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後漢の「御三家」、章帝八王 3)皇帝を供給する家
103年、日蝕があった。有司曰く、
陰が陽を侵すとは、諸王が和帝を侵すことです。諸王を、任国に行かせてしまいなさい」
和帝は嫌がった。
「日蝕は朕1人のせいだ。幼少で父母の養育から離れ、成人後は自分で自分の面倒を見ているが、いつも父母が懐かしい。兄弟に恋着する優柔不断な心は、国典(公式なルール)には違反しているが、兄弟たちには洛陽にいてほしい」
父の章帝は早くして死んだが、継母の竇太后がいただろ、とツッコミたくなる。つまり和帝は、竇太后を母として数に入れない。
章帝は男系を強化するために、王国を増やした。和帝は父母の愛に飢えたから、父が残してくれた藩屏を最大限に活用をして、政治をやった。和帝個人のキャラクターは表に出てこないが、兄弟とともに皇帝業をやって、列国の繁栄の基礎を約束した。
冬に祖先の陵墓を参り、諸王に羽林40騎ずつを与えた。もし西晋ならば、この羽林を率いて、諸王が皇帝を倒すために攻めあがってくるのです。しかし後漢にそんな物騒は起きない(笑)

のちに劉慶の中傅(教育係)が、ひそかに財物の千万を盗んだ。
「どうして劉慶は、罪を検挙しなかったのか。黙認していたことも、また罪に当たらないかね」
和帝が聞くと、劉慶は答えた。
「私の師傅(先生)は、人格が尊くて皇帝から選ばれた人です。愚かな私は、師傅の教えを聞くことはあっても、罪を摘発していいものではない」
「そのとおりだね」
和帝は、没収した私財を劉慶に与えた。
――兄弟が認め合う様子は、このようであった。
この一文は列伝にはないが、お決まりのパタンからすれば、そういうことだ。末尾に、もっとも象徴的なエピソードを置いて、全ての出来事を代表させるのだ。
この挿話を読んでみると、兄弟の馴れ合いが見えてくる。甘くて締まらない。これでは臣下が拍子抜けして付いて来ないと思うんだが、これが心細い和帝の限界だ。
和帝が死ぬと、劉慶は前殿で号泣し、数升の血を嘔いて、病を発して死んだ。あなたは袁術ですか(笑)ひどく哀しむ常套表現なのだね。

和帝が死ぬと、鄧太后が政治をした。翌年に諸王は、国に行くことになった。劉慶が発つとき、鄧太后が言った。
「清河王は特別な家だ。中尉と内史を置いてよい。和帝が使っていた什物を、持たせなさい。宋衍(劉慶のおじ)を清河の中大夫として付けましょう」
和帝の生活用品(乗輿の上御)を持っていくというのが、イキな計らいです。和帝と劉慶は、不即不離の兄弟であったことを、和帝の皇后は見ていたんだろう。
劉慶は清河国で令を下した。
「私は洛陽で生まれ育ちました。幸せが薄いことに、弟の和帝が死んでしまったから、着任して来ました。どうぞご指導をよろしく」
鄧太后は、和帝の子である殤帝がまだ赤子であるから、万が一のために劉慶の長男の劉祜を洛陽の藩邸に住ませた。秋に殤帝が予定ぴったりで死んだから、劉祜を皇帝にした。安帝である。

劉慶は清河王になって25年が経過してから、国に赴任した。その歳、病が篤くなった。おじの宋衍らに言った。
「清河国は、低湿地で土壌が痩せているから、ここに葬られたくない。洛陽の北で母とともに葬ってくれたらもう他に何も要らないよ」
同じことを鄧太后にも願って、劉慶は死んだ。
全く愛着のない、来たばかりのド田舎に葬られるのは、とてもイヤだったんだね。清河国に着任してすぐに死んだのは、水に親しめなかったからじゃないか。皇太子となり、皇帝の親しき兄となり、ずっと都会暮らしをしてきたんだから。
享年29。東海恭王(光武帝の長子、明帝の兄)に則って、葬礼が行われた。子が皇帝になったことを知って死んだ。

劉慶が葬られることをボイコットした清河国は、劉慶の子の愍王、劉虎威が継いだ。
107年、鄧太后は、宋衍を盛郷侯とした。
清河国を分割して、劉慶の幼子の劉常保を「広川王」にした。劉慶の子女11人は、みな郷公主となり、封邑と俸禄を与えられた。彼らは安帝の弟や妹だから、特別なのだ。
翌年、劉常保が死んだ。子がないから、国は除かれた。
劉虎威は3年で死に、こちらも子がなかった。鄧太后は、楽安王の劉寵(劉伉の子)の子である劉延平を、清河王とした。これを恭王という。

鄧太后が死ぬと、皇帝の父であるから、劉慶は「孝徳皇」を贈られた。
劉延平は35年を王として過ごし、子の劉蒜が継いだ。沖帝が崩御すると、劉蒜は洛陽に呼ばれて、皇帝になりそうだった。
藩王から皇帝を出した実績は、清河国にしかない。系図だけ見ると、えらく遠くから引っ張ってきたなあ、という感想を持ってしまいがちだが、そうではない。 しかし、たまたま大将軍の梁冀が、質帝を立ててしまったから、帰国した。
劉蒜のDNAは章帝の長兄・劉伉の系統であり、質帝の従兄である。しかし劉蒜は清河王だから、質帝とは遠い。彼らが感じていた立場は系図には表れていない。
今回死んだ沖帝は、安帝の孫だ。だから劉蒜は沖帝から見て、ともに劉慶を曽祖父に持つ族兄という間柄になる。質帝と沖帝は、さらに2代遡って章帝まで行かないと交わらない。
劉蒜は、人となりが厳重(威厳があって重々しい)で、動止に度があった(立ち居振る舞いに節度があった)。大尉の李固らは、心を寄せていた。
中常侍の曹騰が劉蒜に謁したとき、劉蒜は礼をなさなった。このとき、曹騰を寒いところで長時間待たせたというのは、宮城谷さんの創作のようです。列伝には書かれていない。
曹騰はこれによって劉蒜を憎んだ。公卿はみな、
「血筋も人柄も劉蒜だ」
と正議したのだが、曹騰は反対した。 質帝が死ぬと、また劉蒜を立てる声が高かったが、曹騰は桓帝を立てた。劉蒜は罪を得てしまった。
147年、甘陵の劉文は、南郡の妖賊の劉イと交通して、デマを言いふらした。
「清河王は、まさに天下を統ぶべし」
劉文は、清河相の謝コウをおどした。清河の王宮の司馬門で、
「劉蒜を天子とし、謝コウを公とすべきだ」
と言った。謝コウはこれを聞き入れず、劉文を罵った。だから劉文は、謝コウを刺殺した。劉文と劉イは捕えて誅されたが、劉蒜に火の粉が飛んだ。
よく分からない事件だが、国内のファンの暴発をうまく御しきれなかった、謝コウに責任があるんだろうね。
劉蒜は連座して、尉氏侯となり、桂陽郡に流されて自殺した。3年の在位で、国が耐えた。

「清河とは、気取った名前だ」
梁冀はこの国名を憎み、翌年に「甘陵国」とした。甘陵とは、さっきの劉文の出身地だ。おそらく国内の県名か何かだろう。
梁太后は、安平孝王の劉徳(劉開の子)の経侯・劉理を、甘陵王とした。劉慶の祀りを行わせて、威王と呼んだ。
劉理は25年王位にあって死に、子の貞王・劉定が継いだ。4年で死に、子の献王・劉忠が継いだ。黄巾に捕えられたが、霊帝はこの不名誉を許した。
「親族を親愛すべきだ」
という理由によって、劉忠に国を返してやった。王位に13年あって死んだ。嗣子は黄巾に殺されてしまったので、206年に断絶によって国は除かれた。

とてもイベントの多い国で、皇帝になるチャンスが3回訪れた。「皇帝の血筋が絶えたら皇族を供給する」という、徳川幕府の御三家みたいな役割を果たした。それから、血筋が2回も交代した。
はじめは劉慶の家で、安帝を輩出することに成功。次は劉伉の家となり、劉蒜が沖帝と質帝の後を期待されたが、和帝母の血筋・梁氏に邪魔されて失敗した。
最後は、桓帝・霊帝が属する劉開の家になった。皇帝に血が近い人が「清河王」でなくてはいけないから、乗っ取りをかけられたのだろう。
次は、劉寿の家と劉開の家です。
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このコンテンツの目次
>後漢の「御三家」、章帝八王
1)質帝を出した長男家
2)よき兄、よき廃太子
3)皇帝を供給する家
4)最後の勝者