02) 李傕、段煨、張繍、曹操と移籍する
『三国志集解』で、賈詡伝をやります。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ
献帝を李傕から剥がし、段煨をたよる
獻帝紀曰:天子既東,而李傕來追,王師敗績。司徒趙溫、太常王偉、衛尉周忠、司隸榮邵皆為傕所嫌,欲殺之。詡謂傕曰:「此皆天子大臣,卿奈何害之?」傕乃止。
李傕と郭汜らは、賈詡によって和睦した。大臣を守ったのは、賈詡である。
『献帝紀』はいう。献帝は、李傕に敗れた。司徒の趙溫、太常の王偉、衛尉の周忠、司隸の榮邵らは、李傕に殺されそうだ。賈詡が、李傕をとめた。
典略稱煨在華陰時,脩農事,不虜略。天子東還,煨迎道貢遺周急。
獻帝紀曰:後以煨為大鴻臚光祿大夫,建安十四年,以壽終。
天子が長安を出ると、賈詡は印綬を返上した。このとき、将軍の段煨が、華陰にいる。段煨は、賈詡と同郡だ。賈詡は、李傕を去って、段煨にうつる。賈詡は、もとより名を知られた。段煨の軍で、賈詡は期待された。段煨は、賈詡のノットリを恐れた。見せかけのみ、段煨は賈詡を礼遇した。賈詡は、不安になった。
『典略』はいう。段煨は華陰で、自給自足した。天子に補給した。
『献帝紀』はいう。のちに段煨は、大鴻臚、光禄大夫となる。建安十四年(209)、寿命で死んだ。
袁宏はいう。段煨と楊定は、仲がわるい。段煨が献帝の乗輿を迎えたとき、下馬しない。馬上で、礼をした。侍中の种シュウは、もとより楊定と親しい。种シュウは言った。「段煨は、献帝に逆らうつもりだ。下馬しなかった」と。太尉の楊彪は言った。「段煨は、献帝に逆らわない。命をかけて、献帝の乗輿を守った。段煨の軍営に、献帝をうつそう」と。董承、楊定は言った。「郭汜が、700騎で近づく。段煨の軍営に、守ってもらおう」と。献帝は、南へ段煨にむかった。
胡三省はいう。寧シュウ将軍も、このときだけ、置かれた官位。
『資治通鑑』の建安三年(198)はいう。関中の諸将・段煨らに詔した。『後漢書』献帝紀では、中郎将の段煨とある。李傕を討ち、三族をみな殺した。段煨を、安南将軍とした。閔郷侯に封じた。
『宋書』百官志はいう。安西将軍は、定員1名。後漢末に、段煨がついた。
曹操から献帝を奪回するため、段煨から張繍へ
張繍が南陽にいる。ひそかに賈詡は、張繍とむすぶ。
張繍は、賈詡を歓迎した。賈詡が行くとき、ある人が言った。「段煨は、賈詡を厚遇する。なぜ賈詡は、段煨を去るか」と。賈詡は言った。「やがて段煨は、私を殺す。段煨は、張繍と友好したいから、私の妻子を殺さない」と。
傅子曰:詡南見劉表,表以客禮待之。詡曰:「表,平世三公才也;不見事變,多疑無決,無能為也。」
賈詡は、張繍へゆく。張繍は、賈詡に子孫の礼をとった。段煨は、賈詡の妻子を殺さない。賈詡は張繍に、「劉表とむすべ」と説いた。
ここで疑問。
賈詡が段煨から張繍に、乗りかえた理由は、なにか。「段煨の警戒心」が、理由になっている。なんか、チマチマする。ぼくは、献帝が曹操に保護されたことが、乗りかえの理由だと思う。賈詡は、形はどうあれ、献帝のそばにいた。董卓、李傕のとき、献帝に近かった。曹操から献帝を奪いかえすためには、段煨よりも、張繍がいい。軍隊の品質とか、根拠地の位置とか。妻子を棄てて移動したことは、「保身」とは、言いがたい。積極的に、どうにか現状を変える心意気で、行動したはずだ。
段煨と賈詡の関係が、悪化していないことからも、「段煨の警戒心」を、賈詡が移籍した理由とするには、問題がある。曹操が徐州を攻めたときとおなじ。妻子を安全な後方にゆだね、単身で前線に乗りこむ。賈詡は、これをやったのだろう。段煨は、華陰に生産基盤まで持っている。妻子をあずけるには、最適である。
のちに賈詡が曹操に仕えたため、移籍の本当の理由が、抹殺されたのだ。
『傅子』はいう。賈詡は、劉表に会った。賈詡は言った。「劉表は、平世なら三公だ。しかし、変化に対応できない。三公になれない」と。
このころ曹操は、張繍を攻めた。曹操がひいたので、張繍が追った。賈詡がとめた。張繍は敗れた。賈詡は張繍に、進軍をすすめた。こんどは、張繍が勝った。
賈詡の作戦は、前後で矛盾する。駆け引きの妙なのか?ぼくは、ちがうと思う。
曹操を殺す作戦を立てているのに、賈詡は「張繍は曹操にかなわない」という。おかしな話。なぜ、この奇妙な屈折が生じたか。のちに賈詡が、曹操に仕えたからだろう。曹魏の功臣が、曹操を罵った記録なんて、オフィシャルに残せない。だから賈詡は、張繍の参謀なのに、曹操をほめる。
『蒼天航路』で賈詡は、おもしろいキャラ。曹操よりも自分を上に置くが、曹操にさらに上回られて、プライドをかきむしる。正史を読んで、つくられたキャラだろう。この屈折は、歴史家のオトナの都合によるだろう。曹操バンザイの『蒼天航路』という漫画と、歴史家の都合は、うまく解けて、なじんだ。賈詡はね、曹操を攻めるときは、いくらなんでも、曹操をけなしたよ。
盧弼は、めぼしい注釈はない。
曹操の帰順し、曹操の献帝奉戴を追認する
のちに曹操と袁紹は、官渡でむきあう。袁紹は、張繍に結援をもとめた。賈詡が袁紹の使者に言った。「袁紹は、兄弟すら、容れられない。天下の国士を、袁紹が容れられるか」と。
ぼくは、あえて解釈をズラしてみる。これは、北上した袁術を、袁紹が収容できなかったことを、言うのではないか。寿春でボロボロになった袁術は、北上した。いかにも天罰が当たったがごとく、袁術は、徐州を通過しそこねて、死んだ。死因は明らかでないが、袁術の死去は、「袁紹をたよる軍が、河南を縦断して、袁紹に合流できなかった失敗例」である。つまり、もし張繍が河南を縦断して、河北で袁紹に合流しようとしても、おなじ運命に遭うのではないか。賈詡の不安は、ここにある。
敗北者は、なんでも敗北の理由を「人格の欠陥」にされる。しかし、「人格の欠陥」のせいにしても、なにも解決しない。袁紹の陣営は、帰順してくる軍を受け入れるキャパがない。そういう、組織のあり方を言っているのでは?
それにしても、もし袁術が袁紹に合流したら、どうなったか。豫州派(奔走の友)と、冀州派(現地の人)にくわえて、揚州派(袁術のとりまき)が、1つになった。きっと、もっと統制がとれない。袁術に恩を売った袁譚は、後継の地位をかためただろうなあ。袁術が、途中で突然死したのは、派閥抗争の複雑化をきらった、誰かのしわざ。なんてね。笑
賈詡は言った。「曹操に従おう。理由は3つ。曹操は、天子を奉る。曹操は、袁紹より弱い。曹操は、私怨を忘れる」と。
上に書いた話で、賈詡は、曹操による献帝奉戴を認めなかった。曹操が献帝を奉ることは、曹操を攻撃にする理由になっても、曹操にしたがう理由にならない。賈詡が曹昂を殺したのは、曹操が献帝を奉ったあとだよ。賈詡、矛盾してる。
官渡にあたり、弱いほうに恩を売ろうという話は、スジはとおる。曹操が私怨を忘れてくれるかどうかは、知らん。ただ、曹操の人格でなく、戦闘の状況に着目すれば、曹操は私怨を忘れるしかないだろう。曹操は、張繍の兵がほしい。
なぜ官渡のタイミングで、賈詡が曹操に帰したか。曹操による献帝奉戴に、指示が集まったからだろう。なぜ、指示が集まったか。理由は2つ。
1つ、袁術が皇帝として死んだから。袁術は、ちょっと前は、天下にいちばん近い人だった。その袁術が、自爆した。曹操は、袁術や張繍ら、献帝によりつく人を、すべて跳ね返した。曹操による献帝奉戴が、既成事実となった。賈詡は、認めざるを得ない。
2つ、袁紹が献帝に弓をひいたから。袁紹による南下は、なんだかんだ名目をつけても、献帝への攻撃だ。だって袁紹は、いちどだって、献帝を皇帝として認めたことはない。もし曹操が敗れたら、献帝そのものが、皇帝でいられなくなる。賈詡から見て、それはイヤだった。
張繍は、賈詡に従った。張繍は、兵をひきい、曹操に帰した。
ぼくの注釈ばかり長いが、盧弼の目ぼしい注釈は、ないのだ。
曹操は、賈詡の手をとった。「賈詡のおかげで、私は天下から、信じて重んじてもらえる」と。
賈詡とともに、献帝を助けた人たち(董承ら)は、おなじ200年に曹操を殺そうとした。曹操の献帝奉戴は、賈詡によって、やっと落ち着いた。
曹操は上表し、賈詡を執金吾とした。都亭侯に封じた。冀州牧。
冀州牧は、遥領である。冀州を平定すると、曹操がみずから領した。
ぼくは思う。盧弼は「顧千里」という人のコメントを、たびたび引用する。史実を補うものでなく、意見を言うだけ。このサイトでは、翻訳していません。
冀州を平定する前に、賈詡は、司空軍事に参じた。
曹操の兵糧が尽きた。賈詡は言った。「曹操は袁紹より、4つの点で優れる。がんばれ」と。曹操は、袁紹の30余営を陥とした。河北は、平らいだ。曹操が冀州牧となり、賈詡は太中大夫となる。
趙一清はいう。「30余里営」とあるが、「里」の字はいらない。太中大夫は、千石。
赤壁に反対する
太祖後與韓遂、馬超戰於渭南,超等索割地以和,並求任子。詡以為可偽許之。又問詡計策,詡曰:「離之而已。」太祖曰:「解。」一承用詡謀。語在武紀。卒破遂、超,詡本謀也。
建安十三年、曹操は荊州から、東に下りたい。賈詡が諌めた。「曹操が荊州にとどまれば、孫権が服してくる」と。曹操は従わず、赤壁で敗れた。
曹操は、韓遂と馬超と、渭南で戦った。馬超は曹操に、土地と任子をもとめた。賈詡は、許したふりをした。賈詡は、韓遂と馬騰を、離間した。武帝紀にある。
賈詡の晩年
曹丕は、賈詡に相談した。賈詡は曹操に言った。「袁紹と劉表を思ってみた」と。賈詡は閉門して、曹操の旧臣と婚姻をむすばない。
魏略曰:文帝得詡之對太祖,故即位首登上司。
荀勖別傳曰:晉司徒闕,武帝問其人於勖。答曰:「三公具瞻所歸,不可用非其人。昔魏文帝用賈詡為三公,孫權笑之。」
曹丕が即位すると、賈詡を太尉とした。
『魏略』はいう。曹丕は、賈詡と曹操の会話を聞いた。だから賈詡を、太尉とした。『荀勖別伝』はいう。西晋の武帝は、荀勖に聞いた。「司徒の欠員は、だれで埋めるか」と。荀勖は言った。「曹丕が賈詡を三公にしたとき、孫権が笑いました」と。
長子の賈穆は、駙馬都尉となる。
曹丕は賈詡に、「呉蜀のどちらを先に討つか」と聞いた。賈詡は「どちらも、攻めるな」と言った。曹丕は聞かず、江陵を攻めて、戦死者を出した。賈詡は77歳で死んだ。
賈穆がついだ。賈模がついだ。『世語』は、子孫を載せる。
曹丕の話から、急速にやる気がなくなりましたが。時期からして、いつものことです。すみません。曹操の献帝奉戴をやったら、満足してしまった。110510