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後漢の「御三家」、章帝八王 2)よき兄、よき廃太子
■劉慶の家
清河孝王の劉慶。母は宋貴人である。
宋貴人は、宋昌の8予の孫で、扶風郡は平陵県の人。後漢の成立当初は、関中の豪族が外戚になったと総括されるが、それに洩れない人だ。
宋昌とは、前漢文帝のときに中尉になった。文帝は初め、北の果ての代王で、呂后の禍いを避けて生き延びた。代王のときに文帝を助けたから、宋昌は壮武侯になった。

父の宋揚は、恭順で孝行だとして、故郷で有名だった。州郡から声がかかったが、応じなかった。宋揚のおばは、明帝の馬皇后(馬援娘)の外祖母である。分かるような分からんような、血縁の距離感だ。
馬皇后は、宋揚の2人の娘はどちらも才色があると聞いて、手元において教育した。
永平(58-75年)末、選ばれて太子宮に入り、まだ皇太子だった章帝から寵愛を受けた。章帝が即位すると、貴人となった。
78年、姉の方が劉慶を産んだ。翌年、2歳の劉慶は皇太子となった。この子が聡明かなど、誰も分からない。分かったとしても、親バカの領域だ。明帝の馬皇后が手塩にかけた宋氏が産んだから、劉慶は次代を約束された。
父の宋揚は、議郎になり、褒美をたっぷり取らされた。
宋貴人は人事(俗事)に長けた。長楽宮にいて自ら食事を作った。
「みっともないわ」
馬太后は、これを憐れんだ。

のちに馬太后が死に、章帝の寵愛が竇皇后に移った。こうなると、全てを独占したくなるのが、人情なのだろうか。
「後ろ盾の馬氏が死んだから、好機です。宋氏は、姉妹で貴人だ。しかも皇太子の母だ。ああ、ねたましい。なんとか陥れたいものだ。些細なことでもいいから、宋氏の過失を探しなさい」
竇皇后は、母と謀った。竇憲ら兄弟をはじめ、御者まで動員して、宋氏の疵を探した。
「あったわ!」
掖庭の門で、宋貴人の私信を没収した。
「病気だから、生の根なしカズラを食べたい。家から持ってきて」
と書いてあった。竇皇后はこれを証拠として、
「蟲道で呪い殺そうとしています。カズラは、呪術に使うつもりです」
言いがかりであるが、宋貴人の悪口を、日夜ねちねちと章帝に吹き込んだ。この記述を見る限り、呪術の疑いはかからなかったんだろう。
章帝はファザコンだが、女性へのこだわりは薄かっただろう。女性問題で面倒が起きるの嫌いだ。
「もう分かったから、その話を已めよ」
章帝は、宋貴人と子の劉慶を疎んじるようになった。

劉慶は、母の疑いが晴れるまでの数ヶ月、承禄観(中蔵府に属す)に住んだ。竇皇后は、掖庭令にそれとなく吹き込み、宋貴人の周囲を探り、罪状を固めるように仕向けた。
「皇太子を代えよう」
82年、章帝は劉肇を新しい皇太子にした。母は梁貴人で、のちの和帝である。数え5歳で、劉慶は廃嫡された。
「劉慶は、失惑無常(精神錯乱)の性が、乳児の頃からある。幼児になって症状がよく出るようになった。恐らく母の凶悪の風を継いだんだろう。皇帝には相応しくない。大義は、父子の情を上回るべきだ。まして劉慶を殺そうと言うのではなく、皇太子から降ろすだけだから、騒ぐほどのことではない。劉慶は清河王にしよう」
ほんとうに「失惑無常」なのは、宋貴人を陥れた竇皇后なのかも知れない。この竇皇后が、後漢で初めての怖ろしい外戚となるんだから、章帝の判断ミスである。
「新しく皇太子にする劉肇は、竇皇后に保育されて、懐に抱かれる幼少のときから、善性を発揮する人格の器を形成してきた。皇后が正しく育てた劉肇こそ、皇太子に適任である」
章帝は、あまり家庭を省みなかったっぽい。
それもそのはずで、章帝は中央にあっては能力不足ゆえに、時間がなかった人だ。父の明帝は、テンポよく裁きを下したが、章帝はそこまで頭が回らない。だから現実逃避したくて、地方巡幸に熱中した。地方にあっては、父系と孔子の祭りに情熱を傾けたから、皇子たちの発育に脳のキャパが割かれていない。
「ぼくは慈母が怖い」
慈母とは、『儀礼』にある言葉で、育ての母の意味だそうだ。劉肇(のちの和帝)は、竇皇后に懐いていなかった。母から引き離され、母の上司たる皇后の手元に置かれたが、これは愛ゆえではない。劉慶への対抗馬として、おもちゃにされたんだ。
子供は直感が優れているから、竇皇后が宋貴人をハメたことを、勘付いていたに違いない。
劉肇の心理風景など、後世のぼくが知るわけがないのだが、即位後に竇一族を自殺に追い込んだことや、竇皇后が死んだ直後に実母の名誉回復をしたこと に、和帝の幼少期からの積年の葛藤が伺える。

皇太子を外された劉慶。母の宋貴人姉妹は、丙舎(序列3の建物)に移動させられ、小黄門の蔡倫に事実確認をさせた。蔡倫は、皇后の意向をそれとなく感じ取っていて、
「宋貴人は有罪です」
と決め付け、暴室に送った。姉妹は、薬を飲んで自殺した。章帝はこれを憐れに思い、洛陽の北に葬った。
章帝としては、命を問うほどの心積もりがなかっただろうが、女系にとっては廃太子はそれほどの重大事だったのだ。いわゆる女心の機微が分からないとかではなく、皇后という王朝のシステムを分かっていなかったのではないか。この無関心が、やがて後漢を滅ぼすタネとなる。
父の宋揚を免職にした。本籍地に帰ろうとしたとき、郡県は皇后に迎合して、宋揚を逮捕した。友人達が奔走して無罪を証明してくれたが、憔悴して家で死んだ。
「・・・」
劉慶はまだ5歳で捺さなかったが、疑いが及ぶことを警戒して、母一族が受けた仕打ちについてコメントしなかった。
「皇后よ、慶が可哀想だ。太子と同じ服装を許してやれ」
服装とはファッションではなく、待遇である。章帝は、今さら情け心を発揮した。劉肇は、廃太子の兄を親しみ愛し、入りては室を、出ては輿を同じくした。和帝が即位しても付き合いは変わらず、とても厚く待遇され、諸王のなかでも比がなく、つねに私事を話した。5歳で位を奪われてしまった劉慶は、孤独な和帝のよい兄貴だったようだ。

劉慶は成長したので、丙舎に済んだ。
92年、和帝が白虎観で議論をさせているとき、劉慶は禁中で生活することが出来た。和帝が学問に熱中しているとき、皇帝代行のような立場を期待されたんだろう。白虎観で和帝は、1つの私人に戻ることができた。彼の正体は孤児なんだ。
「『漢書』の外戚伝が読みたい」
和帝は、竇氏を誅そうと思ったとき、前例を学びたいと思った。しかし左右に命じては、意図が漏れてしまう可能性がある。そこで、兄の劉慶に頼んで、ひそかに弟の劉伉から『漢書』を借りてきてもらった。夜にこっそり、差し入れてもらった。
また劉慶から中常侍の鄭衆に頼んでもらって、皇帝が外戚を倒した前例を探してもらった。文帝が薄昭を誅し、武帝が竇嬰を誅したことが参考になった。
大将軍の竇憲が誅せられると、劉慶はたっぷり褒賞を受けた。丙舎から出て邸宅を持ち、奴婢300人、輿と馬、銭と帛、珍宝などを屋敷に満たした。劉慶に仕える宦官以下、左右の人も銭帛をもらった。

劉慶はよく病になり、重くなったときがあった。和帝は朝夕に見舞って、膳と薬を勧めた。劉慶は小心(生真面目)で恭順孝行だったから、皇太子を退けられたから、畏れ慎んだ振る舞いをした。逆恨みはしなかったようだ。
陵墓と宗廟に拝謁するときは、夜半のうちに完璧に仕度を整え、夜明けを待った。自分の役人には、
「諸王と車騎を争ってはいけない」
と言い聞かせた。ともすると臣下は、
「オレは皇帝の兄の臣だ!家柄に劣る諸王の臣は、道を譲れ」
と驕りかねなかったんだろう。わざわざ注意をしたんだから、そういう弊害があったのだ。気持ちは分かる(笑)
「ああ、母上・・・ご無念・・・」
劉慶は、母の宋貴人の葬礼を行えなかったことを、いつも感恨した。私室に祭壇を設けて、四季ごとに祀った。母を竇太后に殺された孤児というのは、劉慶と和帝は同じである。だから余計に仲は深まったのだろう。家庭環境が似ていると、とても結束は強まるらしい。
竇氏を誅した後、初めて乳母に命じて、洛陽の北の遠方に母を祭ることができた。竇太后が死ぬと、
「塚に登って哀悼を示したい」
と和帝に願い出た。同じ境遇の和帝が許さないはずはなく、太官(飲食係)に命じて、四時の祭具を支給した。劉慶は涙を流した。
「私が生きているうちに、母を供養することは出来ないと思っていた。私の願いは成就した」
これを読むと、劉慶と和帝は、母を自ら祭りたいから竇太后を倒したという気配すら漂う。劉慶の言葉として残ったことは、たとえ本紀になくても、和帝の言葉でもある。
劉慶は祠堂を作りたいと思ったが、遠慮をした。弟・和帝の母の梁貴人が優先である。梁氏は、一族をことごとく竇太后に殺されたから、それと同列に祀ることは遠慮した。列伝には書いていないが、和帝と同列に母の祭りをしては、帝位争いがキナ臭くなるから、勃発の3歩手前で予防したと言えよう。
「祠を作れないことは、没歯(死の年齢まで)の恨みだ・・・」
皇太子を外された兄の悲しみである。
しかしこれでは浮かばれないから、母方の祖母に医薬を与えるため、洛陽に住まわせたいと願った。遠回しに、母系の宋氏を復官させてくれと言ったに等しい。和帝は心得たもので、母の兄弟の宋衍、宋俊、宋蓋らが郎となった。

次回、和帝が真情を明かしてくれます。
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このコンテンツの目次
>後漢の「御三家」、章帝八王
1)質帝を出した長男家
2)よき兄、よき廃太子
3)皇帝を供給する家
4)最後の勝者