表紙 > 曹魏 > 二袁を見て、曹操の献帝奉戴をみとめた、献帝の重臣・賈詡伝

01) 閻忠に認められ、牛輔の参謀となる

『三国志集解』で、賈詡伝をやります。

おなじ巻の荀彧は、すでにやった。荀攸は、近々やる。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ


漢陽の閻忠だけが、賈詡を評価する

賈詡字文和,武威姑臧人也。少時人莫知,唯漢陽閻忠異之,謂詡有良、平之奇。

賈詡は、あざなを文和という。武威の姑臧の人だ。

『郡国志』はいう。涼州の武威は、郡治が姑臧だ。姑臧は、涼州刺史の治所でもある。もとは匈奴の休屠王の領地だった。恵棟はいう。むかし匈奴を、蓋蔵といった。これがなまって、姑臧となった。臧の音は、蔵とおなじ。
ぼくは思う。もと匈奴の土地、涼州の中心地。賈詡は、いかにも西方の人。

若いとき、だれも賈詡を知らない。ただ漢陽の閻忠だけは、賈詡をみとめた。

『郡国志』はいう。涼州に漢陽郡がある。郡治は、冀県だ。冀県は、霊帝の中平より以後、建安の末まで、涼州刺史の州治だった。ぼくは補う。はじめ涼州刺史は、姑臧にいた。中平のとき、冀県にうつる。馬超があばれるのも、冀県でした。

賈詡に、張良や陳平の性質があると言った。

九州春秋曰:中平元年,車騎將軍皇甫嵩既破黃巾,威震天下。閻忠時罷信都令,說嵩曰:「夫難得而易失者時也,時至而不旋踵者機也,故聖人常順時而動,智者必因機以發。今將軍遭難得之運,蹈易解之機,而踐運不撫,臨機不發,將何以享大名乎?」嵩曰:「何謂也?」忠曰:「天道無親,百姓與能,故有高人之功者,不受庸主之賞。今將軍授鉞於初春,收功於末冬,兵動若神,謀不再計,旬月之間,神兵電掃,攻堅易於折枯,摧敵甚於湯雪,七州席捲,屠三十六(萬)方,夷黃巾之師,除邪害之患,或封戶刻石,南向以報德,威震本朝,風馳海外。

『九州春秋』はいう。中平元年(184)、車騎将軍の皇甫嵩は、黄巾を破った。閻忠は、信都令をやめて、皇甫嵩に言った。

『郡国志』はいう。冀州の安平国に、信都県がある。

「皇甫嵩は、初春に、黄巾を平定した。

『後漢書』皇甫嵩伝は、「暮春」とする。潘眉はいう。黄巾は、春二月に挙兵し、三月に皇甫嵩が討伐した。「初春」は誤りである。

皇甫嵩が討った黄巾は、7州、36万方だった」

何焯はいう。「36方」が正しい。『後漢書』皇甫嵩伝はいう。黄巾は「36方」を設置した。「方」とは、将軍号のようなものだ。大方は、1万余人。小方は6,7千人をひきいた。おのおの渠帥をたてたと。
趙一清はいう。『後漢書』霊帝紀は、「36万」とする。注釈された『続漢書』では、「36万余人」とする。『三国志』孫堅伝では、「36万」とする。後世の人が、誤って書き換えたのだろう。
ぼくは思う。軍の単位である「方」は、36個だろう。これを「36万人」と誤った。


是以群雄回首,百姓企踵,雖湯武之舉,未有高於將軍者。身建高人之功,北面以事庸主,將何以圖安?」嵩曰:「心不忘忠,何為不安?」忠曰:「不然。昔韓信不忍一餐之遇,而棄三分之利,拒蒯通之忠,忽鼎跱之勢,利劍已揣其喉,乃歎息而悔,所以見烹於兒女也。今主勢弱於劉、項,將軍權重於淮陰,指麾可以振風雲,叱吒足以興雷電;赫然奮發,因危抵頹,崇恩以綏前附,振武以臨後服;徵冀方之士,動七州之眾,羽檄先馳於前,大軍震響於後,蹈跡漳河,飲馬孟津,舉天網以網羅京都,誅閹宦之罪,除群怨之積忿,解久危之倒懸。如此則攻守無堅城,不招必影從,雖兒童可使奮空拳以致力,女子可使其褰裳以用命,況厲智能之士,因迅風之勢,則大功不足合,八方不足同也。功業已就,天下已順,乃燎於上帝,告以天命,混齊六合,南面以制,移神器於己家,推亡漢以定祚,實神機之至決,風發之良時也。夫木朽不彫,世衰難佐,將軍雖欲委忠難佐之朝,彫畫朽敗之木,猶逆阪而走丸,必不可也。方今權宦群居,同惡如市,主上不自由,詔命出左右。如有至聰不察,機事不先,必嬰後悔,亦無及矣。」嵩不從,忠乃亡去。

閻忠は言う。「皇甫嵩は、庸主に仕えるな。皇甫嵩が、皇帝となれ」と。皇甫嵩は、閻忠にしたがわず。閻忠は、逃げ去った。

ひどく省略して、すみません。霊帝の後半、すでに後漢はダメだという世論が、立ち上がりつつあった。霊帝の改革を理解するために、頭に入れておきたいこと。
『後漢書』皇甫嵩伝にも、閻忠のセリフがある。『三国志集解』は、ちがいをひく。范曄は、『九州春秋』などを見ながら、皇甫嵩伝を書いたのだろうか。


英雄記曰:涼州賊王國等起兵,共劫忠為主,統三十六部,號車騎將軍。忠感慨發病而死。

『英雄記』はいう。涼州で、賊の王国らが起兵した。王国らは、むりに閻忠を盟主とした。36部を統べさせ、閻忠を車騎将軍とした。

ぼくは思う。36という数字は、ポピュラーなのか?黄巾も、36方だ。上で見たばかり。そして車騎将軍は、皇甫嵩とならぶ官位。まるで皇甫嵩を閻忠を、対句にしているみたい。対句だとしたら、事実として信用できない。ただのレトリック(文飾)なんだから。

閻忠は感慨して、病死した。

『後漢書』皇甫嵩伝にひく注釈では、「36郡」とする。誤りだ。蘇輿はいう。閻忠は、王国らにおどされて、盟主にさせられたので、恥じて死んだ。ぼくは思う。さっき『英雄記』の記述を、対句のためのレトリックだと言った。閻忠の病死も、『英雄記』が、言葉を飾っているだけだと思う。閻忠は、皇甫嵩をそそのかしたから、バチが当たったよと。筆誅!
『後漢書』董卓伝はいう。韓遂らは、王国を廃して、閻忠をムリにかついだ。いまの賈詡伝にある裴注『英雄記』と、同じでない。
このあと盧弼は、閻忠にかんする論評を、いろいろ引く。史実でなく、意見の紹介。「まだ漢室が忘れられていない。皇甫嵩が閻忠にしたがえば、董卓の前がけになった。朱儁や盧植だって、董卓とおなじく、用兵が得意だった」とか。
ぼくは思う。価値観は、いくぶんかは、世代にしばられる。150年前後に生まれた世代が、『三国志』の世界をひらいてゆく。袁紹や曹操のあたりが、境界なんだ。それより年長ならば、後漢を守る。黄巾のころ、50代に入っていると、もう融通が利かないらしい。自然科学としての人間のツクリは、今も昔も、変わらない。心理の変化も、共通するだろう。ぼくは会社で周囲を見渡すと、なるほど、と思ってしまう。50代を過ぎると、守りに入るのだな。お金だけでなく、価値観もふくめて、利息で暮らそうとする。元本がいかに少なくても、いかに品質がわるくても、40代までに築いてきた元本に、しがみつく。
史料にないが、閻忠は、皇甫嵩より、だいぶ若かったのだろう。賈詡の兄世代。


太尉・段熲の従子だと、いつわる

察孝廉為郎,疾病去官,西還至汧,道遇叛氐,同行數十人皆為所執。詡曰:「我段公外孫也,汝別埋我,我家必厚贖之。」時太尉段熲,昔久為邊將,威震西土,故詡假以懼氐。氐果不敢害,與盟而送之,其餘悉死。詡實非段甥,權以濟事,鹹此類也。

孝廉に察され、郎となる。病で去官する。西にかえる。汧県で、叛氐に遭遇した。同行する数十人は、捕らえられた。賈詡は言った。「私は、太尉・段熲の従子である。私を殺したら、べつに葬れ」と。ときに太尉の段熲は、西土を震わせる。賈詡だけは、助かった。賈詡は、こんな調子で、権謀をした。

『郡国志』はいう。汧県は、司隷の右扶風である。段熲、やりました。
ユニット名は「涼西の三明」 『後漢書』列伝55より
光和二年(179)、橋玄に代わって太尉となった。数ヵ月後、日食があって、段熲は太尉をやめた。この事件は、179年ぐらいだろう。賈詡は、147年生まれなので、このとき33歳。いかにも、ハッタリをかます体力がありそうな年齢。
それにしても賈詡は、曹操よりも8つ上なのか。献帝の回りで、賈詡はいろいろ作戦を練る。40代後半なら、信頼も厚いだろう。曹昂を殺したとき、賈詡は50歳を越えている。


牛輔の参謀として、校尉の李傕に長安を指示

董卓之入洛陽,詡以太尉掾為平津都尉,遷討虜校尉。卓婿中郎將牛輔屯陝,詡在輔軍。

董卓が洛陽に入ると、賈詡を太尉掾、平津都尉にした。

『続百官志』はいう。太尉の掾史属は24人だ。劉昭の注釈はいう。正官を「掾」といい、副官を「属」という。ぼくは思う。賈詡は、董卓の太尉府で、掾となった。つまり正官となった。
趙一清はいう。平津とは、小平津のこと。霊帝の中平元年、河南に八関をおいた。都尉をおいた。小平津も、その1つ。ぼくは思う。黄巾から洛陽を守るために、置いたのだ。

討虜校尉にうつる。董卓のむこ・中郎將の牛輔は、陜県に駐屯する。賈詡は、牛輔の軍にいた。

ぼくは思う。董卓のむこの軍だ。董卓軍の中核である。賈詡は、董卓から厚く信頼されたことがわかる。董卓と賈詡の、出会いの物語なんて、おもしろそうだ。だれかが創作したものを、読めるのだろうか。董卓は良家の子弟として、羽林郎になった。賈詡は、孝廉に察されるほどの人。ふつうに勤務してれば、お互いを知ることに、なっただろう。閻忠を経由して、董卓に知られたという話も、おもしろい。妄想だが。


卓敗,輔又死,眾恐懼,校尉李傕、郭汜、張濟等欲解散,間行歸鄉里。詡曰:「聞長安中議欲盡誅涼州人,而諸君棄眾單行,即一亭長能束君矣。不如率眾而西,所在收兵,以攻長安,為董公報仇,幸而事濟,奉國家以征天下,若不濟,走未後也。」眾以為然。傕乃西攻長安。語在卓傳。

董卓が死んだ。牛輔も死んだ。校尉の李傕、郭汜、張済は、軍を解いて、郷里にかえりたい。

『後漢書』董卓伝はいう。李傕らは、長安に赦免をもとめた。王允は「1年に、なんども恩赦できない」と断った。李傕らは、どうしてよいか分からない。武威の賈詡が、李傕を説得したと。李賢はいう。牛輔が死んでから、賈詡は李傕の軍にうつった。

賈詡が言った。「長安では、涼州人のみな殺しが、検討されている。軍を解いたら、1人の亭長にも捕まる。長安を討とう。ミスってから逃げても、遅くない」と。

関連記事:献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 01
上にリンクした『三国志』董卓伝に、牛輔が指示して、李傕、郭汜らを、陳留や潁川に送ったと明記してある。つまり、李傕から見れば賈詡は、「元上司の参謀」である。賈詡は、パッと出のキレモノとして、李傕にささやいたのでない。李傕が賈詡の説得を受け入れる土壌は、董卓軍の秩序のなかに、すでにあった。


臣松之以為傳稱「仁人之言,其利溥哉」!然則不仁之言,理必反是。夫仁功難著,而亂源易成,是故有禍機一發而殃流百世者矣。當是時,元惡既梟,天地始開,致使厲階重結,大梗殷流,邦國遘殄悴之哀,黎民嬰周餘之酷,豈不由賈詡片言乎?詡之罪也,一何大哉!自古兆亂,未有如此之甚。

裴松之はいう。後漢が滅びたのは、賈詡の片言のせいだ。

何焯はいう。賈詡は、生き残ろうとしただけ。悪いのは、王允である。以下、盧弼は、犯人さがしを引用する。陶謙が朱儁をかついだとき、朱儁を入朝させて衝突を避けたのも、賈詡のアイディア。賈詡の評価を左右する仕事だ。
漢陽の閻忠といい、武威の賈詡といい、後漢の滅亡に関して、後世に史家から、議論を百出させる人物だ。閻忠と賈詡は、おなじタイプの人かも知れない。「漢室は永続すべき」という観念にとらわれず、現実に応じて発想できる。閻忠-皇甫嵩のような関係が、賈詡-董卓のあいだであっても、おかしくない。


李傕政権の人事と、李郭の仲裁を担当する

後詡為左馮翊,傕等欲以功侯之,詡曰:「此救命之計,何功之有!」固辭不受。又以為尚書僕射,詡曰:「尚書僕射,官之師長,天下所望,詡名不素重,非所以服人也。縱詡昧于榮利,奈國朝何!」乃更拜詡尚書,典選舉,多所匡濟,傕等親而憚之。

のちに賈詡は、左馮翊となる。李傕から、侯爵と尚書僕射を送られた。賈詡はことわった。「尚書僕射は、官の師長だ。私は名声がないから、人々に服してもらえない」と。賈詡は、尚書となった。

尚書僕射は、武帝紀の建安18年にある。やろう。
袁宏『後漢紀』はいう。初平四年(193)、日食があった。夕方まで、まだ8刻ある。太史令の王立は、「日食によって、変事はない」と言った。郡臣は、献帝を賀した。ひそかに献帝は、尚書の候焉に調べさせた。夕方まで1刻のとき、日食した。賈詡は、日食の予測をミスったので、とがめた。太尉の周忠は、管轄している官人を罰した。献帝は、「日食の予測ができなくても、仕方ない」とゆるした。
ぼくは思う。賈詡が、尚書として働いたログですね。日食について、どのように予想して、実際はどのようだったのか。うまく意味がとれていません。ごめんなさい。とにかく、予想が外れたことを、賈詡が咎めた。きびしい人だなあ。

賈詡は、選挙をつかさどる。人事によって、おおく政治をただした。李傕らは、賈詡に親しみつつ、はばかった。

賈詡の立場が、よくわかる。李傕は、中級の将校出身だから、賈詡より下。


獻帝紀曰:郭汜、樊稠與傕互相違戾,欲鬥者數矣。詡輒以道理責之,頗受詡言。
魏書曰:詡典選舉,多選舊名以為令僕,論者以此多詡。

『献帝紀』はいう。郭汜、樊稠は、李傕と闘いそう。賈詡は、道理を説明して、闘うなと責めた。郭汜、樊稠、李傕は、賈詡の発言を、よく受けいれた。
『魏書』はいう。賈詡は選挙して、旧名(むかしからの名声)がある人を、令僕にした。おおくの論者は、賈詡にプラスの評価をした。

ぼくは思う。ちくま訳は「旧知の知名人」とする。旧知って、賈詡の?そうだとしたら、賈詡はワガママを責められるだろう。賈詡と旧知なのでなく、後漢の世論で有名な人を、選挙した。
ぼくは思う。賈詡は、李傕の朝廷のうち、ほぼ唯一、曹操の朝廷でも高官になった人。「李傕はバカだが、賈詡だけは、賢かった」という話が、創作されがちだ。どこまで割り引けばいいのか、手加減がむずかしい。ともあれ、牛輔への所属とか、官位の高さとかは、客観的な情報なので、賈詡の評価に反映させてよいだろう。


會母喪去官,拜光祿大夫。傕、汜等鬥長安中,傕複請詡為宣義將軍。
獻帝紀曰:傕等與詡議,迎天子置其營中。詡曰:「不可。脅天子,非義也。」傕不聽。張繡謂詡曰:「此中不可久處,君胡不去?」詡曰:「吾受國恩,義不可背。卿自行,我不能也。」
獻帝紀曰:傕時召羌、胡數千人,先以禦物繒采與之,又許以宮人婦女,欲令攻郭汜。羌、胡數來闚省門,曰:「天子在中邪!李將軍許我宮人美女,今皆安在?」帝患之,使詡為之方計。詡乃密呼羌、胡大帥飲食之,許以封爵重寶,於是皆引去。傕由此衰弱。

たまたま母が死んだ。賈詡は、去官した。光禄大夫となる。李傕と郭汜は、長安で闘う。李傕は、ふたたび賈詡に請い、宣義將軍とした。

光禄大夫は、文帝紀の黄初二年にある。ヒマな官位。胡三省はいう。宣義將軍は、一時的に置かれた、ここだけの官位。
ぼくは思う。李傕と郭汜の泥仕合が始まった理由は、賈詡がいなくなったからだ。賈詡の母が死んだので、仲裁する人がいなくなった。李傕政権の解体には、いろんな要因があるだろうが、賈詡伝を読む範囲では、そう解釈できる。193年でなく、194年でなく、195年に李傕政権がバラバラになったのは、賈詡の母のせいだ。

『献帝紀』はいう。李傕は、賈詡に言った。「私の軍営に、天子を置きたい」と。賈詡がダメだと言った。張繍は賈詡に、去れと言った。賈詡は言った。「私は国恩を受けた。李傕から天子を守るため、去らない」と。
『献帝紀』はいう。李傕は、財宝や女性を与える約束で、羌族や胡族を味方にした。李傕は、郭汜を攻めたい。羌族や胡族が、献帝を冷やかす。賈詡が、羌族と胡族を、追い払った。李傕は、兵力を失って、衰退した。

これは典型的な「李傕は不忠、賈詡は忠臣」という話。創作か。


次回、献帝が長安を脱出してから、曹操に保護されるまで。賈詡は、複雑な動きをします。献帝の陪臣は、たいてい、複雑な動きをする。賈詡は、顕著。つづく。