表紙 > 曹魏 > 二袁を見て、曹操の献帝奉戴をみとめた、献帝の重臣・賈詡伝

02) 李傕、段煨、張繍、曹操と移籍する

『三国志集解』で、賈詡伝をやります。

おなじ巻の荀彧は、すでにやった。荀攸は、近々やる。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ


献帝を李傕から剥がし、段煨をたよる

傕等和,出天子,祐護大臣,詡有力焉。
獻帝紀曰:天子既東,而李傕來追,王師敗績。司徒趙溫、太常王偉、衛尉周忠、司隸榮邵皆為傕所嫌,欲殺之。詡謂傕曰:「此皆天子大臣,卿奈何害之?」傕乃止。

李傕と郭汜らは、賈詡によって和睦した。大臣を守ったのは、賈詡である。
『献帝紀』はいう。献帝は、李傕に敗れた。司徒の趙溫、太常の王偉、衛尉の周忠、司隸の榮邵らは、李傕に殺されそうだ。賈詡が、李傕をとめた。

『献帝紀』は、献帝の長安脱出を、よほど詳しく書いているらしい。『三国志』賈詡伝は、ちょっと陳寿を読み、それを『献帝紀』で逐次、補足していくというリズム。裴注を切り貼りして、『献帝紀』を時系列で再現したら、おもしろい文書になるだろう。


天子既出,詡上還印綬。是時將軍段煨屯華陰,與詡同郡,遂去傕讬煨。詡素知名,為煨軍所望。煨內恐其見奪,而外奉詡禮甚備,詡愈不自安。
典略稱煨在華陰時,脩農事,不虜略。天子東還,煨迎道貢遺周急。
獻帝紀曰:後以煨為大鴻臚光祿大夫,建安十四年,以壽終。

天子が長安を出ると、賈詡は印綬を返上した。このとき、将軍の段煨が、華陰にいる。段煨は、賈詡と同郡だ。賈詡は、李傕を去って、段煨にうつる。賈詡は、もとより名を知られた。段煨の軍で、賈詡は期待された。段煨は、賈詡のノットリを恐れた。見せかけのみ、段煨は賈詡を礼遇した。賈詡は、不安になった。

ぼくは思う。段煨は、賈詡の動きを理解するとき、とても重要。段熲と段煨の関係が、書いてないが、おそらく同族だろう。段煨をたよることで、賈詡は献帝を離脱した。下の注釈でわかるが、段煨は一時的に、献帝を保護した。このとき賈詡は、段煨に移ったのだと思う。

『典略』はいう。段煨は華陰で、自給自足した。天子に補給した。
『献帝紀』はいう。のちに段煨は、大鴻臚、光禄大夫となる。建安十四年(209)、寿命で死んだ。

『後漢書』董卓伝はいう。献帝の車駕が、華陰にくる。寧シュウ将軍の段煨は、献帝や公卿に、補給した。はじめ楊定と段煨は、仲がわるい。ついに楊定は、段煨を誣告した。楊定は、段煨の軍営を攻めたが、10余日しても陥ちない。段煨は、百官への補給をつづけた。段煨は、献帝にさからう意思がない。
袁宏はいう。段煨と楊定は、仲がわるい。段煨が献帝の乗輿を迎えたとき、下馬しない。馬上で、礼をした。侍中の种シュウは、もとより楊定と親しい。种シュウは言った。「段煨は、献帝に逆らうつもりだ。下馬しなかった」と。太尉の楊彪は言った。「段煨は、献帝に逆らわない。命をかけて、献帝の乗輿を守った。段煨の軍営に、献帝をうつそう」と。董承、楊定は言った。「郭汜が、700騎で近づく。段煨の軍営に、守ってもらおう」と。献帝は、南へ段煨にむかった。
胡三省はいう。寧シュウ将軍も、このときだけ、置かれた官位。
『資治通鑑』の建安三年(198)はいう。関中の諸将・段煨らに詔した。『後漢書』献帝紀では、中郎将の段煨とある。李傕を討ち、三族をみな殺した。段煨を、安南将軍とした。閔郷侯に封じた。
『宋書』百官志はいう。安西将軍は、定員1名。後漢末に、段煨がついた。


曹操から献帝を奪回するため、段煨から張繍へ

張繡在南陽,詡陰結繡,繡遣人迎詡。詡將行,或謂詡曰:「煨待君厚矣,君安去之?」詡曰:「煨性多疑,有忌詡意,禮雖厚,不可恃,久將為所圖。我去必喜,又望吾結大援於外,必厚吾妻子。繡無謀主,亦原得詡,則家與身必俱全矣。」

張繍が南陽にいる。ひそかに賈詡は、張繍とむすぶ。

ぼくは思う。張済でなく、張繍とむすんだ。張済が、宛城で殺されたあとだろうか。いま賈詡は、段煨を頼っている。段煨のもとにいながら、張繍への転職をねらっている。段煨よりも、張済をつぐ張繍のほうが、軍事力が上なのだろう。

張繍は、賈詡を歓迎した。賈詡が行くとき、ある人が言った。「段煨は、賈詡を厚遇する。なぜ賈詡は、段煨を去るか」と。賈詡は言った。「やがて段煨は、私を殺す。段煨は、張繍と友好したいから、私の妻子を殺さない」と。

賈詡は、妻子をすてて、張繍にうつったのですね。段煨は、建安をちゃんと生きて、寿命で死ぬ。段煨は、賈詡の妻子を殺さないことで、張繍、曹操との関係を保つことができた。


詡遂往,繡執子孫禮,煨果善視其家。詡說繡與劉表連和。
傅子曰:詡南見劉表,表以客禮待之。詡曰:「表,平世三公才也;不見事變,多疑無決,無能為也。」

賈詡は、張繍へゆく。張繍は、賈詡に子孫の礼をとった。段煨は、賈詡の妻子を殺さない。賈詡は張繍に、「劉表とむすべ」と説いた。

盧弼はいう。「子孫の礼」は、張範伝、崔琰伝にひく『九州春秋』にある。『九州春秋』では、孔融が鄭玄に、子孫の礼をとった。おそらく、当時の風習なのだろう。ぼくは思う。自分が相手の、子や孫のように、へりくだること?
ここで疑問。
賈詡が段煨から張繍に、乗りかえた理由は、なにか。「段煨の警戒心」が、理由になっている。なんか、チマチマする。ぼくは、献帝が曹操に保護されたことが、乗りかえの理由だと思う。賈詡は、形はどうあれ、献帝のそばにいた。董卓、李傕のとき、献帝に近かった。曹操から献帝を奪いかえすためには、段煨よりも、張繍がいい。軍隊の品質とか、根拠地の位置とか。妻子を棄てて移動したことは、「保身」とは、言いがたい。積極的に、どうにか現状を変える心意気で、行動したはずだ。
段煨と賈詡の関係が、悪化していないことからも、「段煨の警戒心」を、賈詡が移籍した理由とするには、問題がある。曹操が徐州を攻めたときとおなじ。妻子を安全な後方にゆだね、単身で前線に乗りこむ。賈詡は、これをやったのだろう。段煨は、華陰に生産基盤まで持っている。妻子をあずけるには、最適である。
のちに賈詡が曹操に仕えたため、移籍の本当の理由が、抹殺されたのだ。

『傅子』はいう。賈詡は、劉表に会った。賈詡は言った。「劉表は、平世なら三公だ。しかし、変化に対応できない。三公になれない」と。

ぼくは思う。『傅子』は、劉曄伝の裴注で顕著なように、デタラメな記述がおおい。毀誉褒貶を、著者の都合で撹乱する印象。賈詡の劉表評は、あまり参考にならない気がします。賈詡と劉表が、対面したという「小説」は、テンションがあがるが。


太祖比征之,一朝引軍退,繡自追之。詡謂繡曰:「不可追也,追必敗。」繡不從,進兵交戰,大敗而還。詡謂繡曰:「促更追之,更戰必 勝。」繡謝曰:「不用公言,以至於此。今已敗,奈何複追?」詡曰:「兵勢有變,亟往必利。」繡信之,遂收散卒赴追,大戰,果以勝還。問詡曰:「繡以精兵追退軍,而公曰必敗;退以敗卒擊勝兵,而公曰必剋。悉如公言,何其反而皆驗也?」詡曰:「此易知耳。將軍雖善用兵,非曹公敵也。軍雖新退,曹公必自斷後;追兵雖精,將既不敵,彼士亦銳,故知必敗。曹公攻將軍無失策,力未盡而退,必國內有故;已破將軍,必輕軍速進,縱留諸將斷後,諸將雖勇,亦非將軍敵,故雖用敗兵而戰必勝也。」繡乃服。

このころ曹操は、張繍を攻めた。曹操がひいたので、張繍が追った。賈詡がとめた。張繍は敗れた。賈詡は張繍に、進軍をすすめた。こんどは、張繍が勝った。

おもしろい、駆け引き。
賈詡の作戦は、前後で矛盾する。駆け引きの妙なのか?ぼくは、ちがうと思う。
曹操を殺す作戦を立てているのに、賈詡は「張繍は曹操にかなわない」という。おかしな話。なぜ、この奇妙な屈折が生じたか。のちに賈詡が、曹操に仕えたからだろう。曹魏の功臣が、曹操を罵った記録なんて、オフィシャルに残せない。だから賈詡は、張繍の参謀なのに、曹操をほめる。
『蒼天航路』で賈詡は、おもしろいキャラ。曹操よりも自分を上に置くが、曹操にさらに上回られて、プライドをかきむしる。正史を読んで、つくられたキャラだろう。この屈折は、歴史家のオトナの都合によるだろう。曹操バンザイの『蒼天航路』という漫画と、歴史家の都合は、うまく解けて、なじんだ。賈詡はね、曹操を攻めるときは、いくらなんでも、曹操をけなしたよ。
盧弼は、めぼしい注釈はない。


曹操の帰順し、曹操の献帝奉戴を追認する

是後,太祖拒袁紹於官渡,紹遣人招繡,並與詡書結援。繡欲許之,詡顯於繡坐上謂紹使曰:「歸謝袁本初,兄弟不能相容,而能容天下國士乎?」繡驚懼曰:「何至於此!」竊謂詡曰:「若此,當何歸?」詡曰:「不如從曹公。」繡曰:「袁強曹弱,又與曹為讎,從之如何?」詡曰:「此乃所以宜從也。夫曹公奉天子以令天下,其宜從一也。紹強盛,我以少眾從之,必不以我為重。曹公眾弱,其得我必喜,其宜從二也。夫有霸王之志者,固將釋私怨,以明德於四海,其宜從三也。原將軍無疑!」繡從之,率眾歸太祖。

のちに曹操と袁紹は、官渡でむきあう。袁紹は、張繍に結援をもとめた。賈詡が袁紹の使者に言った。「袁紹は、兄弟すら、容れられない。天下の国士を、袁紹が容れられるか」と。

胡三省もちくま訳もいう。袁紹は袁術と、有隙(仲がわるい)だったと。
ぼくは、あえて解釈をズラしてみる。これは、北上した袁術を、袁紹が収容できなかったことを、言うのではないか。寿春でボロボロになった袁術は、北上した。いかにも天罰が当たったがごとく、袁術は、徐州を通過しそこねて、死んだ。死因は明らかでないが、袁術の死去は、「袁紹をたよる軍が、河南を縦断して、袁紹に合流できなかった失敗例」である。つまり、もし張繍が河南を縦断して、河北で袁紹に合流しようとしても、おなじ運命に遭うのではないか。賈詡の不安は、ここにある。
敗北者は、なんでも敗北の理由を「人格の欠陥」にされる。しかし、「人格の欠陥」のせいにしても、なにも解決しない。袁紹の陣営は、帰順してくる軍を受け入れるキャパがない。そういう、組織のあり方を言っているのでは?
それにしても、もし袁術が袁紹に合流したら、どうなったか。豫州派(奔走の友)と、冀州派(現地の人)にくわえて、揚州派(袁術のとりまき)が、1つになった。きっと、もっと統制がとれない。袁術に恩を売った袁譚は、後継の地位をかためただろうなあ。袁術が、途中で突然死したのは、派閥抗争の複雑化をきらった、誰かのしわざ。なんてね。笑

賈詡は言った。「曹操に従おう。理由は3つ。曹操は、天子を奉る。曹操は、袁紹より弱い。曹操は、私怨を忘れる」と。

ぼくは思う。歴史家の、オトナの都合が炸裂したセリフ。
上に書いた話で、賈詡は、曹操による献帝奉戴を認めなかった。曹操が献帝を奉ることは、曹操を攻撃にする理由になっても、曹操にしたがう理由にならない。賈詡が曹昂を殺したのは、曹操が献帝を奉ったあとだよ。賈詡、矛盾してる。
官渡にあたり、弱いほうに恩を売ろうという話は、スジはとおる。曹操が私怨を忘れてくれるかどうかは、知らん。ただ、曹操の人格でなく、戦闘の状況に着目すれば、曹操は私怨を忘れるしかないだろう。曹操は、張繍の兵がほしい。
なぜ官渡のタイミングで、賈詡が曹操に帰したか。曹操による献帝奉戴に、指示が集まったからだろう。なぜ、指示が集まったか。理由は2つ。
1つ、袁術が皇帝として死んだから。袁術は、ちょっと前は、天下にいちばん近い人だった。その袁術が、自爆した。曹操は、袁術や張繍ら、献帝によりつく人を、すべて跳ね返した。曹操による献帝奉戴が、既成事実となった。賈詡は、認めざるを得ない。
2つ、袁紹が献帝に弓をひいたから。袁紹による南下は、なんだかんだ名目をつけても、献帝への攻撃だ。だって袁紹は、いちどだって、献帝を皇帝として認めたことはない。もし曹操が敗れたら、献帝そのものが、皇帝でいられなくなる。賈詡から見て、それはイヤだった。

張繍は、賈詡に従った。張繍は、兵をひきい、曹操に帰した。

ぼくは思う。劉表は、曹操による献帝奉戴を、ずっと認めない。だから劉表は、天地を祭祀しはじめた。賈詡の立場は、あくまで献帝を支えたい。はじめは、「曹操から献帝をすくうため、劉表をたよる」だったが、いまでは「献帝を認めない劉表に、飯を食わしてもらうわけにはいかない」となる。だから、荊州を出た。
ぼくの注釈ばかり長いが、盧弼の目ぼしい注釈は、ないのだ。


太祖見之,喜,執詡手曰:「使我信重於天下者,子也。」表詡為執金吾,封都亭侯,遷冀州牧。冀州未平,留參司空軍事。袁紹圍太祖於官渡,太祖糧方盡,問詡計焉出,詡曰:「公明勝紹,勇勝紹,用人勝紹,決機勝紹,有此四勝而半年不定者,但顧萬全故也。必決其機,須臾可定也。」太祖曰:「善。」乃並兵出,圍擊紹三十餘裏營,破之。紹軍大潰,河北平。太祖領冀州牧,徙詡為太中大夫。

曹操は、賈詡の手をとった。「賈詡のおかげで、私は天下から、信じて重んじてもらえる」と。

ぼくは思う。曹操の献帝奉戴を、曹操の身内以外で認めてくれたのは、賈詡が初めてだったのか。「あの献帝の重臣・賈詡が、曹操の献帝奉戴をみとめた。私たちも、追認しよう」という流れになる。曹操は、人材をむかえるときに感動癖があるが(ワガ・シボー)、賈詡の場合は、献帝奉戴をみとめられたことを、喜んだ。
賈詡とともに、献帝を助けた人たち(董承ら)は、おなじ200年に曹操を殺そうとした。曹操の献帝奉戴は、賈詡によって、やっと落ち着いた。

曹操は上表し、賈詡を執金吾とした。都亭侯に封じた。冀州牧。

執金吾は、武帝紀の初平元年にあり。都亭侯は、武帝紀の建安十八年にある。都郷侯とつくる。胡三省はいう。すべての郡国や県の道は、都亭がおさめる。
冀州牧は、遥領である。冀州を平定すると、曹操がみずから領した。
ぼくは思う。盧弼は「顧千里」という人のコメントを、たびたび引用する。史実を補うものでなく、意見を言うだけ。このサイトでは、翻訳していません。

冀州を平定する前に、賈詡は、司空軍事に参じた。

ぼくは思う。華歆と王朗も、おなじように司空軍事に参じた。そとから、有能な人が味方になると、この仕事をするのか。まあ軍事は、曹操のメインのテーマだが。

曹操の兵糧が尽きた。賈詡は言った。「曹操は袁紹より、4つの点で優れる。がんばれ」と。曹操は、袁紹の30余営を陥とした。河北は、平らいだ。曹操が冀州牧となり、賈詡は太中大夫となる。

ぼくは思う。フィクションだ。曹操と袁紹の比較は、史料のあちこちにある。「賈詡は、曹操の味方になったよ」と、歴史家が強調したいから、この話をつくった。なぜフィクションか。袁紹を破っても、河北は平定されない。ひどい単純化だ。「30余営」というのも、大雑把だよ。
趙一清はいう。「30余里営」とあるが、「里」の字はいらない。太中大夫は、千石。


赤壁に反対する

建安十三年,太祖破荊州,欲順江東下。詡諫曰:「明公昔破袁氏,今收漢南,威名遠著,軍勢既大;若乘舊楚之饒,以饗吏士,撫安百姓,使安土樂業,則可不勞眾而江東稽服矣。」太祖不從,軍遂無利。
太祖後與韓遂、馬超戰於渭南,超等索割地以和,並求任子。詡以為可偽許之。又問詡計策,詡曰:「離之而已。」太祖曰:「解。」一承用詡謀。語在武紀。卒破遂、超,詡本謀也。

建安十三年、曹操は荊州から、東に下りたい。賈詡が諌めた。「曹操が荊州にとどまれば、孫権が服してくる」と。曹操は従わず、赤壁で敗れた。

裴松之はいう。賈詡の作戦は、ダメだと。何焯はいう。賈詡の作戦は、ダメでないと。ぼくは思う。結果論を、ゴチャゴチャ言っても、仕方ない。訳さない。

曹操は、韓遂と馬超と、渭南で戦った。馬超は曹操に、土地と任子をもとめた。賈詡は、許したふりをした。賈詡は、韓遂と馬騰を、離間した。武帝紀にある。

馬超、けっこう強気に、曹操へ要求したんだなあ。尊敬した。


賈詡の晩年

是時,文帝為五官將,而臨菑侯植才名方盛,各有黨與,有奪宗之議。文帝使人問詡自固之術,詡曰:「原將軍恢崇德度,躬素士之業,朝夕孜孜,不違子道。如此而已。」文帝從之,深自砥礪。太祖又嘗屏除左右問詡,詡嘿然不對。太祖曰:「與卿言而不答,何也?」詡曰:「屬適有所思,故不即對耳。」太祖曰:「何思?」詡曰:「思袁本初、劉景升父子也。」太祖大笑,於是太子遂定。詡自以非太祖舊臣,而策謀深長,懼見猜疑,闔門自守,退無私交,男女嫁娶,不結高門,天下之論智計者歸之。

曹丕は、賈詡に相談した。賈詡は曹操に言った。「袁紹と劉表を思ってみた」と。賈詡は閉門して、曹操の旧臣と婚姻をむすばない。

いろんな解釈ができるところ。後日、考える。


文帝即位,以詡為太尉,進爵魏壽鄉侯,增邑三百,並前八百戶。又分邑二百,封小子訪為列侯。
魏略曰:文帝得詡之對太祖,故即位首登上司。
荀勖別傳曰:晉司徒闕,武帝問其人於勖。答曰:「三公具瞻所歸,不可用非其人。昔魏文帝用賈詡為三公,孫權笑之。」

曹丕が即位すると、賈詡を太尉とした。
『魏略』はいう。曹丕は、賈詡と曹操の会話を聞いた。だから賈詡を、太尉とした。『荀勖別伝』はいう。西晋の武帝は、荀勖に聞いた。「司徒の欠員は、だれで埋めるか」と。荀勖は言った。「曹丕が賈詡を三公にしたとき、孫権が笑いました」と。

ぼくは思う。まだ孫晧が、皇帝のときだろうか。ニヤリとさせる小説。賈詡の肩身のせまさは、また後日、考えたい問題。


以長子穆為駙馬都尉。帝問詡曰:「吾欲伐不從命以一天下,吳、蜀何先?」對曰:「攻取者先兵權,建本者尚德化。陛下應期受禪,撫臨率土,若綏之以文德而俟其變,則平之不難矣。吳、蜀雖蕞爾小國,依阻山水,劉備有雄才,諸葛亮善治國,孫權識虛實,陸議見兵勢,據險守要,汎舟江湖,皆難卒謀也。用兵之道,先勝後戰,量敵論將,故舉無遺策。臣竊料群臣,無備、權對,雖以天威臨之,未見萬全之勢也。昔舜舞幹戚而有苗服,臣以為當今宜先文後武。」文帝不納。後興江陵之役,士卒多死。詡年七十七,薨,諡曰肅侯。子穆嗣,曆位郡守。穆薨,子模嗣。 世語曰:模,晉惠帝時為散騎常侍、護軍將軍,模子胤,胤弟龕,從弟疋,皆至大官,並顯於晉也。

長子の賈穆は、駙馬都尉となる。
曹丕は賈詡に、「呉蜀のどちらを先に討つか」と聞いた。賈詡は「どちらも、攻めるな」と言った。曹丕は聞かず、江陵を攻めて、戦死者を出した。賈詡は77歳で死んだ。

文帝の黄初四年6月甲申、太尉の賈詡は薨じた。

賈穆がついだ。賈模がついだ。『世語』は、子孫を載せる。

曹丕の話から、急速にやる気がなくなりましたが。時期からして、いつものことです。すみません。曹操の献帝奉戴をやったら、満足してしまった。110510