-後漢 > 袁術の伝記『仲書袁術本紀第一』をまじめに書く

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第1回 汝南袁氏の貴公子として四十歳に

袁術の伝記を、まじめに書いてみようと思います。

汝南袁氏に生まれる

袁術、あざなは公路。汝南郡の汝陽県のひと。

「四世三公」の家

いわゆる「四世三公(趙翼『二十二史箚記』巻五)」の家柄である。その内実は、五世代・約百二十年にわたり、上公(三公の上位)を二名、三公を四名、輩出した。上公とは、太傅の袁隗、大将軍の袁紹である。三公とは、司徒・司空の袁安、司空の袁敞、太尉・司徒・司空の袁隗、司空の袁逢。なお袁隗は、霊帝期に二回、司徒となるが、重複するため三公の人数に含めていない。

中本圭亮「汝南袁氏に関する二・三の問題」(『三國志研究』第八号2013)の整理に従う。以下、「中本2013」と表記する。


四世代以上、三公を輩出した家は、ほかに弘農楊氏のみで、四世代に四名の三公を輩出した。楊震・楊秉・楊賜・楊彪である。弘農楊氏に次ぐのは、汝南許氏である。「月旦評」を行った許劭の兄の系統は、三世代に四名の三公を輩出した。許敬・許栩・許相である。
これ以外に、三世代以上、三公を輩出した家は他にない。後漢では、一人でも三公を輩出すれば「公族」と称され(百十八家が該当)、二世代続けば「累世三公」と称され(十七家が該当)、それだけでも特殊なことであった。五世代にわたって三公を出した、袁氏の傑出性がわかる。
袁氏は、三公以上の就任者が三公以上の就任者が多いだけでなく、個々人の在任期間も長い場合が多かった。これが、「袁氏 恩を四世に樹て、門生・故吏 天下に徧(あま)ねし」(『范書』列伝六十四 袁紹伝)という情況を準備し、献帝期、袁紹・袁術が天下を二分するに至る。

のちに孫策が、袁術の皇帝即位を批判して、張紘に作成させた書簡に、「五世 相と為り、権の重、勢の盛、天下 得て焉に比する莫し」(『陳志』巻四十六 孫策伝にひく『呉録』)と見える。同時代の認識においても、汝南袁氏は「四世」どころか「五世」の宰相を出した、並ぶものなき官僚家であった。

家学『孟子易』

後漢の官僚家には、家学があった。袁氏の家学は『孟子易』である。前漢の孟喜の解釈による『易』学の一派である。当時、『孟子易』は、前漢の京房の解釈による『京氏易』とともに主流を占めた。

前述の弘農楊氏は、初代の楊震が『欧陽尚書』を学んで「関西の孔子、楊伯起」と呼ばれ、二代の楊秉は父の学問を継承し、『京氏易』も学んだ(『范書』列伝四十四 楊震伝)。

袁氏の家学は、初代の袁安の祖父・袁良まで遡る。袁良が『孟子易』を学び、平帝期(001-005)に明経に挙げられ、太子舍人となった。袁安は、祖父から『孟子易』を習い、この文化資本が五世六公の原資となった。
家学は、袁術の世代まで継承された。袁隗(袁術の叔父)の子である袁満来は、「易学を明習す」と、同時代の蔡邕によって描写されている(『蔡中郎集』巻九「袁満来碑銘」)。

袁満来のことは、中本2013より。


袁術の勉学の態度は、史料に見えない。『范書』袁術伝に、「少きとき侠気を以て聞こえ、数〻諸公子と鷹を飛ばし狗を走らす」とあり、一見すると熱心ではない。士大夫として必須の教養は習得したが、学者として世に顕れるほどではない、という程度であろうか。
袁氏が複数世代にわたり三公を輩出できたのは、家学という文化資本の賜物である。袁氏の家が、無学を許すはずがなかった。

『陳志』巻一 武帝紀にひく『曹瞞伝』に、「太祖 少きとき鷹を飛ばし狗を走らすことを好み、遊蕩は度無し」とあるが、曹操は無学ではない。「飛鷹走狗」は、名門の子弟に共通の遊びであり、かつその人物の青年期を譏るときの常套句であろう。


袁術の生年

袁術の生年は、史料に見えない。手掛かりは、従兄もしくは庶兄の袁紹である。袁紹の生年は、中本2013によって、質帝期の本初元年(146) と推定されており、これは石井仁『魏の武帝 曹操』の「十歳ちかく年長」とも符合する。
つまり袁術は、本初元年(146) 年以降の生まれとなる。

祖父の袁湯の時代

後漢の官職は世襲制ではない。これが、複数の世代で連続して三公を輩出することを難しくする。袁氏もまた、袁安・袁敞の父子が三公となり「累世三公」に加わるが、以後、袁敞の系統から三公は生まれない。同じ条件なら、ほかに十七家あり(既述)、袁氏が特別とはいえない。
転機は、袁敞の従子・袁湯(袁術の祖父)が、外戚の梁冀と協力して、桓帝を皇帝の位に即け(146)、安国亭侯・食邑五百戸に封じられたとき訪れる。袁湯以降、袁氏は続々と三公を輩出する。
後漢の爵位は世襲制である。袁湯が封じられた安国亭侯が、袁氏の嫡流として権勢をもつ。この安国亭侯の帰趨が、袁紹・袁術の対立にまで影響を及ぼす。

奇しくも、桓帝の即位(袁湯が安国亭侯となる)と、袁紹の誕生が同年である。袁術もまた、数年以内に生まれたはずである。栄華の起点である袁湯は、孫の袁紹・袁術の顔を見ることができたと思われる。
また袁紹・袁術は、幼少期、祖父と協調関係にあった、悪名高き、外戚の梁冀の時代を見ているのである。『范書』梁冀伝に描写された、国富の大半をついやした豪奢な邸宅に、招かれたこともあったであろう。

袁湯の没年は分からないが、永興元年(153) 冬十月、太尉を免じられた。袁湯伝の末尾は、「累遷司徒・太尉、以灾異策免。卒,謚曰康侯」であり、免官後、ほどなく死んだと思われる。
梁冀の滅亡が、159年である。袁湯の長子(袁術の伯父)の左中郎将まで昇った袁成は、梁冀との付き合いがあった。袁氏が、梁冀の滅亡に巻きこまれた(もしくは巻きこまれるのを防いだ)形跡がないことから、遅くとも159年までに、袁湯は没していたのであろう。

袁氏の嫡流「安国亭侯」

左中郎将の袁成は、父の袁湯より先に死んだ。そこで次子の袁逢(袁術の父)が安国亭侯を嗣いだ。これにより、袁湯の「嗣」の家、つまり嫡流が、袁成から袁湯の系統に移った。
袁紹には、袁成の子とする説と、袁逢の庶子とする説がある。袁成の子と見るべきであろう。

中本2013が、袁成の子の説を採る。誤読だったらすみません。

つまり袁紹は、袁氏宗族の長(兄の袁成の系統)に生まれたにも関わらず、安国亭侯の継承権を失った(弟の袁逢の系統に奪われた)という境遇である。
二公(袁逢・袁隗)は、袁紹を愛したため、一種の任子として(宗族の長の家であることを根拠に)袁紹を郎中とした。

袁逢の没年も分からず、霊帝の即位に協力して、「後為司空,卒於執金吾」とある。光和二年(179) 二月、司空の袁逢が罷めている。黄巾の乱が起こる前までに死に、子の袁基(袁術の兄)が安国亭侯を嗣いだと思われる。

袁基は太僕となり、初平元年(190) 三月、董卓によって殺された。
安国亭侯の爵位をだれが嗣ぐのか、懸案となった。
袁逢の系統から人を求めるなら、袁基の弟の袁術が嗣ぐべきである。いっぽうで、宗族の長としては、袁紹が嗣ぐべきである。少なくとも袁術は、宗族の長とは見なされず、輿望は袁紹を盟主に担ぐことになった。

『陳志』袁紹伝:卓聞紹得關東、乃悉誅紹宗族太傅隗等。當是時、豪俠多附紹、皆思、爲之報。州郡蠭起、莫不假其名


袁術・袁紹は、父の代から、潜在的な対立の構造に置かれていたのである。

同じ対立は再生産され、袁譚・袁尚の後継者争いを起こす。
『魏志』袁紹伝にひく『魏氏春秋』で、審配が鄴城に入りたがる袁譚を諌めて、「昔先公廢絀將軍以續賢兄、立我將軍以爲適嗣、上告祖靈、下書譜牒、先公謂將軍爲兄子、將軍謂先公爲叔父、海內遠近、誰不備聞?」といった。袁紹は、袁譚に賢兄(安国亭侯の袁基か)を嗣がせた。袁紹は袁譚を「兄の子」といい、袁譚は袁紹を叔父」と呼んだと。
袁紹は、袁譚に安国亭侯を与え(与える代わりに廃嫡して)、袁成-袁紹と継承された「安国亭侯ではないが宗族の長である」という資格を、袁尚に嗣がせようとした。


袁術の官僚生活

袁術の官僚生活は、史料がほとんどない。
官歴においては、孝廉に挙げられ、郎中に序せられ、内外の官職を歴任した。しきりに遷り、河南尹に至り、折衝/長水校尉、虎賁中郎将となった。

『陳志』『范書』などをムリに繋いでも、この程度である。

虎賁は、光禄勲に属する皇帝の直属軍。虎賁中郎将はその指揮官。
中平五年(188) 霊帝が西園八校尉を設置するが、『山陽公載記』によると、虎賁中郎将の袁紹を、中軍校尉とする。袁術は、西園軍に引き抜かれた袁紹の後任として虎賁中郎将となった――と推定すれば短絡的であろうが、ともあれ袁術・袁紹は、接近した位置にいた。
ここまでで、霊帝末=献帝初を迎える。
ほかに、『英雄記』に、袁術が尚書に属した形跡がある。

『英雄記』:袁紹辟大將軍府,不得已起從命,舉高第,遷侍禦史。弟術為尚書詔,不欲為台下,告疾求退。


この間、二回にわたる党錮事件がおきたが、父と叔父(袁逢と袁隗)の指導のもと、大過なく官歴を重ねた。袁隗は、中常侍の袁赦の同族として、政治的な協調関係にあり、袁氏の安定の一因ともなった。
こうして袁氏は、高い官職に登り、富奢は甚だしく、他の「公族」から隔絶した存在となった。もちろん、袁術もその一員である。

『范書』列伝三十五 袁隗伝:逢弟隗,少歷顯官,先逢為三公。時中常侍袁赦,隗之宗也,用事於中。以逢、隗世宰相家,推崇以為外援。故袁氏貴寵於世,富奢甚,不與它公族同。

『北堂書鈔』巻六十一 設官部によると、袁術は長水校尉となり、「路中悍鬼の袁長水」と呼ばれた。一説によると、袁術は都をわがもの顔で闊歩し、交通法規を守らないから、人々が風刺して、このように名付けたという。

すみません。ググりました。
http://zhidao.baidu.com/question/70755719.html


霊帝末、袁術は四十代の前半である。黄巾の乱が起きなければ、兄の袁基とともに、三公・九卿を歴任する、順風満帆な人生が用意されていたであろう。
しかし袁術は、直後、宮殿に斬りこんで宦官を惨殺する。三十代から四十代にかけ、現状の栄達を良しとしながら、漢家を改革する抱負を培っていたのかも知れない。改革の実現のため、人脈の形成に努めていた。

袁術の青年時代

名門の官僚でない部分、ウラの生活に目を向けよう。
袁術の性格は、『范書』袁術伝で、「数〻諸公子と鷹を飛ばし狗を走らすも、後に頗る節を折る」と、精神的な成長が記されている。「公族」の子弟とだけ放漫に遊んでいたが、後に、へりくだって幅広い階層と交際するようになった。
先述の「路中悍鬼の袁長水」を、方詩銘は、「道路でトラブルがあれば、刀を抜いて助ける」という、侠気の発動をたたえた呼称と解釈する。こちらであれば、人格的な成長後のエピソードである。

方詩銘「『気侠』之士袁術」(『論三国人物』)
方詩銘氏の「『気侠』之士袁術」を抄訳する


「節を折る」態度は、身近に、袁紹という先例がある。
袁紹は、早くに父を失って苦労をした。「紹 姿貌に威容有り、能く節を折り士に下る。士 多く之に附す」という態度を、初めから採用した。張邈・許攸ら「奔走の友」を求めた。生まれの不遇が、袁紹の人がらを形成したのであろう。
洛陽にある袁紹の邸宅の庭には、車がひしめき、貴賎を問わず人士が押し寄せ(『范書』袁紹伝)、中常侍の趙忠から警戒されるほどである。
任官に消極的であったり、六年喪で名声を稼ぐとともに、官界から距離を置いたり、党人の何顒を援助したり、袁紹の態度は、一貫して体制の批判者であった。

ここに袁術と袁紹の違いがある。
父の袁逢が存命で、兄の袁基がおり、不自由なく生きた袁術は、初めから「節を折る」必要がなかった。体制内で出世しながら、遅れて実践したところで、若干の付け焼き刃の感があったのかも知れない。

人望のない袁術

袁術の人望のなさは、『陳志』荀攸伝にひく張璠『漢紀』に逸話がある。
郭泰・賈彪と親しい何顒は、袁紹の奔走の友であり、曹操・荀彧を評価した。袁術は豪侠で、袁紹と名声を争った。何顒は袁術を評価せず、袁術に恨まれた。

袁術は、袁紹の対抗者として振る舞った。後手に回ったが、袁紹の人脈を切り崩そうとしたのであろう。嫉妬・焦燥といった人間らしい感情が見え隠れする。


荀攸伝にひく『漢末名士録』で、袁術は何顒を批判し、「何顒が、許攸・郭泰・賈彪と親しくするのは罪である」という。陶丘洪から論駁された。

陶丘洪は『陳志』華歆伝・劉繇伝に見える。『范書』孔融伝によると、平原の陶丘洪と、陳留の辺譲(後に曹操に殺害される)と名声がひとしい。いずれも、袁紹・曹操に連なる、士大夫の主流。
王芬が霊帝の廃位を計画すると、陶丘洪は華歆に「参加するな」と制止した。

ついに袁術は、南陽の宗承に「何顒を殺そう」と打ち明けた。

何顒ら党錮と結びつき、河北と曹操をつないだ荀攸伝 02
南陽宗氏は、宗世林のことらしい。
むじんさんのサイト:南陽宗氏(『喚いて叫ばざれば』)
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20060326/p2
伝記を膨らますなら、このケンカに登場した人々を分析する一節が必要。

宗承は袁術に、「何顒は英俊の士だから、善く遇せ。きみの令名を天下にひろめよ」と説得したので、袁術は何顒を殺すのをやめた。

袁術をたしなめた宗承は、『世説新語』で「松柏の志」を唱えて、最後まで曹操に屈服しなかった人物。石井仁『曹操』では、曹操と同じ年の孝廉とする。


当時のサロンの様子を想像するに、郭泰・賈彪が始め、何顒・袁紹に受け継がれた人脈の中核に、曹操・荀彧のような宦官の関係者が、新参者として接近を試みている。人物評を求めて、何顒・許劭らの識者を訪問する曹操の態度に、それが表れている。
また、袁術のような威張り散らした官僚が、サロンに乱入するのを、陶丘洪・宗承のような良識の持ち主が牽制している。
曹操・袁術といった、改革という政治目標を抱く青年(中年)は、何顒・袁紹に吸い寄せられるが、それぞれの立場が障壁となり、フルメンバーとなるのが難しい。こうした葛藤があるという点で、袁術と曹操は近い立場にある。

霊帝が崩御する

やがて袁術は、大将軍の何進から用いられる。

何進伝:袁紹亦素有謀,因進親客張津勸之曰:「黃門常侍權重日久,又與長樂太后專通姦利,將軍宜更清選賢良,整齊天下,為國家除患。」進然其言。「又以袁氏累世寵貴,海內所歸,而紹素善養士,能得豪傑用,其從弟虎賁中郎將術亦尚氣俠,故並厚待之。(『范書』何進伝)

ただし、袁紹は、何進の頼りになる参謀となり、宦官の討伐について進言するが、袁術は立案に関与できない。何進の府において、袁紹のほうが上位にいる。

後漢末の騒乱でも、袁紹はおおくの同盟者・賛同者を獲得するが、袁術の陣営は顔ぶれが淋しい。
袁紹・袁術ともに、歴史の敗者として「曹魏の礎」となったため、史料の操作に、有意の差をつける理由が見当たらない。名望・人脈において、袁術が袁紹に劣るのは、否定できない事実であろう。
ただし、袁術の人望のなさは、順風満帆な前半生の官僚生活とトレードオフである。むしろ、袁氏の絶頂期にあって、途中からでも「節を折る」ことを始めた、彼の『徳』と『志』を評価しなければ、袁術にとって、あまりに酷であろう。

こんな感じで、史料のまとめと人物評をつけて行きます。160104

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第2回 宦官を惨殺し、洛陽から南陽へ

臨朝する外戚・何氏政権の一員

中平元年(184) 黄巾の乱が起きるが、袁術・袁紹は討伐に加わらず。
中平五年(188) 秋八月、霊帝が、直属軍・西園八校尉を設置した。小黄門の蹇碩が上軍校尉となり、中軍校尉の袁紹ら、他の七人の校尉を領属するだけでなく、大将軍の何進すら領属した。
この頃、袁術は虎賁中郎将となり、やはり中央軍の指揮官のひとり。

◆霊帝が崩御する
中平六年(189) 夏四月、霊帝が崩じた。何太后の生んだ皇子・劉辯が、皇帝の位に即いた。
南陽のひと何氏は、熹平二年(173) に劉辯を生んでおり、光和三年(180) 皇后に立てられた。劉辯は史道人に養われ、「史侯」と呼ばれた。霊帝の王美人は、光和四年(181) 劉協を生んだ。何氏は、劉辯を皇位に即けるため、王美人を鴆殺した。王美人は趙国のひと、祖父の王苞が五官中郎将となった家柄。劉協は、霊帝の生母・董氏に養われ、「董侯」と呼ばれた。

中平六年(189) 四月、劉辯が即位すると、何太后が臨朝し、外戚の何氏政権が成立。後将軍の袁隗が太傅となり、大将軍の何進とともに、録尚書事に参じた。何氏政権に参与することで、袁氏から初めて、三公の上「上公」が出現した
霊帝の崩御をきっかけに、西園軍の指揮権をめぐって、蹇碩と何進の対立が起きる。虎賁中郎将の袁術は、袁紹・何顒・荀攸らとともに何進を支持する立場。宦官の全員(蹇碩を含む)の殺害を画策する。
同月(四月)中に、何進は蹇碩を殺し、屯兵を吸収した。
五月、何進は驃騎将軍の董重を殺して、兵を吸収した。董重は、霊帝の生母の従子。六月、董太后が崩御した。霊帝が崩じて二ヶ月で、霊帝の生母(董氏)と霊帝の皇后(何氏)の闘争が決着し、何氏政権が盤石となった。

袁紹は何進に、しきりに宦官の全殺を進言するが、何太后の反対にあって捗らない。西園軍の一員・典軍校尉の曹操が「失敗は目に見えている」と他人事のように計画を批評するが、これは作戦に関与できなかった負け惜しみ(石井仁氏の解釈)。発言力のある反対者は、主簿の陳琳であった。
袁術の意見は、史料に見えないが、のちの行動から察して、袁紹と同じ。だから発言が記録に残らなかった。何進からの信頼という点で、袁術は、袁紹に劣る
何進は、袁氏を味方に付けたいのであり、袁氏内部の序列には頓着しない。袁湯の子に、袁成・袁逢・袁隗という三兄弟がおり、前者ふたりが代替わりして袁紹・袁術(と袁基)・袁隗となった。人脈では袁紹、官歴では袁隗が勝り、どちらも中途半端な袁術。「智謀の士」として何進に迎えられた何顒・荀攸も、袁紹に近い。「気侠」という性格だけで、袁術が、何進政権で第一の腹臣になるのは難しい。

南宮の門を焼き、宦官を皆殺し

何進は、宦官全殺を何太后に認めさせるため、董卓を京師に召した。
董卓は隴西のひと。前年、中平五年(188) 并州牧の董卓は、少府に召された。董卓が涼州で集めた胡族の兵が、漢家にとって脅威であるから、兵権を剥奪しようと試みたのである。兵権は、左将軍の皇甫嵩に移すはずであった。しかし董卓は召命を拒否。董卓が二度目の召命を拒否した後、何進に召還された(『陳志』董卓伝にひく『霊帝紀』)。
董卓は、河東(并州)で、京師の政変を見守っていた。

董卓を迎えるに先立ち、何進は、袁紹を司隷校尉・仮節とし、専断権を与えた。王允を河南尹とした。残念ながら、袁術の官職・権限に変動はない。
中平六年 (189) 八月、宦官側は、何進を殺害した。もと太尉の樊陵を司隷校尉、少府の許相を河南尹として、何進の任じた袁紹・王允に対抗させる。

許相は、三世代に四名の三公を輩出した、汝南許汜の四人目。


◆宮殿に突入する
何進の死を知った、虎賁中郎将(留任中)袁術。何進の部曲将である呉匡・張璋とともに、宦官が門を閉ざした宮殿に突入する。南宮の青瑣門を焼き、殺すべき宦官を探し求めた。
呉匡とは、袁紹の奔走の友・呉子卿と同一人物と思われ、陳留呉氏の出身。蜀の車騎将軍の呉懿は、呉匡と世代=輩行の同じ同族。呉子卿=呉匡の子が、蜀の驃騎将軍の呉班である。

石井仁『魏の武帝 曹操』86p

張璋は詳細が不明であるが、呉匡と同じく、袁紹の人脈であろう。

張璋は、『群書治要』巻四十六 典論で、呉匡とともに何進の「近士」となり、何氏政権を滅ぼした侫臣であると論評されている。
雲子さんのブログ:何進の佞臣(『雲子春秋』)
http://d.hatena.ne.jp/chincho/20151127/1448638036
呉匡・張璋は、袁紹における審配・郭図、劉表における蔡瑁・張允に比せられる。何進の弟の何苗は、何進が重用する呉匡・張璋をにくみ、これが何進・何苗の対立の原因をつくった。兄弟の対立をあおるのは、侫臣であると。

袁術は、突撃の実行部隊である。袁紹に比すれば、何進の部曲将のなかに埋没し、特別な地位になかったことが窺われる。袁紹の奔走の友と、行動を共にせねばならなかった。「宦官誅殺による漢家の改革」という政治目標のためとはいえ、居心地が悪く、とくに袁紹の下風に立たされて、忸怩たる思いではなかったか。

◆宦官の二千余人を殺す
何進を失って、政権の中枢に近づいた袁紹は、叔父の袁隗とともに詔を偽造して、宦官側の司隷校尉の樊陵・河南尹の許相を召して斬った。
呉匡・張璋・袁術が、南宮から突入したが、何太后・劉辯・劉協は北宮から脱出し、董卓に捕らわれる。袁紹は遅れて北宮の門を閉ざし、老若に関係なく宦官を殺した。その数、二千余人。

外戚の何氏政権の崩壊

◆呉匡・張璋が、何苗を殺す
混乱のなか、仲間割れが起きる。何進の異母弟・何苗(何太后の同母弟)は、車騎将軍。何進の部曲将である呉匡・張璋(上述)は、何苗を悪んでおり、董卓の弟・董旻の力を借りて、何苗を殺した(『陳志』董卓伝にひく『英雄記』)
何進・何苗の兵は、すべて董卓に帰することとなった。何氏の主導権争いが、何氏そのものを滅ぼすことになった。『典論』の批判するところである。

何進は兄だが、何太后と母が異なる。何苗は弟だが、何太后と母が同じ。何進に重用された呉匡・張璋が、何苗を悪んだように、兄弟は対抗関係にあった。
兄弟の順序、母の貴賎(母系の盛衰)、官職の高低、爵位の継承などにねじれが起きると、派閥抗争の原因となる。袁紹と袁術、袁譚と袁尚、劉琦と劉琮から、曹丕と曹植、孫和と孫覇まで、三国志の時代に、類例はおおく見える。

何進が天下から集めた有為の士たちは、寄せ集めであるがゆえに、内部に分裂の萌芽をふくんだ。
中平六年八月の政変により顕在化しなかったが、もし何氏政権が長期化すれば、袁術が何苗と結びつき、何進・袁紹と対立した可能性も皆無ではない。

董卓の廃立に反対する

翌月、中平六年(189) 九月、董卓は、劉辯を廃して弘農王とし、陳留王の劉協を立てた。袁隗は、劉辯から皇帝の璽綬をはずし、劉協に与える役割を担った。太傅として「上公」であり続けた。董卓は、何太后を殺した。
劉協(以下、「献帝」という)は、祖母の董氏に育てられ、「董侯」とも呼ばれた。董卓は、霊帝の生母の董氏と近しい血縁関係がないが、同じ「董氏」として、政権の正当化に利用した。
まとめると、霊帝の生母・外戚の董氏は、いちどは外戚の何氏に敗れたが、ふたたび董氏が政権を奪還したという筋書きである。

◆袁隗の身の振りかた
何氏の最大の協力者である袁隗は、通常であれば失脚するが、董卓の懐柔を受け入れた。
袁隗は、兄の袁逢に先んじて三公となり、宦官の袁赦と結びつき、袁氏の最盛期を築いた政治家である。袁隗を懐柔する董卓と、懐柔を受け入れる董卓――。いずれも、したたかな権勢者と言うべきである。

◆袁紹の身の振りかた
廃立に先立ち、董卓は袁紹に相談した。『陳志』および『范書』袁紹伝、『陳志』にひく『献帝春秋』で、董卓と袁紹の決裂のシーンが描かれている。袁紹は反対して、冀州に逃走した。追って董卓は、袁紹を懐柔するために、勃海太守に任じ、邟郷侯に封じた。
新たに洛陽に入り、廃立したばかりの董卓は、「門生故吏は天下にあまねし」という袁氏を、なんとしても味方に付けておきたかったからである。袁氏という家柄を味方に欲する点、董卓は、何進と同じである。

袁紹は、このとき四十四歳。袁隗のような老獪さがなく、かつ改革の理想に燃える壮年には、董卓の強引さが受け入れられなかった。史料に表れないが、無節操な叔父・袁隗に対する反発心が、あったに違いない。
何進の最有力の参謀であった袁紹は、何進・何苗・何太后を失い、自派の皇帝を失い、兵権を董卓に奪われた。紛うことなき敗北である。逃走せざるを得なかった。くり返すが、董卓の政権下に残った袁隗が、特殊なのである。

董卓が袁術を後将軍とする

◆袁術の身の振りかた
『范書』袁術伝に記述がある。
時に董卓 将に廃立せんと欲し、術を以て後将軍とす。術 卓の禍を畏れ、南陽に出奔す」
中平六年(189) 八月、董卓は洛陽に入って、兵権を掌握した。九月、廃立を敢行。董卓は、袁術に廃立の相談をすることはせず、官職を与えて懐柔しようとした。袁紹に比べると、扱いが軽い。

董卓は、廃立を行った九月、太尉となり、前将軍事を領した、節傳・斧鉞・虎賁という殊礼を加え、郿侯に封じられた。十一月、董卓は相国となり、贊拜不名・入朝不趨・劍履上殿と、更なる殊礼を受ける。
董卓の官歴を確認すると、袁術に後将軍を与えたとき、董卓は「領前将軍事」であり、将軍号においては同格である。また、霊帝期末、袁隗が太傅となる直前の官職は、後将軍であった。
図式的に見れば、董卓は、袁氏の内部における、袁術の相対的な地位をあげることで、味方につけようとしたのである。袁術と袁紹を対立させる火種を、董卓が仕込んだ(袁術の対抗心を利用された)と見えなくもない。何進政権下で、主流にあった袁紹は、廃立を相談する対象である。しかし同政権で、亜流であった袁術は、高い官職で釣りあげて、恩を施して懐かせる対象であった。

袁術は、後将軍の官職をもらうだけもらうと、南陽に出奔した。董卓に敵対した後も、史料には、「後将軍」の肩書きで記される。
なお、将軍号は得たが、兵を連れたという記述はない。何氏の滅亡後、兵権は董卓に一極集中している。持ち出すのは難しく、発覚したら戦闘が起きる。ほぼ単身で出奔したと思われる。
董卓は、政敵を容赦なく殺害する。殺害を「畏」れたというのが、列伝の記述であろう。しかし脱出した動機は、恐怖だけに限定されまい。袁紹と同じく、「董卓の専横を許さない」という改革の志を抱いていたと考えたい。

◆曹操の身の振りかた
曹操は、『陳志』武帝紀に「卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事」とあり、董卓から驍騎校尉にしてもらった。
「与に事を計らんと欲す」とあるが、曹氏を主役とした、『魏志』という形式が要請した修辞である。董卓は、それほど曹操を重視していまい。廃立を終えてから、混乱を鎮めるために、曹操に官位を与えた。しかも、典軍校尉から驍騎校尉へのスライドである。後将軍の袁術とは異なる。

廃立の前に相談された袁紹、廃立の前に昇格された袁術、廃立の後に官職を配られた曹操、という三段階で、董卓からの重視の度合いに差がある。

袁術が南陽に出奔する

洛陽を脱出した時期は、細かくは史料になく、司馬光『資治通鑑』も、中平六年(189) 年末に、袁紹・袁術・曹操の動向を、まとめて並置する。年内のこと、という以上に時期を特定することができない。
脱出する前、袁術は、曹操の卞夫人に会いにゆく。

◆曹操の卞夫人との関係
『陳志』巻五 后妃 卞皇后伝によると、瑯邪のひと卞氏は、延熹3年(160) 斉郡で生まれた。光和二年(179) 二十歳のとき、曹操に嫁ぐ。曹操に従って、洛陽に来ていた。
董卓が乱をなすと、曹操が東に逃亡した。袁術は卞氏に、曹操の凶問(曹操が逃亡し、きっと助からないという悪報の使者)をよこした。ときに曹操の洛陽の邸宅にいる者は、みな帰郷したがった。だが卞氏が制した。「曹操の生死がわからない。いま家に還れば、曹操が生きていた場合に、会わせる顔がない。禍いがくるなら、曹操とともに死のう」と。

曹操が、妻および邸宅の者も置き去りにして、逃亡したことが分かる。


瑯邪の卞氏と、袁術の繋がりは、他にも記録がある。『古文苑』は、曹操の卞夫人が、楊彪の夫人の袁氏=袁術の妹に送った文書を載せる。

卞頓首。貴門不遺、賢郎輔位、毎感篤念、情在凝至。賢郎盛徳熙妙、有蓋世文才、闔門欽敬、宝用無已。方今騒擾、戎馬屢動、主簿股肱近臣、征伐之計、事須敬咨。官立金鼓之節、而聞命違制。明公性急忿、然在外輒行軍法、卞姓当時亦所不知、聞之心肝塗地、驚愕断絶、悼痛酷楚、情自不勝。夫人多容、即見垂恕、故送衣服一籠、文絹百匹、房子官錦百斤、私所乗香車一乗、牛一頭。誠知微細、以達往意、望為承納。

卞氏には、袁術の妹(楊彪の妻)と、贈物による交際がある。袁術と曹操には、浅からぬ付き合いがあったのかも知れない。何顒・袁紹の人脈から、やや阻害された位置に、ふたりは置かれ、共感があったのかも知れない。

のちに袁術が割拠勢力となったとき、瑯邪の出身者をおおく任用する。袁術伝に、瑯邪相の官歴が直接は記されないが、赴任経験があったのかも知れない。


◆光武帝のロイヤルロード
董卓から逃れるとき、袁術は南陽をめざした。
南陽は、経済的に恵まれた土地であるが、これは本拠地を選ぶときの必要条件でしかない。袁術が意識したのは、漢家を中興した直近の英雄、光武帝であろう。光武帝は、南陽から洛陽に攻め上った。

『范書』巻一光武帝本紀・列伝一 劉玄伝によると、
更始元年(023) 二月、劉秀(のちの光武帝)の族兄である劉玄(あざなを聖公)は、天子を称した。更始帝という。その部将であった劉秀は、五月、宛城(南陽の郡治)を王莽軍から奪った。六月、更始帝が宛城に入った。
九月、司隷校尉となった劉秀は、先に洛陽に入り、宮殿・官庁の整備を命ぜられた。更始帝は洛陽に入った。劉秀は、破虜将軍・行大司馬事として(残敵を平定するため)十月、持節して黄河を北に渡った。
すべて更始元年(023) 内のことであり、ここまでは順調であった。しかし、更始帝・劉秀の本拠地である荊州はまだしも、河北には強敵が多くいて苦戦した。今後、劉秀は河北を拠点に、更始帝から独立を図る。

南陽をめざした袁術は、更始元年の前半の劉秀に符合する。ここで袁術は、荊州を攻め上がってきた、長沙太守の孫堅と合流する。期せずして、更始帝は袁術、劉秀は孫堅、という役割を引き受けることになる。
一方で、勃海をめざした袁紹は、更始元年の後半以降の劉秀に符合する。
袁紹・袁術とも、価値観・抱負・理想を共有しながら、父の代にセットされた対立の要因(袁成の早世、安国亭侯の継承問題)に翻弄され、潰しあうことになるのは、歴史の皮肉であろう。

このとき、中平六年(186) 年末であった。160104

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第3回 190年春、魯陽で起兵、孫堅と合流

本項から、初平元年(190) となる。

正月、反董卓の連合

初平元年(190) 春正月、関東の州郡は起兵して董卓を討つ。顔ぶれは、『范書』袁紹伝を基礎に、司馬光が『資治通鑑』で整理したので、それに従って記すと、
渤海太守の袁紹を盟主とする。袁紹は車騎将軍を自号し(司隷校尉は領したまま)、諸将に官号を付与した。①袁紹と河内太守の王匡は、河内に屯す。冀州牧の韓馥は鄴県に留まり、袁紹に軍糧を供給する。
②豫州刺史の孔伷は潁川に屯す。③兗州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、張邈の弟である広陵太守の張超、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、済北相の鮑信と、行奮武将軍の曹操は、酸棗に屯する。
④後将軍の袁術は魯陽に屯する。それぞれ兵は数万。

◆同盟をつくったのは③臧洪
同時多発的な起兵をプロデュースしたのは、広陵のひと臧洪。

『陳志』巻七は、呂布伝(付張邈伝)と臧洪伝のみから成る。

父の臧旻は、匈奴中郎将、中山・太原太守を経験。霊帝期に三署郎を県長に任じ、臧洪と同時に、瑯邪の趙昱・到来の劉繇・東海の王朗が県長となる。

のちに徐州から揚州一帯に勢力を築き、袁術の対抗者となる顔ぶれ。

霊帝末、臧覇は、広陵太守の張超の功曹となる。張超に董卓討伐を訴え、③酸棗に進軍させ(上述)、張超の兄である陳留太守の張邈からも才覚を認めされる。酸棗のメンバーから推戴され、壇場を設けて、董卓の撃破を血もて誓う

◆巻きこんでもらった①袁紹
武帝紀にひく『英雄記』によると、冀州牧の韓馥は、勃海太守の袁紹が(洛陽から冀州内に逃げこみ)兵を起こして脅威となるのを恐れた。韓馥は、袁紹が自分を騙して冀州軍を乗っ取ることを恐れ、従事をつかわし、袁紹の門を監守させ、袁紹が兵の動きを封じるほど。
ちょうど、③酸棗の一員・東郡太守の橋瑁が、三公の命令書を偽造して、回付してきた。これを受けて韓馥は、袁紹の董卓討伐に協力することを決めた。袁紹は、韓馥から供給を約束されて初めて、①河内に進軍でき、泰山兵をひきいる河内太守の王匡と連合した。
酸棗の諸軍を臧洪が組織し、韓馥・袁紹が呼応した、という順序である。

◆兵員・糧秣のない④袁術
④袁術は、③酸棗の臧洪ら、①河内の袁紹とは連携が見られない。袁紹が志を抱いて勃海に逃げても、韓馥から不気味がられたように、兵員・糧秣の裏づけがないと、董卓と戦うことができない。三方を山に囲まれた要害・魯陽に入ったは良いが、袁術は戦う準備ができていない。

◆関東に対する董卓の反応
同じ正月、董卓は郎中令の李儒に命じて、弘農王の劉辯を鴆殺。関東の諸軍が、献帝を廃して劉辯を立てるという「再廃立」を防いだ。

二月、董卓が天子を長安に移す

『陳志』董卓伝によると、①河内太守の王匡は、泰山兵を河陽津に屯させ、董卓を殺そうとした。董卓は、ひそかに精鋭を小平津から北に渡し、王匡の背後を襲い、ほぼ殺し尽くした。防衛に適さぬ洛陽を、董卓は放棄する。
初平元年(190) 二月、董卓は天子を長安に移し、洛陽の宮室を焼いた。

王匡・袁紹らの起兵を受け、防衛上の理由から移動した。後漢は、宮廷闘争の連続であったが、戦争という手段に訴えたのは、董卓ではなく袁氏のほうが先である。


翌三月、献帝の車駕は長安に入った。太傅の袁隗(袁術の叔父)・光禄勲の袁基(袁術の兄)は、献帝に従う。
董卓は、畢圭苑に留まって関東の兵を防ぐ。まだ長安に行かない。呂布に命じて、皇帝の陵墓を発掘し、宝物を盗んだ。

陵墓の盗掘といえば、曹操。発丘中郎将・模金校尉という盗掘の専門官を設置し、前漢の梁孝王を盗掘した。軍資金のためである。陳琳の檄文で糾弾された。


◆弘農楊氏の系譜
初平元年(190) 正月~二月、
董卓が、緯書『石包讖』を根拠に遷都を唱えたとき、百官が黙るなか、司徒の楊彪だけが反対。楊彪は、弘農楊氏の四代目であり、袁術の妹の夫。

楊震-楊秉-楊賜-楊彪。
楊彪の祖父・楊秉は、『京氏易』を修め(既述)、桓帝に『尚書』を教授。外戚の梁冀を批判し、梁冀の執政期は病を称して官職に就かず。159年、梁冀が滅びると、楊秉は太僕・太常となる。延熹五年(162) 太尉となる。
延熹八年(165) 宦官の侯覧の兄が、富豪に罪を着せ、かってに財産を没収していた。侯氏の不正な蓄財を、太尉の楊秉と、京兆尹の袁逢(袁術の父)が摘発・没収した。『范書』宦者 侯覧伝より。これは、梁冀の滅亡後、初めて表れる、年代のわかる袁氏の史料でもある。
袁氏・楊氏が共闘した165年、袁術は二十歳前後。袁術の妹が楊彪にとつぎ(楊脩を産む)、楊彪の姉妹が袁術に嫁いだのは、この頃であろうか。
同年のうちに楊秉は死去。「我に三不惑あり、酒・色・財なり」という人柄。

楊彪の父・楊賜は、梁冀の府への「辟」を断り、建寧期(168-172) 霊帝に『尚書』を教授。熹平元年(172) 玉座に青蛇が現れたとき、原因を特定して、善政を指導。熹平二年(173) 司空、熹平五年(176) 袁隗に代わって司徒。党人に坐して免官。
光和元年(178) 嘉徳殿に虹が現れた。楊賜は蔡邕とともに宦官を批判。蔡邕は朔北に流されたが、楊賜は霊帝の教師なので罪を免がれた。光和二年(179) 司徒。光和五年(182) 太尉。
黄巾・張角の脅威を認識し、早期の討伐を訴えたが、無視された。中平二年(185) 黄巾の乱を見てから、司空となり、同月中に死去。

楊彪は、熹平期(172-178) 議郎、侍中、京兆尹。光和期(178-184) 宦官の王甫を司隷校尉の陽球に摘発し、王甫の誅殺に成功。侍中、五官中郎将。潁川太守、南陽太守。侍中、永楽少府、太僕、衛尉。
中平六年(189) 董卓に代わって司空となり、司徒に遷る。
直系の祖先、楊震-楊秉-楊賜の性質を受け継いだエリート。楊氏は、学問を修め、権臣に靡かず、悪政を制するという正当派の官僚家。家学の継承に熱心で、皇帝の教師を務められるレベル。梁冀・宦官に接近せず、党人に坐した正義派。ともに「四世三公」と称される袁氏の「柔軟」な処世と対照的。
楊彪は、長安の董卓政権に参加。少府、太常。京兆尹、光禄勲などを歴任。

◆曹操が汴水で徐栄に敗れる
董卓の遷都に、いち早く反応したのは曹操。張邈の将・衛茲とともに、榮陽の汴水で徐栄に挑み、士卒を損なった。曹洪が曹操に馬を与えて逃がした。
『陳志』武帝紀は、「徐栄が酸棗の手強さを思い知った」などと、戦功を強調するが、残念ながら大勢に影響はない。

三月、袁隗・袁基が董卓に殺される

初平元年(190) 三月、董卓は、太傅の袁隗・太僕の袁基を殺害。袁家の五十余人以上を殺した。
袁氏にとって、人的な損失は当然ながら、「安国亭侯」を継承者が、宙に浮いたという問題も発生。安国亭侯は、袁湯(袁術・袁紹の祖父)が、桓帝を即位させた功績により、与えられた爵位。袁湯-袁逢-袁基と継承されていた。

◆袁紹が報仇のリーダーに
袁隗らが殺されると、袁紹に味方する豪侠は、袁氏に報仇をスローガンにして、州郡が次々と起兵した。

『陳志』袁紹伝:卓聞紹得關東、乃悉誅紹宗族太傅隗等。當是時、豪俠多附紹、皆思、爲之報。州郡蠭起、莫不假其名。

袁隗・袁基を失ったことは(本人らの感情はさておき)、間接的に袁紹に利した。叔父の袁隗は、董卓にへつらって廃立に積極的に協力した。太僕の袁基は、安国亭侯を嗣いだライバルである。袁氏の内部において、「強大な政敵」が二人も減った。外部に対しては、「袁氏の報仇に協力せよ」と、天下にひしめく門生故吏に訴えることができる。
袁氏というブランド(傑出した官僚家)は、天下取りの切り札。何進・董卓が欲したのもこれである。袁隗・袁基が消えたことで、袁紹はブランドを独占し、①河内、②潁川、③酸棗にいる「豪侠」から、改めて支持された。
袁紹の弱点は、補給を冀州牧の韓馥に頼ること。輸送が停止したら、軍が自壊する。事実、冀州の国内には、袁紹への協力を疑問視する声がある。袁氏の故吏である韓馥に、協力を強制するためにも、報仇のスローガンは有効であった。

春、孫堅と袁術が合流する

袁紹が、①河内、②潁川、③酸棗の盟主となり、「袁氏の報仇」を掲げたころ、④袁術には劇的な出逢いがあった。長沙太守である呉郡の孫堅である。
残念ながら、いつ出会ったのか分からない。袁紹ら起兵に孫堅が呼応したとある。司馬光『資治通鑑』は、初平元年(190) 春の末尾に、記事をまとめて置く。

◆孫堅の登場
熹平元年(172)、孫堅は十八歳のとき、 会稽で陽明皇帝を自称した許昌を討伐し、揚州刺史の臧覇(のちに③酸棗で結盟をプロデュース)に認められ、県丞となって官歴をスタートさせる。
中平四年(187)? 長沙の区星が謀反をすると、孫堅は長沙太守となって平定した。零陵・桂陽でも賊が起こると、越境して平定した。
ときに、廬江太守である呉郡の陸康の従子が、宜春(豫章郡)の県長である。賊に攻められ、孫堅に救いを求めた。主簿が、郡を越境して救援することを諌めたが、陸康の従子を救った。

のちに袁術は孫策に、廬江太守の陸康を討伐させる。

長沙の一郡に留まらず、周囲にも影響力を及ぼした。孫堅の器量が、一郡の太守に収まるものでないことを示唆する。

◆孫堅が荊州南部の四郡をまとめる
中原の州郡が、反董卓の義兵を挙げたのを受け、孫堅は長沙で起兵。

『范書』袁紹伝、『陳志』武帝紀では、さも同時に起兵があったように並列するが、実際には、③張超と臧覇が声をあげ、①袁紹が担ぎ出され、遅れて孫堅が起兵し、④袁術と合流したという順序である。

孫堅は、となりの武陵太守の曹寅と結び、荊州刺史の王叡を斬った。
瑯邪のひと王叡は、孫堅とともに零陵・桂陽の賊を撃った。『陳志』孫堅伝にひく『呉録』によると、王叡にも董卓を討つ意志があり、孫堅に軍糧を提供した。しかし武官の孫堅を軽んじ、恨まれて殺された。

孫堅を焚きつけて王叡を殺させたのは、武陵太守の曹寅。曹寅は、王叡と対立していた。後漢の荊州刺史は、武陵にいる。監察する側(刺史)と監察されう側(太守)が同じ地域にいて、関係を悪化させたと思われる。

王叡の董卓を討つ意志、孫堅と王叡の人間関係など、史料から忖度するには限界がある。ともあれ孫堅は、長沙・武陵・桂陽・零陵という、荊州南部の四郡の兵を率いられる立場となった。

赤壁後、劉備が依って立つ範囲と同じである。

殺された王叡のおいは王祥。西晋で太保となる。「二十四孝」のひとり。

◆孫堅が南陽郡に袁術を迎える
孫堅が北上し、南陽(宛城)に至るころ、兵は数万。
南陽太守は、潁川の張咨。董卓が地方長官を刷新したとき、任官した。冀州牧の韓馥、兗州刺史の劉岱、予習刺史の孔伷、陳留太守の張邈と同じく、名声があるゆえに、董卓が味方につけようとした人物(『范書』董卓伝)。
孫堅は武力行使により、南陽を奪った。
当時の士大夫は、親董卓/反董卓の二項対立ではない。反董卓のなかにも主導権争いがあり、王叡・張咨はこの争いに敗れたのであろう。

①河内で袁紹と王匡は対立し、③酸棗で劉岱が橋瑁を殺す(後述)

争いの最たるものが、袁紹・袁術の対立として、翌年(191) 表面化する。

孫堅は魯陽に進み、袁術と会見。袁術は上表して、孫堅を「行破虜将軍、領豫州刺史」とする。孫堅は魯陽城で、兵を治める。
魯陽城に、袁術・孫堅がいる。

『陳志』武帝紀は、初平元年二月に袁術が「南陽」にいたとするが、陳寿は省略・単純化し過ぎて、文意が変わることがある。根拠とはしない。
『陳志』孫堅伝で、初平二年(191) 春、孫堅が「兵糧を送れ」と督促するが、そのとき魯陽で袁術と交渉をしている。袁術は、少なくとも董卓との決着が着くまで、後方の宛城ではなく、前線の魯陽にいた。

名族の袁術の弱点は、兵がないこと。後将軍の号のみがあり、太守・刺史の資格もなく、軍を動員できない。強兵がいる孫堅の弱点は、王叡と対立したように、武官として侮られること。両者が協力して、関東の諸軍のうち、最強の集団となった。

春、劉表が荊州に赴任する

◆劉表の登場
董卓は、王叡の後任として、劉表を荊州刺史とする。
劉表は山陽のひと。「八俊」もしくは「八顧」。学問の師は、同郡の王暢。

王暢の孫は、建安七子の王粲。荊州牧の劉表を頼り、のちに曹操に帰順。

王暢が南陽太守になると、劉表は過度の倹約に諌言した。劉表は、南陽に来たことがあったであろう。何進の大将軍掾となり(董卓に政権が交代して)北軍中候に遷り、百日で荊州刺史に転じた(鎮南碑)。

董卓が執政したのは、中平六年(189) 九月だから、これ以降に北軍中候となったはずである。百日後は、やはり初平元年の春のいつかとなる。


劉表が初めて荊州に入ったとき、江南の宗族は盛んで、袁術は魯陽に屯し、南陽の兵をすべて掌握していた。呉郡の蘇代は長沙太守を領し、貝羽は華容長となり、乱をなした。劉表は、単馬で宜城に入り、南郡のひと蒯良・蒯越、襄陽のひと蔡瑁と、謀をともにした(司馬彪『戦略』)。


劉表は、南陽郡(荊州北部)が袁術の支配下にあることから、単騎で南方に突き抜けて、襄陽の周辺を本拠地に選んだ。荊州刺史の治所は、本来、武陵郡の漢寿である。襄陽ですら、だいぶ北に寄っている。
蒯越は劉表に戦略を授ける。「袁術は勇気があるが決断できず、蘇代・貝羽は武人に過ぎない。宗族の首長は貪暴で、民に嫌われている。仁義を以て治めれば逆転できる。北は襄陽、南は江陵を守れば、荊州を定めることができる」と。
つまり劉表は、強い袁術に直接対決を挑まず、袁術の自滅(もしくは董卓戦による疲弊)を待つ方針。孫堅の通り抜けた荊州の中南部に回りこみ、新しい勢力の扶植に努めたのである。
蘇代は、出身地・官職とも孫堅と同じ。孫堅の後任もしくは留守役として、長沙に残ったのであろう。武人に過ぎないと評される貝羽は、孫堅と出身階層が同じであろうか。必然、劉表の標的となる。

◆袁術を牽制する劉表
孫堅は、董卓にとって強敵。劉表は、孫堅に殺された王叡の後任。この構図によれば、劉表が任命された意図としては、北の董卓と、南の劉表とで、袁術・孫堅を挟撃することが期待される。
『范書』袁術伝に、奇妙な記述がある。赴任直後、劉表が上表して、袁術を南陽太守とする。敵対者に官位を斡旋したのである。
当面、袁術が南陽の実質的な支配者であるのは、動かせない事実。それならば、献帝-董卓とパイプのある劉表が、袁術の支配権を追認し、官職を与えて恩を売ったのであろうか。官位のバラ撒きにより、士大夫の懐柔をはかる(懐柔できずとも、動揺・分裂を誘う)のは、董卓側の常套手段。劉表は、袁術の推挙者の位置に収まり、袁術を牽制したと考えられる。

情況を整理すると、
初平元年(190) 三月までに、魯陽で孫堅が兵をひきい、同じ魯陽で、袁術が兵站の任に就いた。董卓包囲網の配置が定まった。ただし董卓も無策ではなく、荊州刺史の劉表を、孫堅・袁術の後方に配した
劉表が積極的に北伐をせずとも、袁術にとって痛撃である。
なぜか。劉表によって、孫堅の本拠地である荊州の中南部から分断された。確かに南陽は、後漢の中期、戸数は五十二万、人口は二百四十四万を擁し、張衡『南都賦』で、長安・洛陽とならぶ大都市として繁栄した。だが、南陽の一郡だけで、董卓との天下争奪戦の費用を捻出せねばならない。袁術による南陽支配の、経済的な破綻は、このようにして準備された。

春、董卓軍と戦わない袁紹

初平元年(190) 二月に董卓が遷都してから、戦いを挑んだのは曹操だけ。敗れた曹操は、酸棗に至る。酸棗には十余万の軍がいたが、諸将は進まない。曹操が、董卓を攻略する戦術を述べる。
「勃海太守(袁紹)は、河内の軍(王匡)をひきい、孟津にゆけ。酸棗の諸将は、成皋をまもり、敖倉に拠り、轘轅と太谷をふさげ。袁将軍(袁術)は、南陽の軍(孫堅)をひきい、丹・析から武関にはいり、三輔を震わせろ」と。
③酸棗にいる曹操が、はなれた①河内・④南陽にまで指図しているのが面白いが、諸軍は動かない。曹操は、夏侯惇とともに揚州に募兵にいき、千余人を得て、①河内の袁紹軍に再び合流。

初平元年(190) 春、滞陣しているうち、酸棗の諸軍は食糧が尽きる。

反董卓軍のアキレス腱は、どの方面も兵糧である。

兗州刺史の劉岱は、東郡太守の橋瑁を殺した。後任の東郡太守は、王肱。

王肱は、一年半後の初平二年(191) 秋、黒山賊の于毒らに城を囲まれて、制圧できなくなる。曹操が兵をひきいて東郡に入るキッカケをつくる。

董卓と戦う前から、①河内・③酸棗は空中分解をしており、②潁川にいる豫州刺史の孔伷も単独では動けない。
④南陽の袁術・孫堅の連合軍のみが、董卓に挑戦する体制を整えた。こうして初平元年(190) 夏を迎えた。160105

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第4回 190年夏~、孫堅が董卓と戦う

四月、董卓が劉虞を太傅とする

夏四月、董卓が、幽州牧の劉虞を太傅として、長安に召した。殺害された袁隗の後任である。しかし道路は、袁紹らに塞がれ、劉虞に到達しなかった。

◆劉虞伝より
劉虞は東安のひと。光武帝の長子・東海王の劉彊の子孫。

劉彊の母は、真定のひと郭聖通。父は、河北の「著姓」郭昌、母は真定恭王の劉普の娘。更始二年(024) 冀州で王郎と敵対した光武帝は、郭聖通をめとる。建武元年(025) 郭聖通は劉彊を生む。建武二年(026) 郭氏の支援がほしい光武帝は、郭聖通を皇后とし、劉彊は皇太子となる。天下を平定し、郭氏の支援が必要なくなると、建武十七年(041) 郭皇后は廃された。
劉彊は、建武十九年(043) 東海王となり、建武二十八年(052) 国に赴任。過失がないが廃太子となったため、二十九県の大藩に封ぜられた。

東海王は、魏晋革命まで継承された。劉虞は東海王の家の傍流。光武帝の五世孫という触れこみであるが、厳密な系図は伝わらない。光武帝が高祖劉邦の五世孫という故事を踏まえたものであろう。

日本では、継体天皇が応神天皇の「五世孫」として、傍流から即位。皇統の本流が衰退したとき、傍系の「五世孫」が継承するのは、定型文となる。

中平四年(187) さきの泰山太守の張挙・さきの中山相の張純は、烏桓とむすび、護烏桓校尉・右北平太守・遼東太守を殺害。張挙は「天子」、張純は「弥天将軍・安定王」を自称。幽州の治所・薊城を占領し、青州・冀州に侵入。
中平五年(188) 幽州刺史として烏桓を感化した実績のある劉虞は、幽州牧として薊城に赴任。張挙・張純の乱を平定した。劉虞は太尉となる。
中平六年(189) 九月、董卓が政権を握ると、劉虞を大司馬として、董卓みずから太尉となる。太尉と大司馬は、ともに軍事を掌る三公として重複する。
現在、初平元年(190) 四月、太傅となるが王命が届かず。青州・冀州に税収の二億を融通した。青州・徐州の黄巾を避けた民・百余万口が、劉虞の幽州に流入した。やがて青州の黄巾までもが、幽州をめざして流入する。

光武帝の子孫で、現在の皇帝の兄の系統。実力も徳望もある政治家。
劉虞の完璧なキャラクターが、「だれが皇帝であるべきか」という問いをこじ開ける。この問いに対して、袁術は決して無縁でいられない。

六月、董卓が胡母斑・陰脩を送る

◆董卓が、胡母斑・陰脩を派遣する
初平元年(190) 六月、董卓は、関東の戦意をくじくため、執金吾の胡母斑を袁紹に派遣した。胡母斑は、泰山のひと。山陽の度尚・東平の張邈とともに「八廚」と呼ばれた。
董卓は、袁術の戦意をくじくため、少府の陰脩を袁術に派遣した。陰脩は、南陽のひと。潁川太守となり、功曹の鍾繇、主簿の荀彧、孝廉の荀攸、計吏の郭図をもちいて、吏とした士大夫。のちに曹魏で潁川名士は最大派閥となるが、若き日の彼らを用いたのが陰脩である。

姓と出身地からすると、光武帝の皇后、明帝の生母である陰麗華の一族か。陰麗華は、郭聖通に代わって、建武十七年(041) 皇后となる。

胡母斑・陰脩とも、関東の諸軍の人脈に属する。もし説得に成功したら、董卓は、袁紹・袁術を懐柔できるし、失敗しても「同士討ち」させることができる。

◆袁紹が胡母斑を、袁術が陰脩を殺す
袁紹は、董卓の使者・胡母斑を、同じ河内に駐屯する王匡に殺させた。
因果なことに、胡母斑は王匡の妹の夫。王匡は胡母斑を殺してから、胡母斑の子(妹の子)を抱きしめて泣いた。袁紹・王匡は、足並みが乱れた。
胡母斑の遺族は怒って、のちに曹操とともに王匡を殺す。王匡の没年は、董卓が張楊を後任の河内太守に任ずる、初平三年(192) より前と思われる。

袁術は、董卓の使者・陰脩を殺す。つまり、鍾繇・荀彧・荀攸・郭図のもと上司を殺したことになる。潁川名士の支持は、さらに袁術から遠ざかる。
董卓は、関東の士大夫の人脈を逆手にとり、離間に成功した。

夏~冬、孫堅が董卓と戦う

孫堅と董卓の戦いは、『陳志』孫堅伝では孫堅を主体とするが、『范書』袁術伝では、袁術が主語である。「孫堅に荊州・豫州の兵をひきさせ、董卓を陽人で撃破した」と使役形である。
戦況は孫堅伝に詳しいが、詳細な時期を特定できない。

司馬光『資治通鑑』は、魯陽の城東の戦いを、初平元年(190) とするが、編纂の過程で「冬」の字が残っただけと推測され、冬とは決まらない。
拙稿「『資治通鑑』編纂手法の検証(中平五年~建安五年)」(『三国志研究』第十号 2015)参照。


「行破虜将軍、領豫州刺史」孫堅は、董卓に戦いを挑む。
反董卓連合には、②潁川に屯する豫州刺史の孔伷がいたが、戦績が史料に見えない。孫堅の官職が重なるが、対立・協力の記述がない。孔伷だけ屯地が孤立しており、戦いからフェードアウトしていたと思われる。

孫堅は、長史の公仇称に兵をあたえ、州(袁術のいる南陽か)に還って軍糧を督促させた。魯陽にいる孫堅の兵站を、南陽から袁術が支えている。董卓軍に運送を襲撃されるのを防ぐため、護衛の兵が必要。
魯陽の城東で、公仇称を見送る酒宴を開いた。董卓軍がこれを襲撃したが、孫堅は酒を飲み談笑しつつ、軍陣を整えて、みだりな動きを制した。董卓の騎兵が増えてくると、おもむろに酒宴をやめ、魯陽の城内に入った。手ごわしと見て、董卓軍は魯陽城を攻めなかった。

司馬光にならって、ここで年を区切る。孫堅が梁県の東・陽人に進軍して、胡軫・呂布と戦うのを、初平二年(191) のこととする。
司馬光が根拠としたのは、『范書』董卓伝の「明年,孫堅收合散卒,進屯梁縣之陽人」であろう。陽人の戦いの前に、年が区切れる。

孫堅は魯陽から出撃し、梁県の東に屯する。徐栄に敗れ、祖茂に赤い幘を被せ、祖茂を身代わりにして逃れた。

関東諸軍の二重苦

初平元年(190) 二月に献帝が洛陽を去り、三月に長安に入って以降も、董卓軍は洛陽の近郊に留まり、関東の軍と対峙している。曹操の先走りを除けば、袁術・孫堅の連合軍のみが、戦いを挑める位置にいる。
兵糧の不足・相互の不和という二重苦を抱えた関東の諸軍は、戦果のないまま、長期の滞陣を強いられる。160105

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第5回 191年、董卓討伐から二袁対立へ

初平二年(191) のできごとを記す。

春、袁紹・韓馥が、劉虞に帝位を勧める

◆韓馥・袁紹が勧進する
冀州牧の韓馥・勃海太守の袁紹は、劉虞が「宗室の長者」であるから、帝位に勧めた。『范書』劉虞伝によると、献帝が幼いこと、董卓の管理下にあること、遠く隔絶した長安にいることを理由とする。
これは本当であろうが、劉虞の奉戴は、別の意図がある。関東の諸軍の求心力を高めることである。袁紹としては最低限、韓馥に名を連ねさせることで、補給の拒否を防げる。韓馥は、冀州の国内に「袁紹を見捨てよ」という世論を抱えており、袁紹がもっとも注意を払うべき相手は韓馥である。
河内で袁紹とともに屯する曹操は、「諸君が北面しても、私は西を向く」と印象的なセリフを吐くが、事実だったとしても、例によって大勢に影響がない。

漢魏革命を正当化する歴史観から、『陳志』武帝紀は、曹操が献帝を否認してはいけない。しかし、関東の諸軍が空中分解する危機にあって、せっかく盟主の袁紹が立案した解決策を拒否するのは、合理的ではない。


◆袁術が勧進に反対する
袁術は、韓馥・袁紹に賛同を求められたが、拒否した。理由は二つ考えられる。
ひとつ、献帝を救出するための孫堅の戦いが、まさに現在進行中であり、孫堅の戦いの意義を失わせてはならない。
ふたつ、袁術が駐屯する④南陽は、①河内・③酸棗から離れている。劉虞を擁立して求心力を取り戻したいのは、①河内・③酸棗のニーズであって、④袁術は関係がない。「不忠」のリスクを冒して劉虞を推戴しても、メリットがない。

史料には、袁術の「僭号」を先取りした価値観で編纂されており、偏向が認められる。偏向に注意しながら、確認したい。
『陳志』公孫瓚伝にひく『呉書』では、韓馥が「献帝は霊帝の子ではない。光武帝の五世孫である劉虞を、皇帝にしよう」と提案し、べつに袁紹も書簡を送った。このとき袁術には、「不臣の心」があり、国家に年長の君主が立てば、自分に利がないので、公義にかこつけて拒絶したという。
『陳志』袁術伝にひく『呉書』では、袁紹が劉虞のことを提案すると、袁術は、漢室の衰退を見て、ひそかに「異志」を抱き、公義にかこつけて拒んだ。袁術は、「献帝は聡明であり、周成王の素質がある。なぜ『霊帝の子ではない』とそしるのか。董卓を滅ぼして、献帝を救出するのが、わが志なのだ」と表明する。
『范書』袁術伝では、袁術が「放縦を好み、長君を立てんこと憚り、公義を以て託け」反対する。『呉書』の焼き直しである。

袁術の発した文書は、「董卓から献帝を救うべし」という「公義」を論じた、極めて常識的なものであり、韓馥・袁紹の詭弁を退けているのである。

◆劉虞は帝位を拒否する
もと楽浪太守の張岐が、劉虞に「尊号」を要請。劉虞が断ると、韓馥らは、「領尚書事・承制封拝」を要請。帝号を称さなくても、権能は皇帝と同等。しかし、献帝の救出をスローガンとする劉虞は、張岐を捕らえて斬った。
劉虞は、献帝と救出するため、右北平の田畴を、長安に差し向けた。田畴は、官の使者を称せば、長安にたどり着けないから、「私行」の形式で長安に向かう。

『范書』劉虞伝、『陳志』田畴伝より。


二月、董卓が太師となる

初平二年(191) 二月、董卓は「太師」となる。位は諸侯王の上。太師とは、太公望呂尚と周公姫旦がついた、伝説的な宰相職。
この時点で、董卓はまだ洛陽近郊に留まっている。遠い長安の朝廷に働きかけ、殊礼を付与させた。

春、孫堅が董卓を破り、洛陽に入る

◆陽人で勝利する
董卓が孫堅に敗れて洛陽を放棄するのは、初平二年(191) 夏四月である。ゆえに、「陽人の戦い」から決着までが、初平二年(191) 春のできごとと確定する。

梁県の東で徐栄に敗れた孫堅は、敗残の兵を集め、陽人に屯する。
董卓は、東郡太守の胡軫・騎督の呂布を送りこむが、胡軫・呂布が仲違いして敗れた。孫堅は、都督の華雄を梟首にした。

『范書』董卓伝・『陳志』孫堅伝とその裴注より。


◆袁術は兵糧を出し惜しみしたか
連戦につぐ連戦で、袁術からの補給は、滞りがちである。孫堅のいる陽人から、袁術のいる魯陽まで、百余里あるが、孫堅は夜に馳せて、兵糧の補充を訴えた。
「上は国家のために賊(董卓)を討ち、下は将軍(袁術)の家門の私讎(袁隗・袁基)を慰めようとしています。私は、董卓と骨肉の怨はないが(怨があるのは袁術だが)戦っているのです」
袁術は、すぐに軍糧を調発した。
「調発」の語は、『陳志』孫堅伝に見える。袁術は、貯めこんだ兵糧を出し惜しみしたのではなく、新たに調発しなければ、送る兵糧がなかったのである。戦いが一年に及び、兵糧が不足し始めたというのが実態だと考えられる。

孫堅伝のなかで、孫堅は「讒言を真に受けて、私を疑うな」と発言する。裴注『江表伝』は、これを敷衍して、見てきたような逸話を創作する。
あるひとが袁術に「もし孫堅が勝ち進み、洛陽を得れば、制御不能となる。狼を除いて、虎を得るようなものだ」と吹きこんだ。ゆえに袁術は、孫堅を疑って(兵糧を惜しむようになった)。孫堅は、呉起・楽毅の先例をひいて、兵糧が続かないために、大勝を逃すことの愚を訴えた、云々。
袁術の目標は、劉虞のことで表れたように、献帝の救出である。董卓と戦い、勝敗の分からない情況で、わざと孫堅を不利にする理由がない。史家による歪曲・潤色とみてよいであろう。

『三国演義』に取り込まれ、印象深い場面になってしまった…。

参考になるのは、袁紹と韓馥の関係。袁紹も兵糧に不安を抱え、これが冀州を乗っ取る動機となる。諸軍にとって、兵糧不足は共通の課題であった。

◆孫堅が董卓・呂布を破り、洛陽に入る
孫堅が陽人の屯に戻ると、李傕が孫堅に、「子弟を刺史・太守に任じてやる」と和親をはかる。孫堅はこれを拒否。大谷まで進軍し、洛陽まで九十里の距離。大谷は、霊帝がおいた八関のひとつ。
董卓は、諸陵墓の間で、みずから孫堅と戦ったが、敗れて澠池に退却。陜県に兵を集める。孫堅は、ふたたび呂布を撃破して、洛陽に入城。宗廟・諸陵を修復して、大牢を祀った。

洛陽に入る直前、孫堅が董卓・呂布と直接対決するのは、『范書』董卓伝である。いずれも『陳志』孫堅伝には見えない。


春、孫堅が伝国璽を得る

・伝国璽の出所について

黄色い囲みの部分は、後日追記します。

春、董卓が長安に撤退する

・董卓の長史・劉艾が、孫堅を懐柔
・董卓が長安に撤退、孫堅が諸陵を修復して魯陽にひく


夏四月、董卓が洛陽で尚父を試みる

・董卓が長安に至り、皇甫嵩をおどす
・董卓が尚父を欲して蔡邕に諌められ、郿塢を築く


秋七月、袁紹が冀州牧となる

董卓が長安に移ったため、袁紹は河内に進駐する意義を失った。延津に移った。上党で数千をひきいる張楊は、南単于とともに漳水に屯し、延津の袁紹に味方する。韓馥は、張楊・南単于に支持され、勢力をもつ袁紹を脅威に感じて、兵糧の供給をしぶる。

・麹義が韓馥に反し、袁紹が公孫瓚を冀州に引きこむ
・逢紀の勧めで冀州を狙い、耿武・閔純・李歴を斬り、冀州牧に

黒山賊の于毒・白繞・眭固らが反し、十余万で、魏郡・東郡を攻める。魏郡とは、袁紹が韓馥から奪ったばかりの鄴城のこと。袁紹が韓馥の属官を武力制圧したが、この変化点に、黒山賊も同じ城を狙ったと見られる。
東郡太守の王肱(橋瑁の後任)は制しきれず、曹操が東郡に向かい、濮陽で白繞を撃破。袁紹は、私的に曹操を東郡太守に任命し、東武陽に駐屯させた。

南単于・張楊は、冀州を得た袁紹にそむき、黎陽に屯する。董卓は、反袁紹の張楊を味方につけるため、張楊を建義将軍・河内太守とする。張楊は、はじめ何進の命令で并州に行ったものであり、強兵をひきいる。

・張楊について

袁紹・曹操は、初平二年(191) 夏、董卓という目標を失って、根拠地を求め、初平二年(191) 秋、他人の城を奪ったばかり(袁紹は韓馥、曹操は王肱から)。袁紹の魏郡支配・曹操の東郡支配に対抗するのが、黒山賊の于毒らと、南単于、河内太守の張楊。情勢はどちらに転ぶか、まだ不確定。

冬、袁紹・袁術の対立が始まる

冬十月、董卓が衛尉の張温を、袁術と内通したとして殺害。
長安に移った董卓にとって、具体的な脅威となるのは、戦わずに背後に引いた袁紹・曹操ではなく、いまも魯陽で関中を窺う、袁術・孫堅である。

・張温について


◆勃海で公孫瓚が青州黄巾を撃破
初平二年(191) 冬、冀州・兗州を攻める黒山賊に呼応して、青州黄巾が兵三十万で勃海を寇した。青州黄巾を破るのは、袁紹が韓馥を脅すために冀州に招いた公孫瓚。公孫瓚の武名は高まり、冀州の諸城は、ほぼ全て公孫瓚になびく
袁紹から見れば、韓馥から冀州を奪った以上、公孫瓚が脅威となった。公孫瓚から見れば、韓馥から冀州を奪うのも、袁紹から冀州を奪うのも同じこと。公孫瓚の野心に焚きつけて、彼を冀州に入れたことが、袁紹にとって裏目に出た。
公孫瓚は、自派の武将を、地方長官に任命して、勢力の拡大を図る。このとき、劉備が平原にゆく。

・先主伝との照合


◆公孫越が南陽にゆく
初平二年(191) 春、帝位を拒んだ劉虞は、田畴を長安に派遣していた。長安に至った田畴は、劉虞の子・侍中の劉和と会う。劉和は、董卓から献帝を救出するため、長安を脱出して袁術を頼った。献帝の救出を目標とし、半年前まで董卓と戦っていた袁術は、当然ながら受諾。
劉和は南陽に残り、幽州牧の父・劉虞に援軍を求めた。劉虞は、数千騎を送ろうとしたが、公孫瓚が反対。公孫瓚は、袁紹に対抗して冀州に南下するため、幽州軍を温存したかったと思われる。
しかし、献帝を救出したいという劉虞の意志は固く、派兵を敢行した。ひきいるのは、公孫瓚の従弟・公孫越。

劉虞が南陽に送ろうとした数千騎を、「袁術の異志」を知る公孫瓚が留めた。しかし公孫瓚は袁術に怨まれるのを恐れ、従弟の公孫越に数千騎を与えた南陽に送った。これが史料が「忖度」した心情の動きだが、袁術を絡めて、無用に二転三転しており意味不明幽州軍の数千騎を南陽に送るという結果は同じである。ゆえに情況を踏まえて、公孫瓚の心情を「忖度」しなおし、ストレートな記述を心がけた。

公孫瓚は袁術に、「劉和を捕らえて、幽州軍を奪え」と勧めた。すなわち、公孫越がひきいる幽州軍を、献帝の救出ではなく、関東(冀州・兗州)の争奪に投入せよと勧めたと解せよう。幽州軍といっても、指揮官は公孫越。公孫瓚の意向を踏まえて動くことができる。

初平二年春、田畴が長安に出発。同年冬、公孫越が袁術と合流。1年間をかけて、使者・騎兵の移動が行われていたと思われる。史料から月を特定できないため、1年の動向を、ここにまとめて配置した。


◆豫州刺史を、袁紹・袁術が奪いあう
初平元年春、関東が起兵したとき、豫州刺史の孔伷が潁川に屯したが、戦績が史料に見えない。同年春、袁術が孫堅を豫州刺史としたとき、孔伷と衝突した形跡がない。孔伷はいち早く、董卓に敗退していたのかも知れない。
初平二年(191) 春、董卓から洛陽を奪回した孫堅は、董卓といつでも戦えるように、陽城にいた(『陳志』公孫瓚伝)。 孫堅が本拠地の豫州に帰る前に(『范書』袁術伝)、袁紹が会稽の周昂を豫州刺史に任じ、豫州を奪おうとした。



司隷・荊州・豫州が入り乱れた境界線上で、争奪が起きた。孫堅は、献帝を顧みず、領土拡大に努める袁紹に怒った。袁術は、公孫越を陽城に差し向けたところ、流矢に当たって死亡。袁紹と公孫瓚の決裂が決定的となる。

◆孫堅の死去

・孫堅が劉表を攻め、黄祖に射殺される;死にざまと没年の件
・孫堅の兄子の孫賁が、袁術に従って豫州刺史となる

孫堅を失った袁術は、劉表に勝つことが難しくなった。

二袁の争いの始まりについて

董卓との戦いでは、袁紹に見所がなく、袁術・孫堅が主導権を握った。一方、関東の争奪においては、袁紹が主導権を握った。袁術と袁紹の対立は、「董卓と戦って献帝を救うべきか/領土を確保して勢力を養うべきか」という軸で開始された。
きっかけは、初平二年(191) 夏四月、董卓が長安に撤退したこと。

袁術・劉虞という「忠臣」は、董卓と戦うことに固執した。忠臣というと聞こえがよいが、忠臣であることと、「董卓の討伐が、実質的に不可能」という変化に乗り遅れることとは表裏一体である。
董卓が長安に退き、軍の存在意義・兵糧ともに欠乏した袁紹は、公孫瓚を転がすことで、関東を領土の争奪戦に移行させる。まず袁紹が公孫瓚に「冀州を切り取ろう」と持ちかけ、公孫瓚をつかって韓馥を脅迫。袁紹は韓馥の駆逐に成功したが、公孫瓚は”約束”どおり冀州を狙い続けた。公孫瓚の強さは、袁紹にとっては誤算であり、冀州獲得の副作用である。

翌 初平三年(192) 春、界橋の戦い。副作用は強烈で、公孫瓚との戦いは泥沼化。初平四年(193) 初め、太僕の趙岐が和解させるまで継続 。

領土的な野心を袁紹に”喚起”された公孫瓚は、董卓と戦うための劉虞軍を、関東の戦いに転用することを願って、「忠臣」の劉虞と対立。

劉虞は後手に回って、初平四年(193) 公孫瓚に斬られる。


初平二年(191) 冬、袁術・孫堅は、愚直にも(袁紹の変節に対処せず)董卓軍と戦っていた。
袁紹の派遣した豫州刺史の周昂が、孫堅の本拠地を突き、袁術・孫堅は、否応なく関東の戦いに巻きこまれた。奇しくも、公孫瓚が袁紹の戦いに投入したかった幽州軍=公孫越は、(公孫瓚の願いどおり)袁紹派の周昂と戦って戦死
袁紹が機先を制して「関東で自立」に戦略を変更した結果、孫堅は後手に回って本拠地を脅かされ、(袁術が場当たり的に公孫越を使役したため)公孫瓚は従弟を失ったという形勢。
後手に回った袁術は、遅れて「関東で自立」を図り、荊州を狙ったところ、孫堅すら失ってしまった。初平二年(191) 四月以降、袁術に見所なし。
袁紹の戦略変更は、忠臣の行動ではないにせよ、勢力扶植には有効であった。

袁術と公孫瓚は、積極的な同盟の意図があったというより、なし崩し的に「反袁紹」とならざるを得ず、成り行きで協調関係になった。袁紹と劉表は、「反袁術」で利害が一致するが、戦略的な連携は見られない。
二袁が展開したとされる遠交近攻は、強調されすぎてはならないだろう。

初平二年(191) のまとめ

初平二年(191) までのできごとを要約する。
中平六年(189) 秋以降、袁紹・袁術は、ほぼ単身で(軍を編成する目途もなく)董卓から逃げた。兵員・糧秣の補給が必要。
初平元年(190) 春、ともに起兵。袁紹は勃海・王匡の兵を、韓馥に養わせる。袁術は南陽・孫堅の兵を、南陽一郡で養い、背後の襄陽に劉表がいる。

初平二年(191) 夏四月、董卓が長安に籠もり、討伐が難しくなると、すばやく潮目を読んだ袁紹によって、局面が動く。当時、戦いが長期化して、袁紹は韓馥との関係が悪化していた。
初平二年(191) 秋、袁紹は、韓馥から冀州の乗っ取りに成功。初平二年(191) 冬?、袁術は、劉表から荊州を乗っ取るのに失敗し、孫堅すら失う。
前線からひいて、後背地に本拠を求めた結果、袁紹は成功し、袁術は失敗した。従兄弟で対照であり、南北で対照でもある。160107

@daradara3594 さんのツイート

おもしろかったので引用させて頂きます。160214

袁術と孫堅の関係がまずあり、そこに孫堅と朱儁と孫堅の関係が重なり、更に陶謙と孫堅の関係が重なり~という感じの広がりが初平二年にあったのかも。孫堅が朱儁と協力して洛陽を解放したという記述は、後漢紀にしか載ってない?

袁術は、袁紹が鮑信を既に行破虜将軍に立てたのを無視して孫堅を行破虜将軍に立て、朱儁と孫堅を使って袁紹より先に洛陽解放を成功させた。更に陶謙は朱儁を袁紹が既に自称していた行車騎将軍に立て、朱儁をリーダーとした董卓討伐戦を呼び掛けた。袁術と陶謙は袁紹の盟主としての立場を全否定している。
袁術・孫堅・陶謙の支援を受けて朱儁がもう一人の行車騎将軍として義挙の主導権を握る態度を明確にした事で、行車騎将軍袁紹は彼ら四人を董卓とは又別個の討伐すべき賊軍と見なした。その結果が周昴の予州刺史=孫堅の官職否定と、孫堅急襲だった。こう考えると、袁紹の孫堅襲撃の動機がはっきりする。
つまり、初平二年夏頃に洛陽解放に成功した袁術陣営は行車騎将軍朱儁を盟主として、今後は自分達が董卓討伐の主導権を握る事を宣言した。ここから董卓との戦いが、二袁の戦いにはっきりと転じたのだと思う。ここで陶謙は朱儁を新たな盟主に担ぐ重要な働きをした為に、袁紹の絶対殺すリストに名前が乗り、翌々年と曹操との徐州への共同出兵と徹底的な破壊になったのかも。二度の徐州征伐は、袁紹陣営の義軍としての立場を全否定しやがった不届き者への懲罰的なもので。

威勢良く立ち上げた朱儁連合だけど、翌初平三年春に肝心の朱儁が牛輔の東征伐軍に撃破されてる。これで陶謙が朱儁のもとに派遣した三千人は行き場を失い、徐州への帰路で曹操に叩きつぶされ、それが武帝紀初平三年冬の「陶謙を発干で撃破した」という妙な記述になったのかも。
袁術は袁紹が発給した官職無視するわ、朱儁を袁紹に真の盟主に担ぐわ、更に陶謙、公孫サン、黒山賊に匈奴隷とまで手を結んで、初平三年冬に袁紹の包囲殲滅を敢行して、それが失敗すると李傕とさえも手を握って袁紹抹殺を目指す。一族を破滅させた男への復讐に燃えるダークヒーロー感ある。
曹操と袁紹の侵攻で陶謙軍が総崩れになったのは、かなりの手勢を中牟の朱儁屁の支援や、初平二年冬の袁術北上のアシストに傾注し過ぎて、陶謙の自前の軍隊が消耗していたのかも。

朱儁が長安政権に帰順したのは初平四年春頃。袁術の淮南敗走の最中だ。朱儁が中牟で頑張れたのは、後背の南陽~潁川が袁術の勢力圏だったからこそ。だから袁術が荊予の支配権を喪うや、長安政権に潰される前に此方から帰順して朝廷内で影響力を握ろうと図ったのかも。そう考えると老獪な立ち回り。
袁紹復讐の達成に王手をかけた袁術の前に立ちふさがったのが、かつての親友曹操とか、素敵すぎる。そして、この時は袁紹を支えるのが最善の道と考えて袁術を倒した曹操が、徐々に張バクや臧洪の破滅を目にして動揺しだして、袁術に代わって袁紹に挑むことになるという凄まじい展開。

袁紹への復讐に燃える袁術が、とにかく自分の犯罪歴を帳消したいだけの孫堅の圧倒的な暴力に依存しているという関係が最高なんです。よりによって孫堅から「これは大義の為の戦いだと、お分かりか。私は貴方の為に自ら手を汚しているのですよ!?」と説教されてしまう袁術。カワイソウ。孫堅は息子が頑張ってくれてなかったら、間違いなく袁術と一緒に立伝されて、南の呂布とか呼ばれてたはず。「性残忍にして、好みて無辜を殺し、虜略を以て娯しみと為す。南陽の民の號哭地に満つ。」みたいな感じで。血のような汚れが付着した「荊州刺史」「南陽太守」と刻まれた印綬を腰に提げ、袁術氏との会見に望む孫堅氏。

以上、引用終わります。160214

引用ふたたび。ちょっと論じてる時期が違うが。
@daradara3594 さんはいう。陳王劉寵が197年に袁術に暗殺されて領国が崩壊した際、その夫人側室らは丹陽兵や烏桓兵に略奪されたという。劉寵領を接収した陳国相袁嗣の指揮下に丹楊兵や烏桓兵がいたということ?丁度、最近まで丹楊都尉を務めていた孫賁が寿春に召喚されていた時期だ。
時系列では、①197年某月に陳王劉寵と国相駱俊が袁術刺客により暗殺。②同九月に袁術軍が無主の陳国を制圧、袁嗣を国相に任命。③この際に丹楊兵や烏桓兵が女官を略奪。④同月中に曹操が陳を攻略し袁術主力軍壊滅。この翌年に周瑜・孫賁・呉景が袁術から離反し江東帰参。うーんこの泥船。
居巣長の周瑜は解らないけど、主力級で寿春に召喚されていた呉景・孫賁が197年の陳攻略戦に投入された可能性は高そう。なにせ仲帝陛下の親征ですし。ここで陛下が曹操との決戦を避けて遁走、橋ズイら主力軍壊滅とえらい目にあったもんだから、翌年に周瑜と前後して離反したんでは?後漢書袁術伝がいう、陳での大敗で「袁術の軍団は弱体となり、大将は討ち死にし、その配下の衆は離反した」という離反組の具体例が、周瑜・呉景・孫賁だったんだろう。161129

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第6回 192-193年:作成中

初平三年(192)

初平三年(192) は、袁術に大きな動きがない。袁術は南陽にいて軍を養い、孫賁は豫州刺史として陽城に屯し、つぎの打ち手を探っていたと思われる。
劉表の戦略は、襄陽を北限として荊州を支配し、袁術の自壊を待つこと。孫堅を失った袁術であるが、劉表軍の北伐に悩まされることはなかった。

初平三年(192) は、袁紹・曹操が、冀州・東郡の支配を確立するため、対抗勢力たちと戦った時期。この対抗勢力は、翌 初平四年(193) 春の袁術の北伐に協力する。つまり袁術は、大きく動かないが、反袁紹の勢力と交渉をして、冀州・東郡を、袁紹・曹操から奪うための準備をした期間と見なすことができる。

◆袁術のライバルたちの動き
・春、袁紹が界橋で公孫瓚を破った。
・春、曹操が、頓丘で黒山賊の于毒を攻め、于毒が曹操の本拠地である東武陽を攻めた。曹操は東武陽に帰らず、于毒の本拠地を攻めたので、于毒は兵を退いた。曹操が内黄で於夫羅を破った。
・春?、荀攸・鄭泰が董卓の暗殺を試みる。失敗した鄭泰が袁術を頼る袁術は鄭泰を揚州刺史にしたが、ほどなく死去。

・袁術と鄭泰の人脈について


・夏四月、王允・呂布が董卓を斬った。
・夏、青州黄巾が兗州に入り、兗州刺史の劉岱が敗死。済北相の鮑信が、曹操を兗州刺史とする。長安は、京兆の金尚を兗州刺史とするが、曹操に追い返される。金尚は袁術を頼る

・金尚と袁術の関係について

・六月、呂布が李傕に敗れて長安を脱出、武関を出て南陽に袁術を頼る。袁術が厚遇したが、呂布は、河内の張楊、冀州の袁紹をわたり歩く。

・呂布と袁術の関係、呂布の動きについて


・冬十月、荊州刺史の劉表が、李傕政権に朝見し、鎮南将軍・荊州牧となる。劉表は、董卓・李傕政権と敵対したことがない。董卓・李傕にとって最大の敵である袁術の背後を、一貫して抑えている。
・冬(武帝紀)、曹操が青州黄巾を降して、百万を得る。

・公孫瓚が置いた地方長官を、袁紹・曹操が連携して撃破。高唐の劉備、平原の単経など。發干に屯する陶謙も退けた。

武帝紀では初平三年「冬」に青州黄巾を降し、そのあとに、公孫瓚の地方長官を撃った記事があり、つぎが初平四年の記事。ゆえにここに置いた。
『范書』袁術伝は、初平三年、「公孫瓚使劉備與術合謀共逼紹,紹與曹操會擊,皆破之」と。公孫瓚は劉備に袁術と謀を合わせしめた。

・公孫瓚・劉備と、袁術の連携について

・この歳のうちに、袁紹と公孫瓚が龍湊で戦う。

・この歳、揚州刺史である、汝南の陳温?が死ぬ。袁紹は袁遺を派遣するが、袁術が下邳の陳瑀?を派遣して、袁遺を追い返す。豫州刺史をめぐり、周昂・孫堅が対立したのと同じ構図。揚州は袁術の勢力圏か。

・陳氏に関する史料の混乱について


初平四年(193) 春、袁術の北伐

◆袁術が陳留に進む
袁術は、南陽の一郡を抑える。南陽は、戸数が数十万いるが、袁術軍を支えきれない。経済的に破綻し、百姓を苦しませた。

『范書』袁術伝:不修法度,以鈔掠為資,奢恣無猒,百姓患之。
『陳志』袁術伝:術奢淫肆欲、徵斂無度、百姓苦之」

領土を広げるため、南進したい。だが、孫堅がおらず、初平三年(192) 十月、荊州牧に昇格した劉表と戦うのは得策ではない。
いよいよ、劉表軍の介入があったようで、劉表に糧道を断たれた袁術は、北伐を決行。「糧道を断つ」とは、『陳志』武帝紀に見える。

初平四年(193)春、袁術は陳留に軍を入れた。
陳留太守は張邈である。「八廚」のひとりで、もとは袁紹・曹操と共通の友人。

将の衛茲を曹操に遣わし、徐栄と戦わせた。衛茲は戦死。

やがて張邈は、関東の盟主として驕った袁紹を諌め、袁紹に殺されそうになった。曹操が止めて事なきを得たが、袁紹との関係は悪化している。張邈は、袁紹に逐われた韓馥・呂布を受け入れるなど、「良心的」な士大夫である。袁紹が、「切り取り自由」にしてしまった関東にあって、豊かな一郡を守り続けている。
反袁紹を掲げて北上した袁術と、少なくとも敵対関係にはない。

袁術が陳留の封丘に屯すると、初平二年(191) 秋からずっと袁紹・曹操と戦ってきた黒山賊と於夫羅は、袁術に味方をした。
袁術は、部将の劉詳を、匡亭に配置。

◆袁術の北伐の狙い
袁術の狙いは、袁紹・曹操が一年以上にわたって領内で戦っても、安定させられない冀州・兗州を、改めて揺さぶることになった。
つまり、南で支配を定着させつつある劉表と戦うよりも、北で平定に明け暮れる袁紹・曹操と戦ったほうが、勝ち目があると睨んだのであろう。
想像を逞しくすれば、献帝の救出をさっさと諦めた袁紹を、袁氏の家長を自認する袁術が、処罰しようという心情があったのかも知れない。

袁紹は、初平三年(192) 春、磐河・界橋で公孫瓚と戦った。同年内、龍湊でも戦った。初平四年(193) に入っても、袁紹は、公孫瓚の任命した青州刺史の田楷と、二年にわたって連戦。長子の袁譚を青州刺史として対抗させるが、決着がつかず。
初平三年(192) 八月、長安を出発した太僕の趙岐が到着し、初平四年(193) 初め、袁紹と公孫瓚を和解させた。すなわち、袁術が北伐を開始したとき、袁紹は公孫瓚と泥沼の戦いをしており、冀州は守りが手薄で、兗州を救う余裕がない。

曹操は、劉詳を撃つ。袁術は劉詳をすくうため、曹操と戦う。曹操は、袁術を大破した。 袁術は、襄邑ににげた。曹操は袁術を追って、大寿にきた。

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