いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』口語訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
ユニット名は「涼西の三明」 9)段熲が貴んだ宦官
段熲は180戦し、3万8600の首級を獲り、家畜を42万7500頭も得たが、費用は44億を使った。
段熲に従って死んだ軍士は400余人。死者数は決して多くはないが、三国志の感覚でこの数字を見てはいけないと思う。
三国時代は、同じ天の下で、相互が意思を持って衝突した。しかし段熲がやったのは、追いかけっこである。局地戦で勝っても、羌族にメリットは何もない。志を証明する必要はない。彼らは掠奪を終えたら、逃げる。段熲は追う。もし羌族が逃げそこなったとき、そこに段熲の戦果が生まれた。非生産的な話だ。従軍した軍士の死因1位は、交通事故(落馬や墜落等)や環境の変化による病気じゃないか。
「新豊県侯とし、邑は10000戸を与える」
段熲は大いに朝廷で認められた。
彼は仁愛のある将軍で、士卒が疾病をわずらうと自ら見舞い、キズの手当をしてやった。いかにも素晴らしい行いだが、 戦となれば命を捨ててもらう必要があるから、それくらいやっただろう。
段熲が辺境にあることは10余年、1日としてベッドで休むことはなく、将士と苦しみを共にした。だから将士は死戦を厭わなかった。。

170年春、洛陽に戻った。秦胡(民族の混成部隊)50000人と、汗血千里の馬、奴隷兵10000余人を率いた。
大鴻臚が遣わされ、段熲を慰労した。大鴻臚は九卿の1つで、諸王や諸侯の世話をする。
段熲は侍中を拝し、執金吾(洛陽警護)、河南尹を歴任した。
「馮貴人の陵が暴かれ、遺骨が晒されました」
怖ろしい報告が入った。暴かれたのは、桓帝の貴人の陵である。陵をこじ開けるとは、最大の侮辱である。さすがに段熲であろうとも、統治の責任を問われた。諌議大夫に左遷させられた。だがすぐに復帰して司隷校尉になった。どうやら左遷は、世間を納得させるためのパフォーマンスだったようだ。
宦官は、冤罪を生産するのが得意である。何もしなくても人を死刑にできる政権担当たちが、明らかに落ち度のあった段熲を許した。
かつて皇甫規は、
「西域の将軍は、軍資を懐に入れてしまう」
と批判していた。これは当たっているようで、段熲が宦官への賄賂をずっと払えたのは、軍事予算を自分の口座に振り込んでいたからだろう。誰かが儲かるから、戦争は行われるのだ。段熲は、戦争が得意な自分の特性を発見し、金儲けのために、
「羌族を全滅すべし」
と口にしていたのかも知れない。疑わしいことだ。彼が異民族を憎むイデオロギーを形成した体験が見当たらないし、それどころか彼は異民族を率いていた。

『後漢書』は段熲の軍功を讃えるような書き方をしているが、宦官との癒着を糾弾することも忘れない。
――段熲は、意を宦官のために曲げ、それゆえに富貴を保った。
こう表現されている。
ついに段熲は中常侍・王甫の与党となり、冤罪で中常侍・鄭颯と董騰を殺した。この功績?で4000戸を増され、14000戸からの税収を得た。ますます金回りが良くなった。
翌年、李咸の後任で大尉になった。冬に病を理由に罷め、司隷校尉になった。これは、「三公経験者」という肩書きが欲しかっただけである。見え見えである。
数年経ってから頴川太守になり、洛陽に戻って太中大夫になった。天子の下問に答える名誉職みたいなポジションである。
179年、橋玄の後に大尉となった。数ヶ月後に日蝕があった。
「あの日蝕は、私の政治がいけないからです」
段熲は自らを罰して、辞職を願った。
もともと政治なんかやってないから、どういう落ち度なのか不明である。しかし廷尉は仕方なく、段熲から印綬を取り上げた。
ときの霊帝は官位を売っていたから、段熲のように売上に貢献してくれる臣を、大切に思った。列伝には何も書いていないが、段熲の思惑はそこにあり、タイを釣るためのエビが、三公を買う費用だったのだろう。三公は実入りがないから、ちょっと安いしね。
もしくは王甫に、
「私のノルマ達成に協力しなさい」
と詰め寄られたのかも知れない。だから段熲は、同じものを2個も買わされた。他の位はすでに買い手が付いていたか。もしくは虐殺バカである段熲が、司空や司徒では不相応だからか。
携帯電話の契約台数がノルマに届かず、使わない端末を複数持っている人がいたが、それと同じだ。

宦官と一体となった段熲に、最期が訪れた。
「王甫を誅すべし」
司隷校尉の陽球が、濁流に叛旗を掲げた。段熲も親玉の宦官に連座し、獄中で詰責された。
「段熲伝」には、末尾にちらっと王甫との関係が書かれるだけだが、2人は昨日今日の結びつきではないだろう。段熲が遠征しているとき、王甫に付け届けを欠かさなかった。だから段熲は、皇甫規や張奐のように、官界の遊泳に苦労しなかった。
段熲はチン毒を飲んで死んだ。彼の遺族は辺境に移された。
なぜ死んだのだろうか。諦めが早すぎはしないか。きっと、王甫が失脚したからだ。これに尽きるだろう。王甫抜きでは、どのみち洛陽で生き残れないことを知っていたから、段熲は死を選んだ。他の宦官とのコネは緩いから、どのみち罪を着せられる。
死後に中常侍・呂強が、段熲の名誉回復を願った。霊帝は、妻子を本郡に帰らせてやった。

皇甫規は、あざなを威明という。
張奐は、あざなを然明という。
段熲は、あざなを紀明という。
彼らは似ているということで、「涼州の三明」というユニットだと洛陽では認識された。去年もてはやされた「羞恥心」とか「悲愴感」とか、そういう類いである。本当は各個人のキャラクターはバラバラなのに、無理やりに男性3人を括ったものだ。
皇甫規は「日の目を見ない自分宣伝部長」で、張奐は「故郷を失った不器用な学者先生」で、段熲は「宦官と癒着した偽りの民族主義者」だ。
このページを作るまでは、ぼくは「3人は協力して、異民族の侵攻を防いだんだろうな」くらいに思っていた。まるで違った!

長くなりましたが、これで終わりです。
『後漢書』の列伝55をネタに、翻訳だか考察だか小説だか分からんものを書いてきました。
全9回、お付き合いいただいてありがとうございました。
月曜の夜に「梁冀伝を祖先に遡って読もう」と思ったのに、図書館で該当する巻を借りておらず、急遽手元にあった中から、面白そうな列伝を見繕いました。会社に通いつつ書き、同じ週の土曜の朝に完成しました。発見が多かったので、やって良かったと思います。 090228
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
ユニット名は「涼西の三明」
皇甫規
1)敗北を見抜いた若者
2)降伏は金で買えますか
3)私を党錮に処しちゃって
張奐
4)金離れの超人
5)外戚恐怖症の過ち
6)故郷の土になりたい
段熲
7)囚人から并州刺史へ
8)東西羌のホロコースト
9)段熲が貴んだ宦官