02) 鍾繇とともに曹操に仕え、河北平定
『三国志集解』で、荀攸伝をやります。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ
何顒への裴注:平時の袁術、乱世の陶丘洪
張璠『漢紀』はいう。何顒は、郭泰、賈彪とともに、洛陽で遊学した。太傅の陳蕃、司隷の李膺が、深く接した。党錮のとき、汝南と南郡にひそむ。曹操と荀彧を評価し、袁紹と奔走の友となった。洛陽にはいり、袁紹とともに党人を救った。袁術を重んじないので、袁術に恨まれた。
王補はいう。党錮のとき、諸公は主張をまげた。夏馥、賈彪、何顒はまげず。
『漢末名士錄』はいう。袁術は、何顒の3罪をかぞえた。「何顒は、王德彌を軽んじた。許子遠と親しんだ。郭泰と賈彪をたすけた」と。
許攸は、武帝紀の建安五年(200)、崔琰伝にひく『魏略』にある。袁術の評価は、荀彧伝にある。「袁術は、激することがあっても、自分と係わりの ないことはやらない」と。ぼくは思う。意味がよく分からないし、荀彧伝のどこにあったか、思い出せない。また見る。
陶丘洪は言った。
『三国志』華歆伝:袁術とともに馬日磾を支えた、豫章太守の華歆
『三国志』劉繇伝:袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ
『後漢書』孔融伝:袁紹と曹操につかず、馬日磾を糾弾した孔融
李賢は『後漢書』に、『青州先賢伝』をひく。陶丘洪は、あざなを子林。平原の人。孝廉にあがり、太尉府に辟された。30歳で死んだ。
「王德彌は、当世をすくえない。許子遠は、危険をおかして、難におもむく。何顒によるランクづけでは、善人をえらぶなら、王徳弥がトップだが、時難をすくうなら人材なら、許子遠がトップだ。さらに何顒は、虞偉高の仇敵をたおした。仇敵は、巨万の財産があった。何顒は、財産がない。財産のない何顒は、財産のある仇敵に対して、ハンデがあったが、仇討をやりとげた」と。
ぼくは正しく読めませんが、確認する。まず、仇敵に財産があり、何顒に財産がないという対比。この状況は、もとから何顒は不利な立場だと示す。何顒は仇敵から、刀を突きつけられているに等しい。それくらい不利。何顒は、この不利をくつがえし、ぎゃくに仇敵を刺し殺してやった。何顒スゲー!と。
ぼくは思う。陶丘洪のコメントは、倒錯してる。王徳弥は、平時にはすぐれるが、乱世には、すぐれない。許子遠は、平時には、油断ならないヤツだが、乱世を救うことができる。虞偉高の仇敵は財産があるが、何顒は財産を持たずに、仇敵をやぶる。つまり、袁術は平時の価値観で判断し、何顒や陶丘洪は、乱世の価値観で判断する。袁術は、後漢の権威&財産ありきで考えるが、何顒や陶丘洪は、後漢の権威&財産をリセットして考える。袁術と何顒は、人物眼がちがわず、時代の見方がちがう。
この記述を「論破された袁術、ダセー!」としか読まないなら、それは誤読だ。笑
『漢末名士録』はつづく。袁術は、陶丘洪に納得しない。のちに袁術は、南陽の宗承と、闕下で会った。袁術は怒った。「何顒は、凶德だ。私・袁術は、何顒を殺そう」と。宗承は言った。「何顒は、英俊之士だ。袁術は、何顒を善遇して、天下に名声を売れ」と。袁術は、何顒を殺さず。
袁術は、宗承に説得されたから、何顒を殺さなかったのか。ちがうだろう。「凶徳」な人物を、名声を売るために助ける、じゃあ安易だ。「凶徳」なんて、ほかの史料で、あまり見たことがない罵倒だ。じゃあなぜ殺さないか。党錮で、何顒がダメージを受けたから?
のちに党錮が解かれた。何顒は、司空府に辟された。三公府の掾屬が会議するごとに、何顒のアイディアが、いちばん多い。北軍中候にうつる。董卓の長史となる。
のちに荀彧が尚書令となり、叔父の司空・荀爽の死体を迎えた。何顒の死体をならべ、となりに葬った。
『後漢紀』はいう。荀爽は、党錮が解けると、董卓によって三公にされた。荀爽は、何顒を抜擢した。荀爽は、王允とともに三公である。董卓の暗殺をやらない。
『後漢紀』はいう。課御、荀攸、鄭泰、种輯は、董卓を殺そうとしたが発覚した。荀攸、何顒は、獄につながれた。何顒は、憂懼して自殺した。『後漢書』鄭泰伝でも、鄭泰、何顒、荀攸は、董卓を殺そうとしたとある。だが、ただ『後漢書』何顒伝だけが、荀爽、王允が董卓を暗殺しようとしたとする。ほかの史料とちがう。
この話、さっきやったのになあ、、
盧弼は考える。王允が董卓を殺すとき、荀爽はすでに死んでいた。荀爽を、ウソで美化しただけだ。何顒は、他事でつながれた。史料に偽りがおおい。『資治通鑑』は、何顒の死を載せない。『通鑑考異』はいう。荀攸、鄭泰、种輯が、董卓の暗殺をたくらんだのも怪しい。『三国志』は、何顒、伍瓊が暗殺をねらったとするが、誤りである。偽ったのだ。
ぼくは思う。董卓の暗殺計画は、『後漢書』が記すより、ずっと小さい。党人を美化するために、「あの儒教ヒーローも、この儒教ヒーローも、董卓を殺そうとした。フィニッシュは、王允が決めたけどね」という話にしてある。ウソ。
「三公府から辟されても断り、董卓を断り、」というのも、誇張かも知れない。
何顒の人脈を曹操につなぎ、河北を平定
太祖迎天子都許,遺攸書曰:「方今天下大亂,智士勞心之時也,而顧觀變蜀漢,不已久乎!」於是徵攸為汝南太守,入為尚書。太祖素聞攸名,與語大悅,謂荀彧,鍾繇曰:「公達,非常人也,吾得與之計事,天下當何憂哉!」以為軍師。建安三年,從征張繡。攸言於太祖曰:「繡與劉表相恃為強,然繡以遊軍仰食於表,表不能供也,勢必離。不如緩軍以待之,可誘而致也;若急之,其勢必相救。」太祖不從,遂進軍之穰,與戰。繡急,表果救之。軍不利。太祖謂攸曰:「不用君言至是。」乃設奇兵複戰,大破之。
荀攸は官位を棄てた。ふたたび三公府に辟された。高第にあがる。任城(兗州)相になる。ゆかず。蜀郡と漢中は、険固でさかえる。蜀郡太守になりたい。道が絶えて、ゆけず。荊州にとどまる。
曹操が天子を許県にむかえた。荀攸をまねき、汝南太守とした。
汝南は、袁紹の故郷であり、官渡のとき反乱する。劉備が撹乱する。はじめに荀攸に期待された役割は、何顒との人脈を活かしつつ、汝南を鎮めること。「袁紹と敵対しつつ、何顒の人脈を鎮める」というのは、矛盾した任務だよなあ。この矛盾は、曹操政権そのもの。曹操は、献帝を奉戴しつつ、霊帝にそむいた党人を味方にしたい。
荀攸は、尚書となる。曹操は、荀攸の名声をきく。荀彧、鍾繇に言った。「荀攸は、非常の人だ」と。荀攸を軍師とした。建安三年(198)、張繍を攻めた。
荀攸は言った。「ムリに張繍を攻めれば、張繍と劉表は団結する。攻めるな」と。曹操は、荀攸を聞かず、敗れた。のちに張繍を破った。
魏書曰:議者雲表、繡在後而還襲呂布,其危必也。攸以為表、繡新破,勢不敢動。布驍猛,又恃袁術,若縱橫淮、泗間,豪傑必應之。今乘其初叛,眾心未一,往可破也。太祖曰:「善。」比行,布以敗劉備,而臧霸等應之。
至下邳,布敗退固守,攻之不拔,連戰,士卒疲,太祖欲還。攸與郭嘉說曰:「呂布勇而無謀,今三戰皆北,其銳氣衰矣。三軍以將為主,主衰則軍無奮意。夫陳宮有智而遲,今及布氣之未複,宮謀之未定,進急攻之,布可拔也。」乃引沂、泗灌城,城潰,生禽布。
この歳、曹操は宛城よりもどり、呂布を征した。
『魏書』はいう。議者は言った。「張繍を後ろに置いたまま、呂布を攻めるのは危うい」と。荀攸は「張繍は、敗れたばかりだ。呂布はつよく、袁術をたよる。呂布を攻めろ」と言った。呂布は劉備をやぶった。臧覇らが、呂布に応じた。
『資治通鑑』はいう。泰山の臧覇、孫観、呉敦、尹礼、昌豨らは、みな呂布についた。胡三省はいう。荀攸は、つまびらかに敵情を理解した。
荀攸と郭嘉は、下邳を、沂水と泗水にひたした。呂布を生け捕った。
臣松之案諸書,韓{荀大}或作韓猛,或雲韓若,未詳孰是。
太祖曰:「誰可使?」攸曰:「徐晃可。」乃遣晃及史渙邀擊破走之,燒其輜重。會許攸來降,言紹遣淳於瓊等將萬餘兵迎運糧,將驕卒惰,可要擊也。眾皆疑。唯攸與賈詡勸太祖。太祖乃留攸及曹洪守。太祖自將攻破之,盡斬瓊等。紹將張郃、高覽燒攻櫓降,紹遂棄軍走。郃之來,洪疑不敢受,攸謂洪曰:「郃計不用,怒而來,君何疑?」乃受之。
荀攸は、白馬で顔良を斬った。武帝紀にある。官渡で勝った。
建安七年、八年、河北の平定を立案した。陵樹亭(陳留)侯となる。
ぼくは思う。荀攸は、荀彧よりも、何顒らの人脈に濃い。もと袁紹が治めた河北を平定するとき、荀彧よりも、大きな活躍が期待されたのかも知れない。
魏書曰:太祖自柳城還,過攸舍,稱述攸前後謀謨勞勳,曰:「今天下事略已定矣,孤原與賢士大夫共饗其勞。昔高祖使張子房自擇邑三萬戶,今孤亦欲君自擇所封焉。」
建安十二(207)、増邑された。中軍師に転ず。魏国が建つと、尚書令となる。
荀攸の作戦は、鍾繇が墓場に持っていった
魏書曰:攸姑子辛韜曾問攸說太祖取冀州時事。攸曰:「佐治為袁譚乞降,王師自往平之,吾何知焉?」自是韜及內外莫敢複問軍國事也。
荀攸は、作戦を口外しない。
『魏書』はいう。荀攸の姑子・辛韜が、冀州の平定について、荀攸に問うた。荀攸は言った「辛毗が、袁譚を降伏させた。曹操は、何もしていない」と。内外の人は、荀攸に作戦を問うのをやめた。
臣松之案:攸亡後十六年,鍾繇乃卒,撰攸奇策,亦有何難?而年造八十,猶雲未就,遂使攸從征機策之謀不傳於世,惜哉!
曹操は曹丕に「荀攸を見習え」と言った。荀攸が病になると、曹丕が見舞った。鍾繇と仲が善かった。荀攸の12の奇策は、鍾繇が知る。これを記す前に、鍾繇が死んだ。
裴松之はいう。荀攸が死に、鍾繇が死ぬまで16年ある。奇策、書いとけよ。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝
魏書曰:時建安十九年,攸年五十八。計其年大彧六歲。魏書載太祖令曰:「孤與荀公達周遊二十餘年,無毫毛可非者。」又曰:「荀公達真賢人也,所謂'溫良恭儉讓以得之'。孔子稱'晏平仲善與人交,久而敬之',公達即其人也。」
荀攸は、孫権の征伐にしたがい、道中で死んだ。曹操は流涕した。
『魏書』はいう。建安十九年(214)、荀攸が58歳のときだ。
長子緝,有攸風,早沒。次子適嗣,無子,絕。黃初中,紹封攸孫彪為陵樹亭侯,邑三百戶,後轉封丘陽亭侯。正始中,追諡攸曰敬侯。
荀攸の長子は、早く死んだ。孫が封じられた。
何顒の話が終わると、いつもどおり、興味が薄れた。きっと、建安後期に、興味が移ってくる時期があると思う。そのときに、また。110512