもらっても一代限りで舞台の袖に消えた。養子は許されたが、子供が出来ないという身体的な特徴ゆえか、どうも主導権が断絶しがちである。だがこの頃から組織を形成して、権力の継承を始めた。これが強さの秘密だ。
曹節を継いだのが趙忠と張譲だった。彼らは、霊帝の目が届かないところで、金儲けに励んだ。「十常侍」と言われた集団が、宦官の組織化の結晶である。
このとき霊帝の国庫回復政策と、宦官の収奪万歳政策が、民にダブルで圧し掛かった。民の財布は1つなのに、2つの場所から重複して徴発されるから、もう我慢できなくなった。
黄巾ノ乱をきっかけに、宦官のやり方に対する批判が投げかけられた。霊帝は、宦官が裏でやっていたことを知り、趙忠・張譲を押さえ込む。彼らは衰退期の宦官である。皇帝と対立したというのは、宦官権力にとって自殺に等しい。
霊帝の死後に皆殺しにされ、宦官の歴史は幕を下ろした。

黄巾の張角が、宦官とどういう繋がりがあったのか、気になり始めたので、そのうち考えて見ます。「落第した官僚」というのが、『演義』の設定だったが、実際のところどうなんだろう。090306
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このコンテンツの目次
>宦官コンプリート作戦
1)きっかけは和帝
2)曹騰と、正義派の呂強
3)霊帝の疵を映す明鏡
4)孟達の父親
5)三張の三角関係
6)誤解された霊帝