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後漢の「御三家」、章帝八王 4)最後の勝者
■劉寿の家
済北恵王の劉寿。
母の申貴人は、頴川郡の人。 世世二千石の家である。貴人は13歳で掖庭に入った。
劉寿は90年に封じられ、泰山を分割して済北国とされた。
「劉氏を大切にせよ」
章帝はそう言い遺したから、和帝はよく守った。兄弟はみな洛陽に留まって、皇帝からの恩寵は手厚くて細やかであった。和帝は諸王を国に行かせなくなかったから、和帝が死んで初めて国に就いた。
107年、劉寿の母方のおじ・申転が新亭侯となった。
劉寿は31年王位にあって死んだ。和帝の兄弟の中ではとても長寿だ。生存年数だけ言えば、この人が皇帝になっていればマシだった(笑)

永初(107-113)以後は、戎狄が叛乱して、後漢の国庫は不足した。ルールでは、始封の王が死ねば、葬儀料の支給を減らして千万とし、布は万匹とする。嗣王が死ねば、半分とする。
これらの事情に関わらず、劉寿は皇帝に血筋が近いから、葬儀料は三千万、布は三万匹であった。

子の節王・劉登が継いだ。120年、劉登の弟5人を封じて郷侯とし、みなそれぞれ泰山郡に封邑を与えられた。
劉寿は子沢山だったことが分かる。珍しい。
劉登は15年して死に、子の哀王・劉多が継いだ。3年で死に、子がなかった。139年、戦郷侯の劉安国を建てた。キ王という。どこの誰だか知らないが、劉寿の孫の誰かだろう。
劉安国は7年で死に、子の孝王・劉次が継いだ。劉次は、9歳で父を失って、至孝であった。きっと喪の服し方が、素晴らしかったのだろう。147年、梁太后に褒められた。
劉次は17年で死に、子の劉鸞が継いだ。劉鸞の子の劉政が継いだ。子が耐えたから、206年に国を除かれた。清河王と同じ歳に国を除かれているから、曹操が整理をしてしまったのだろう。

とくにイベントがなく、孝行の家として辛うじて朝廷に思い出された程度だ。つまらない(笑)
■劉開の家
最後の勝者となった家としても過言ではない!

河間孝王の劉開。90年に封じられ、楽成・渤海・タクを分けて国とした。106年、国に就いた。
このスケジュールは、他の国と同じです。和帝の死までは洛陽にいて、和帝の寂しさを紛らわせるのに役立った。
劉開は法度を遵奉して、吏人を敬った。
120年鄧太后は、劉開の子の劉翼を「平原王」に封じて、懐王の劉勝(和帝の子)の祀りを任せた。劉開の子の劉徳を「安平王」にして、楽王の劉党(明帝の子)の祭りを任せた。
『後漢書集解』に照らすと、文が欠落しているという。劉翼と同時に、済北王の劉寿の子・劉チョウが、「楽成王」となった。これが鄧太后の死後に国を除かれたから、その後に「安平王」が就いたという。
劉翼のみが優遇されていなかったと気づけたのは嬉しい指摘だが、ハッキリいって、どうでもいい(笑)

劉開は42年王位にあって死に、子の恵王・劉政が継いだ。劉政は傲狼(傲慢でひねくれた人)で、法憲を封じなかった。父親と正反対の性格である。
順帝のとき、侍御史をやっている呉郡の沈景は、劉政を牽制するために、辣腕を買われて河間相となった。劉政はこの新しい国相がきたとき、服を正さず、殿上に足を投げ出して座っていた。
侍郎が拝礼の号令をかけても、沈景は頭を下げずに直立したままだった。
「王はどこにいるか」
沈景は訊いた。虎賁(護衛兵)が劉政を示して、
「この方が王ではないか」
と当たり前に答えた。何か凝った問答を仕掛けようとしている文官に、真正面から答えるとは、虎賁は愚を犯したものである(笑)沈景は、待ってましたとばかりに吼えた。
王服を着ていなければ、王はどこが常人と違うのか。私は国相として王に謁します。どうして無礼者に謁しなければならんか」
劉政は恥じて服を改めたから、沈景は拝した。
沈景は宮門の外にいて、王の傅(教育係)を呼んで責めた。
「洛陽を出るとき、私は順帝から詔を受けました。王を検督(見張り)するようにと。諸君は虚しく爵禄を受けながら、義を指導しなかった
沈景が中央に告発したから、劉政は順帝から攻められ、教育係は詰責された。もっともひどい奴ら数十人は殺され、無実の百余人まで巻き込まれた。
「私が悪かった」
劉政は節を改め、自ら修めた。
132年、劉政の弟13人は亭侯となった。いつも思うんだが、いつも皇帝は子ができないのに、地方の王は子宝がバブっている。洛陽には、萎えさせる悪い空気でもあるんだろうか。

劉政は10年で死に、子の貞王・劉建が継いだ。劉建は10年で死に、子の安王・劉利が継いだ。劉利は28年で死に、子の劉ガイが継いだ。41年して魏が禅譲を受けたので、崇徳侯になった。
劉政という、いいキャラを登場させたんだが、河間王の本筋は傍流として、無難に大政奉還(笑)を迎えてしまうのでした。しかし、傍流の亜流から、桓帝・霊帝・献帝が産まれます。

レイ吾侯の劉翼。
119年、鄧太后は、済北王の劉寿、河間王の劉開の諸子を洛陽に集めた。劉翼は劉開の子だが、儀容(礼儀にかなった姿)が麗しいをの「奇」だとして、子がいなくて断絶した平原懐王・劉得を継がせた。しかし劉翼は洛陽に留まった。
数年して、鄧太后が死んだ。後ろ盾を失った。
安帝の乳母・王聖、中常侍の江京らは、鄧騭兄弟や劉翼について、あらぬ噂を流した。
「神器をパクッて、大逆の心を抱いています」
劉翼は平原王から都郷侯に落ち、河間の親元に返された。劉翼は賓客を謝絶して、門を閉ざしてジッとしていた。
130年、父の劉開は上書した。
「私の子の劉翼は、もう充分に反省しております。私の国からレイ吾県を分割して、封じてやって下さいませ」
順帝はOKしてくれた。
レイというのは字が難しいんだが、虫がウジャウジャしている。「蜀」というのが蔑称であるのと同じように、未開拓のロクでもない土地というニュアンスだろう。劉開がわざとここを選んだのは、親心かも。
「ダサい名前の封地ならば、中央の心を逆撫でしない。むしろ一種の罰として、解釈されるんじゃないか。字面は二の次でいいから、劉翼を窮屈な生活から出してやりたい」
列伝のどこにも書いていないが、劉翼は、兄の劉政に虐められたのかも知れない。充分にありえそうなことだ。
「兄と別居させてやらないと、ただでさえ謀反の罪を着せられて落ち込んでいる弟は、身が持たないぞ」
劉開が、とても優しい父になってきた(笑)

劉翼が死に、子の劉志が継いだ。桓帝である。
「劉開を孝穆皇と呼ぼう。劉翼を孝崇皇と呼ぼう」
桓帝が傍流から即位したために、後漢に架空の「穆帝」と「崇帝」が誕生してしまった。ちなみに劉慶は「徳帝」だった。
148年、桓帝の弟で、都郷侯の劉碩を「平原王」とした。劉翼が鄧太后に封じてもらった国が復活しました。しかし劉碩は酒が好きで、過失が多かった。桓帝は、馬貴人に家政を管理させた。206年、国を除かれた。また206年に取り潰しとは、曹操恐るべし。

以上から分かるように、桓帝は劉翼の亡霊です。
劉翼は、あわよくば将来の皇帝かという寵愛を鄧太后から受けたのに、謀反の罪で引きこもり、汚い名前の県に封じられた無念の人でした。

ここらは、霊帝に向かう伏線となります。
解トク亭侯の劉淑。
河間王の劉開の子だから、亭侯に封じられた。
劉淑が死ぬと、劉チョウが継いだ。
劉チョウが死ぬと、劉宏が継ぎ、大将軍の竇武に立てられた。霊帝だ。
168年、竇太后は劉淑を「孝元皇」とした。チョウを「孝仁皇」とした。中常侍を河間に行かせて、祀らせた。
またしても架空の皇帝「元帝」と「仁帝」が生まれてしまった。
174年、河間安王の劉利の子、劉康を済南王として、仁帝(霊帝の父)を祀らせた。劉康が死ぬと、子の劉贇(イン)が継いだが、207年に黄巾に害された。子の劉開が継いだが、13年で禅譲があり、国王でなく崇徳侯となった。
「劉開」って、祖先と名前がかぶってる!無頓着にも程がある!
章帝には他に、城陽懐王の劉淑、広宗殤王の劉万歳がいたが、いずれも夭折した。
■劉肇の家
劉肇とは、和帝の名前です。
平原懐王の劉勝は、和帝の長子。母は不明。幼いときから痼疾(病気)で、106年に封じられたが6年で死んで、洛陽に葬られた。
子がなかったから、鄧太后は、劉寵の子の劉得を立てた。哀王という。
和帝の長子の家だから、和帝系の皇帝の正統です。
劉得は6年で死に、子がなかった。120年、鄧太后は、劉翼を立てた。宮城谷さんは、鄧太后は劉翼を次の皇帝にしたかったと書いていたが、平原王を継がせたから根拠はある。
安帝のとき、国は除かれた。和帝も、章帝から拡がったたくさんの家の祖の1人だとすれば、劉翼が挫折したときに滅びたと言える。

これで列伝は終わりです。
後漢の皇帝の交代劇を、劉伉、劉慶、 劉肇、劉開という4人の兄弟の系統の主導権の取り合いだと見ると、とても納得がいくね。090310
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このコンテンツの目次
>後漢の「御三家」、章帝八王
1)質帝を出した長男家
2)よき兄、よき廃太子
3)皇帝を供給する家
4)最後の勝者