表紙 > 曹魏 > 何顒ら党錮と結びつき、河北と曹操をつないだ荀攸伝

02) 鍾繇とともに曹操に仕え、河北平定

『三国志集解』で、荀攸伝をやります。

おなじ巻の荀彧は、すでにやった。さっき、賈詡もできた。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ


何顒への裴注:平時の袁術、乱世の陶丘洪

張璠漢紀曰:顒字伯求,少與郭泰、賈彪等遊學洛陽,泰等與同風好。顒顯名太學,於是中朝名臣太傅陳蕃、司隸李膺等皆深接之。及黨事起,顒亦名在其中,乃變名姓亡匿汝南間,所至皆交結其豪桀。顒既奇太祖而知荀彧,袁紹慕之,與為奔走之友。是時天下士大夫多遇党難,顒常歲再三私入洛陽,從紹計議,為諸窮窘之士解釋患禍。而袁術亦豪俠,與紹爭名。顒未常造術,術深恨之。

張璠『漢紀』はいう。何顒は、郭泰、賈彪とともに、洛陽で遊学した。太傅の陳蕃、司隷の李膺が、深く接した。党錮のとき、汝南と南郡にひそむ。曹操と荀彧を評価し、袁紹と奔走の友となった。洛陽にはいり、袁紹とともに党人を救った。袁術を重んじないので、袁術に恨まれた。

再掲載:『後漢書』何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏か
王補はいう。党錮のとき、諸公は主張をまげた。夏馥、賈彪、何顒はまげず。


漢末名士錄曰:術常於眾坐數顒三罪,曰:「王德彌先覺雋老,名德高亮,而伯求疏之,是一罪也。許子遠凶淫之人,性行不純,而伯求親之,是二罪也。郭、賈寒窶,無他資業,而伯求肥馬輕裘,光耀道路,是三罪也。」陶丘洪曰:「王德彌大賢而短於濟時,許子遠雖不純而赴難不憚濡足。伯求舉善則以德彌為首,濟難則以子遠為宗。且伯求嘗為虞偉高手刃復仇,義名奮發。其怨家積財巨萬,文馬百駟,而欲使伯求羸牛疲馬,頓伏道路,此為披其胸而假仇敵之刃也。」

『漢末名士錄』はいう。袁術は、何顒の3罪をかぞえた。「何顒は、王德彌を軽んじた。許子遠と親しんだ。郭泰と賈彪をたすけた」と。

ぼくは思う。王徳弥に、盧弼の注釈がない。惜しまれる!
許攸は、武帝紀の建安五年(200)、崔琰伝にひく『魏略』にある。袁術の評価は、荀彧伝にある。「袁術は、激することがあっても、自分と係わりの ないことはやらない」と。ぼくは思う。意味がよく分からないし、荀彧伝のどこにあったか、思い出せない。また見る。

陶丘洪は言った。

陶丘洪は、『三国志』華歆伝にある。『三国志』劉繇伝にある。『後漢書』孔融伝はいう。孔融は、平原の陶丘洪と、陳留の辺譲とともに、名声がひとしい。
『三国志』華歆伝:袁術とともに馬日磾を支えた、豫章太守の華歆
『三国志』劉繇伝:袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ
『後漢書』孔融伝:袁紹と曹操につかず、馬日磾を糾弾した孔融
李賢は『後漢書』に、『青州先賢伝』をひく。陶丘洪は、あざなを子林。平原の人。孝廉にあがり、太尉府に辟された。30歳で死んだ。

「王德彌は、当世をすくえない。許子遠は、危険をおかして、難におもむく。何顒によるランクづけでは、善人をえらぶなら、王徳弥がトップだが、時難をすくうなら人材なら、許子遠がトップだ。さらに何顒は、虞偉高の仇敵をたおした。仇敵は、巨万の財産があった。何顒は、財産がない。財産のない何顒は、財産のある仇敵に対して、ハンデがあったが、仇討をやりとげた」と。

ぼくは思う。ちくま訳だと、「もし何顒に財産を持たせず、道路で何顒をひっくり返せば、どうなるか。何顒の胸に、仇敵の刃を突き立ててくれ、と言うに等しい」という読み方。よく分からん。っていうか、ここのちくま訳を読んで、「なるほど」と思う人が、いるのか。
ぼくは正しく読めませんが、確認する。まず、仇敵に財産があり、何顒に財産がないという対比。この状況は、もとから何顒は不利な立場だと示す。何顒は仇敵から、刀を突きつけられているに等しい。それくらい不利。何顒は、この不利をくつがえし、ぎゃくに仇敵を刺し殺してやった。何顒スゲー!と。
ぼくは思う。陶丘洪のコメントは、倒錯してる。王徳弥は、平時にはすぐれるが、乱世には、すぐれない。許子遠は、平時には、油断ならないヤツだが、乱世を救うことができる。虞偉高の仇敵は財産があるが、何顒は財産を持たずに、仇敵をやぶる。つまり、袁術は平時の価値観で判断し、何顒や陶丘洪は、乱世の価値観で判断する。袁術は、後漢の権威&財産ありきで考えるが、何顒や陶丘洪は、後漢の権威&財産をリセットして考える。袁術と何顒は、人物眼がちがわず、時代の見方がちがう。
この記述を「論破された袁術、ダセー!」としか読まないなら、それは誤読だ。笑


術意猶不平。後與南陽宗承會於闕下,術發怒曰:「何伯求,凶德也,吾當殺之。」承曰:「何生英俊之士,足下善遇之,使延令名於天下。」術乃止。後黨禁除解,辟司空府。每三府掾屬會議,顒策謀有餘,議者皆自以為不及。遷北軍中候,董卓以為長史。後荀彧為尚書令,遣人迎叔父司空爽喪,使並置顒屍,而葬之於爽塚傍。

『漢末名士録』はつづく。袁術は、陶丘洪に納得しない。のちに袁術は、南陽の宗承と、闕下で会った。袁術は怒った。「何顒は、凶德だ。私・袁術は、何顒を殺そう」と。宗承は言った。「何顒は、英俊之士だ。袁術は、何顒を善遇して、天下に名声を売れ」と。袁術は、何顒を殺さず。

ぼくは思う。南陽の宗承なる人物を、盧弼は注釈せず。惜しい。宗承の背景が分からなければ、「ある人」でも同じになってしまう。同郡&同姓の人を探して、こじつけるか。っていうか、宗姓なんて知らん。
袁術は、宗承に説得されたから、何顒を殺さなかったのか。ちがうだろう。「凶徳」な人物を、名声を売るために助ける、じゃあ安易だ。「凶徳」なんて、ほかの史料で、あまり見たことがない罵倒だ。じゃあなぜ殺さないか。党錮で、何顒がダメージを受けたから?

のちに党錮が解かれた。何顒は、司空府に辟された。三公府の掾屬が会議するごとに、何顒のアイディアが、いちばん多い。北軍中候にうつる。董卓の長史となる。

『後漢書』何顒伝では、三公府をことわった。董卓にせまられ、長史となる。何顒は、病を称して、就かず。ぼくは思う。『後漢書』は、士大夫が後漢をきらったことを、強調しすぎる。

のちに荀彧が尚書令となり、叔父の司空・荀爽の死体を迎えた。何顒の死体をならべ、となりに葬った。

王補はいう。荀爽が董卓を殺そうとした記述は、史料らにない。この『魏書』巻10と、何顒伝にあるだけ。荀彧にちなみ、荀爽についてウソを書いたのだ。
『後漢紀』はいう。荀爽は、党錮が解けると、董卓によって三公にされた。荀爽は、何顒を抜擢した。荀爽は、王允とともに三公である。董卓の暗殺をやらない。
『後漢紀』はいう。課御、荀攸、鄭泰、种輯は、董卓を殺そうとしたが発覚した。荀攸、何顒は、獄につながれた。何顒は、憂懼して自殺した。『後漢書』鄭泰伝でも、鄭泰、何顒、荀攸は、董卓を殺そうとしたとある。だが、ただ『後漢書』何顒伝だけが、荀爽、王允が董卓を暗殺しようとしたとする。ほかの史料とちがう。
この話、さっきやったのになあ、、
盧弼は考える。王允が董卓を殺すとき、荀爽はすでに死んでいた。荀爽を、ウソで美化しただけだ。何顒は、他事でつながれた。史料に偽りがおおい。『資治通鑑』は、何顒の死を載せない。『通鑑考異』はいう。荀攸、鄭泰、种輯が、董卓の暗殺をたくらんだのも怪しい。『三国志』は、何顒、伍瓊が暗殺をねらったとするが、誤りである。偽ったのだ。
ぼくは思う。董卓の暗殺計画は、『後漢書』が記すより、ずっと小さい。党人を美化するために、「あの儒教ヒーローも、この儒教ヒーローも、董卓を殺そうとした。フィニッシュは、王允が決めたけどね」という話にしてある。ウソ。
「三公府から辟されても断り、董卓を断り、」というのも、誇張かも知れない。


何顒の人脈を曹操につなぎ、河北を平定

棄官歸,復辟公府,舉高第,遷任城相,不行。攸以蜀 漢險固,人民殷盛,乃求為蜀郡太守,道絕不得至,駐荊州。
太祖迎天子都許,遺攸書曰:「方今天下大亂,智士勞心之時也,而顧觀變蜀漢,不已久乎!」於是徵攸為汝南太守,入為尚書。太祖素聞攸名,與語大悅,謂荀彧,鍾繇曰:「公達,非常人也,吾得與之計事,天下當何憂哉!」以為軍師。建安三年,從征張繡。攸言於太祖曰:「繡與劉表相恃為強,然繡以遊軍仰食於表,表不能供也,勢必離。不如緩軍以待之,可誘而致也;若急之,其勢必相救。」太祖不從,遂進軍之穰,與戰。繡急,表果救之。軍不利。太祖謂攸曰:「不用君言至是。」乃設奇兵複戰,大破之。

荀攸は官位を棄てた。ふたたび三公府に辟された。高第にあがる。任城(兗州)相になる。ゆかず。蜀郡と漢中は、険固でさかえる。蜀郡太守になりたい。道が絶えて、ゆけず。荊州にとどまる。

ぼくは思う。漢水から入ろうとしたか。劉表、劉焉との係わりをチェックしたい。あまりに史料がないから、ひどい妄想になりそうだが。

曹操が天子を許県にむかえた。荀攸をまねき、汝南太守とした。

曹操が許県に移動したのは、袁紹への反抗、袁紹からの独立である。兗州にいたときよりも、量質ともに人材が必要。荀攸をまねいた動機は、ここにあるだろう。
汝南は、袁紹の故郷であり、官渡のとき反乱する。劉備が撹乱する。はじめに荀攸に期待された役割は、何顒との人脈を活かしつつ、汝南を鎮めること。「袁紹と敵対しつつ、何顒の人脈を鎮める」というのは、矛盾した任務だよなあ。この矛盾は、曹操政権そのもの。曹操は、献帝を奉戴しつつ、霊帝にそむいた党人を味方にしたい。

荀攸は、尚書となる。曹操は、荀攸の名声をきく。荀彧、鍾繇に言った。「荀攸は、非常の人だ」と。荀攸を軍師とした。建安三年(198)、張繍を攻めた。

建安二年とする版本もある。趙一清はいう。武帝紀でも、『資治通鑑』でも、三年とする。ぼくは思う。建安二年と三年、どちらも曹操は張繍を攻めた。今回は、あとのほうだ。

荀攸は言った。「ムリに張繍を攻めれば、張繍と劉表は団結する。攻めるな」と。曹操は、荀攸を聞かず、敗れた。のちに張繍を破った。


是歲,太祖自宛征呂布,
魏書曰:議者雲表、繡在後而還襲呂布,其危必也。攸以為表、繡新破,勢不敢動。布驍猛,又恃袁術,若縱橫淮、泗間,豪傑必應之。今乘其初叛,眾心未一,往可破也。太祖曰:「善。」比行,布以敗劉備,而臧霸等應之。
至下邳,布敗退固守,攻之不拔,連戰,士卒疲,太祖欲還。攸與郭嘉說曰:「呂布勇而無謀,今三戰皆北,其銳氣衰矣。三軍以將為主,主衰則軍無奮意。夫陳宮有智而遲,今及布氣之未複,宮謀之未定,進急攻之,布可拔也。」乃引沂、泗灌城,城潰,生禽布。

この歳、曹操は宛城よりもどり、呂布を征した。
『魏書』はいう。議者は言った。「張繍を後ろに置いたまま、呂布を攻めるのは危うい」と。荀攸は「張繍は、敗れたばかりだ。呂布はつよく、袁術をたよる。呂布を攻めろ」と言った。呂布は劉備をやぶった。臧覇らが、呂布に応じた。

ぼくは思う。曹操は、張繍-劉表と、呂布-袁術に、両面作戦を強いられている。『魏書』にある葛藤から、それが分かる。どこまで約束ができているか不明だが、劉表と袁術は、結果的に連携している。
『資治通鑑』はいう。泰山の臧覇、孫観、呉敦、尹礼、昌豨らは、みな呂布についた。胡三省はいう。荀攸は、つまびらかに敵情を理解した。

荀攸と郭嘉は、下邳を、沂水と泗水にひたした。呂布を生け捕った。

後從救劉延於白馬,攸畫策斬顏良。語在武紀。太祖拔白馬還,遣輜重循河而西。袁紹渡河追,卒與太祖遇。諸將皆恐,說太祖還保營,攸曰:「此所以禽敵,奈何去之!」太祖目攸而笑。遂以輜重餌賊,賊競奔之,陳亂。乃縱步騎擊,大破之,斬其騎將文醜,太祖遂與紹相拒於官渡。軍食方盡,攸言於太祖曰:「紹運車旦暮至,其將韓{荀大}銳而輕敵,擊可破也。」
臣松之案諸書,韓{荀大}或作韓猛,或雲韓若,未詳孰是。
太祖曰:「誰可使?」攸曰:「徐晃可。」乃遣晃及史渙邀擊破走之,燒其輜重。會許攸來降,言紹遣淳於瓊等將萬餘兵迎運糧,將驕卒惰,可要擊也。眾皆疑。唯攸與賈詡勸太祖。太祖乃留攸及曹洪守。太祖自將攻破之,盡斬瓊等。紹將張郃、高覽燒攻櫓降,紹遂棄軍走。郃之來,洪疑不敢受,攸謂洪曰:「郃計不用,怒而來,君何疑?」乃受之。

荀攸は、白馬で顔良を斬った。武帝紀にある。官渡で勝った。

経過は、原文を見たままなので、はぶく。ちくま訳・2巻、273ページ。


七年,從討袁譚、尚於黎陽。明年,太祖方征劉表,譚、尚爭冀州。譚遣辛毗乞降請救,太祖將許之,以問群下。群下多以為表強,宜先平之,譚、尚不足憂也。攸曰:「天下方有事,而劉表坐保江、漢之間,其無四方志可知矣。袁氏據四州之地,帶甲十萬,紹以寬厚得眾,借使二子和睦以守其成業,則天下之難未息也。今兄弟遘惡,此勢不兩全。若有所並則力專,力專則難圖也。及其亂而取之,天下定矣,此時不可失也。」太祖曰:「善。」乃許譚和親,遂還擊破尚。其後譚叛,從斬譚於南皮。冀州平,太祖表封攸曰:「軍師荀攸,自初佐臣,無征不從,前後克敵,皆攸之謀也。」於是封陵樹亭侯。

建安七年、八年、河北の平定を立案した。陵樹亭(陳留)侯となる。

河北の平定は、つぎにやる予定。いまは、保留します。
ぼくは思う。荀攸は、荀彧よりも、何顒らの人脈に濃い。もと袁紹が治めた河北を平定するとき、荀彧よりも、大きな活躍が期待されたのかも知れない。


十二年,下令大論功行封,太祖曰:「忠正密謀,撫甯內外,文若是也。公達其次也。」增邑四百,並前七百戶,轉為中軍師。魏國初建,為尚書令。
魏書曰:太祖自柳城還,過攸舍,稱述攸前後謀謨勞勳,曰:「今天下事略已定矣,孤原與賢士大夫共饗其勞。昔高祖使張子房自擇邑三萬戶,今孤亦欲君自擇所封焉。」

建安十二(207)、増邑された。中軍師に転ず。魏国が建つと、尚書令となる。

中軍師は、定員2名、第5品。尚書令は、定員1名、第3品。建安十八年(213)、尚書に権限を集中した。漢代、尚書は少府に属した。魏代、尚書は少府から独立した。


荀攸の作戦は、鍾繇が墓場に持っていった

攸深密有智防,自從太祖征伐,常謀謨帷幄,時人及子弟莫知其所言。
魏書曰:攸姑子辛韜曾問攸說太祖取冀州時事。攸曰:「佐治為袁譚乞降,王師自往平之,吾何知焉?」自是韜及內外莫敢複問軍國事也。

荀攸は、作戦を口外しない。
『魏書』はいう。荀攸の姑子・辛韜が、冀州の平定について、荀攸に問うた。荀攸は言った「辛毗が、袁譚を降伏させた。曹操は、何もしていない」と。内外の人は、荀攸に作戦を問うのをやめた。

辛韜と辛毗は、同族だ。荀攸は「あなたの一族の手柄だ」と言って、辛韜をだまらせた。けっこう、こわい人だな。


太祖每稱曰:「公達外愚內智,外怯內勇,外弱內強,不伐善,無施勞,智可及,愚不可及,雖顏子、甯武不能過也。」文帝在東宮,太祖謂曰:「荀公達,人之師表也,汝當盡禮敬之。」攸曾病,世子問病,獨拜床下,其見尊異如此。攸與鍾繇善,繇言:「我每有所行,反覆思惟,自謂無以易;以咨公達,輒複過人意。」公達前後凡畫奇策十二,唯繇知之。繇撰集未就,會薨,故世不得盡聞也。
臣松之案:攸亡後十六年,鍾繇乃卒,撰攸奇策,亦有何難?而年造八十,猶雲未就,遂使攸從征機策之謀不傳於世,惜哉!

曹操は曹丕に「荀攸を見習え」と言った。荀攸が病になると、曹丕が見舞った。鍾繇と仲が善かった。荀攸の12の奇策は、鍾繇が知る。これを記す前に、鍾繇が死んだ。
裴松之はいう。荀攸が死に、鍾繇が死ぬまで16年ある。奇策、書いとけよ。

鍾繇も荀攸も、潁川の人。鍾繇も、何を考えているか分からないが、献帝を曹操に連れてきた人。荀攸が曹操につかえたのは、鍾繇が献帝とともに、曹操に帰したからか。荀彧の親戚、という条件は、献帝が許県にくる前からあったのだ。それだけで、建安初のタイミングで、荀攸が曹操につかえる理由にならない。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝


攸從征孫權,道薨。太祖言則流涕。
魏書曰:時建安十九年,攸年五十八。計其年大彧六歲。魏書載太祖令曰:「孤與荀公達周遊二十餘年,無毫毛可非者。」又曰:「荀公達真賢人也,所謂'溫良恭儉讓以得之'。孔子稱'晏平仲善與人交,久而敬之',公達即其人也。」

荀攸は、孫権の征伐にしたがい、道中で死んだ。曹操は流涕した。
『魏書』はいう。建安十九年(214)、荀攸が58歳のときだ。

『三国志』朱建平伝はいう。潁川の荀攸、鍾繇は、親善した。おもしろそうな話あり。


傅子曰:或問近世大賢君子,答曰:「荀令君之仁,荀軍師之智,斯可謂近世大賢君子矣。荀令君仁以立德,明以舉賢,行無諂贖,謀能應機。孟軻稱'五百年而有王者興,其間必有命世者',其荀令君乎!太祖稱'荀令君之進善,不進不休,荀軍師之去惡,不去不止'也。」
長子緝,有攸風,早沒。次子適嗣,無子,絕。黃初中,紹封攸孫彪為陵樹亭侯,邑三百戶,後轉封丘陽亭侯。正始中,追諡攸曰敬侯。

荀攸の長子は、早く死んだ。孫が封じられた。

何顒の話が終わると、いつもどおり、興味が薄れた。きっと、建安後期に、興味が移ってくる時期があると思う。そのときに、また。110512