01) 閻忠に認められ、牛輔の参謀となる
『三国志集解』で、賈詡伝をやります。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ
漢陽の閻忠だけが、賈詡を評価する
賈詡は、あざなを文和という。武威の姑臧の人だ。
ぼくは思う。もと匈奴の土地、涼州の中心地。賈詡は、いかにも西方の人。
若いとき、だれも賈詡を知らない。ただ漢陽の閻忠だけは、賈詡をみとめた。
賈詡に、張良や陳平の性質があると言った。
『九州春秋』はいう。中平元年(184)、車騎将軍の皇甫嵩は、黄巾を破った。閻忠は、信都令をやめて、皇甫嵩に言った。
「皇甫嵩は、初春に、黄巾を平定した。
皇甫嵩が討った黄巾は、7州、36万方だった」
趙一清はいう。『後漢書』霊帝紀は、「36万」とする。注釈された『続漢書』では、「36万余人」とする。『三国志』孫堅伝では、「36万」とする。後世の人が、誤って書き換えたのだろう。
ぼくは思う。軍の単位である「方」は、36個だろう。これを「36万人」と誤った。
閻忠は言う。「皇甫嵩は、庸主に仕えるな。皇甫嵩が、皇帝となれ」と。皇甫嵩は、閻忠にしたがわず。閻忠は、逃げ去った。
『後漢書』皇甫嵩伝にも、閻忠のセリフがある。『三国志集解』は、ちがいをひく。范曄は、『九州春秋』などを見ながら、皇甫嵩伝を書いたのだろうか。
『英雄記』はいう。涼州で、賊の王国らが起兵した。王国らは、むりに閻忠を盟主とした。36部を統べさせ、閻忠を車騎将軍とした。
閻忠は感慨して、病死した。
『後漢書』董卓伝はいう。韓遂らは、王国を廃して、閻忠をムリにかついだ。いまの賈詡伝にある裴注『英雄記』と、同じでない。
このあと盧弼は、閻忠にかんする論評を、いろいろ引く。史実でなく、意見の紹介。「まだ漢室が忘れられていない。皇甫嵩が閻忠にしたがえば、董卓の前がけになった。朱儁や盧植だって、董卓とおなじく、用兵が得意だった」とか。
ぼくは思う。価値観は、いくぶんかは、世代にしばられる。150年前後に生まれた世代が、『三国志』の世界をひらいてゆく。袁紹や曹操のあたりが、境界なんだ。それより年長ならば、後漢を守る。黄巾のころ、50代に入っていると、もう融通が利かないらしい。自然科学としての人間のツクリは、今も昔も、変わらない。心理の変化も、共通するだろう。ぼくは会社で周囲を見渡すと、なるほど、と思ってしまう。50代を過ぎると、守りに入るのだな。お金だけでなく、価値観もふくめて、利息で暮らそうとする。元本がいかに少なくても、いかに品質がわるくても、40代までに築いてきた元本に、しがみつく。
史料にないが、閻忠は、皇甫嵩より、だいぶ若かったのだろう。賈詡の兄世代。
太尉・段熲の従子だと、いつわる
孝廉に察され、郎となる。病で去官する。西にかえる。汧県で、叛氐に遭遇した。同行する数十人は、捕らえられた。賈詡は言った。「私は、太尉・段熲の従子である。私を殺したら、べつに葬れ」と。ときに太尉の段熲は、西土を震わせる。賈詡だけは、助かった。賈詡は、こんな調子で、権謀をした。
ユニット名は「涼西の三明」 『後漢書』列伝55より
光和二年(179)、橋玄に代わって太尉となった。数ヵ月後、日食があって、段熲は太尉をやめた。この事件は、179年ぐらいだろう。賈詡は、147年生まれなので、このとき33歳。いかにも、ハッタリをかます体力がありそうな年齢。
それにしても賈詡は、曹操よりも8つ上なのか。献帝の回りで、賈詡はいろいろ作戦を練る。40代後半なら、信頼も厚いだろう。曹昂を殺したとき、賈詡は50歳を越えている。
牛輔の参謀として、校尉の李傕に長安を指示
董卓之入洛陽,詡以太尉掾為平津都尉,遷討虜校尉。卓婿中郎將牛輔屯陝,詡在輔軍。
董卓が洛陽に入ると、賈詡を太尉掾、平津都尉にした。
趙一清はいう。平津とは、小平津のこと。霊帝の中平元年、河南に八関をおいた。都尉をおいた。小平津も、その1つ。ぼくは思う。黄巾から洛陽を守るために、置いたのだ。
討虜校尉にうつる。董卓のむこ・中郎將の牛輔は、陜県に駐屯する。賈詡は、牛輔の軍にいた。
董卓が死んだ。牛輔も死んだ。校尉の李傕、郭汜、張済は、軍を解いて、郷里にかえりたい。
賈詡が言った。「長安では、涼州人のみな殺しが、検討されている。軍を解いたら、1人の亭長にも捕まる。長安を討とう。ミスってから逃げても、遅くない」と。
上にリンクした『三国志』董卓伝に、牛輔が指示して、李傕、郭汜らを、陳留や潁川に送ったと明記してある。つまり、李傕から見れば賈詡は、「元上司の参謀」である。賈詡は、パッと出のキレモノとして、李傕にささやいたのでない。李傕が賈詡の説得を受け入れる土壌は、董卓軍の秩序のなかに、すでにあった。
裴松之はいう。後漢が滅びたのは、賈詡の片言のせいだ。
漢陽の閻忠といい、武威の賈詡といい、後漢の滅亡に関して、後世に史家から、議論を百出させる人物だ。閻忠と賈詡は、おなじタイプの人かも知れない。「漢室は永続すべき」という観念にとらわれず、現実に応じて発想できる。閻忠-皇甫嵩のような関係が、賈詡-董卓のあいだであっても、おかしくない。
李傕政権の人事と、李郭の仲裁を担当する
のちに賈詡は、左馮翊となる。李傕から、侯爵と尚書僕射を送られた。賈詡はことわった。「尚書僕射は、官の師長だ。私は名声がないから、人々に服してもらえない」と。賈詡は、尚書となった。
袁宏『後漢紀』はいう。初平四年(193)、日食があった。夕方まで、まだ8刻ある。太史令の王立は、「日食によって、変事はない」と言った。郡臣は、献帝を賀した。ひそかに献帝は、尚書の候焉に調べさせた。夕方まで1刻のとき、日食した。賈詡は、日食の予測をミスったので、とがめた。太尉の周忠は、管轄している官人を罰した。献帝は、「日食の予測ができなくても、仕方ない」とゆるした。
ぼくは思う。賈詡が、尚書として働いたログですね。日食について、どのように予想して、実際はどのようだったのか。うまく意味がとれていません。ごめんなさい。とにかく、予想が外れたことを、賈詡が咎めた。きびしい人だなあ。
賈詡は、選挙をつかさどる。人事によって、おおく政治をただした。李傕らは、賈詡に親しみつつ、はばかった。
魏書曰:詡典選舉,多選舊名以為令僕,論者以此多詡。
『献帝紀』はいう。郭汜、樊稠は、李傕と闘いそう。賈詡は、道理を説明して、闘うなと責めた。郭汜、樊稠、李傕は、賈詡の発言を、よく受けいれた。
『魏書』はいう。賈詡は選挙して、旧名(むかしからの名声)がある人を、令僕にした。おおくの論者は、賈詡にプラスの評価をした。
ぼくは思う。賈詡は、李傕の朝廷のうち、ほぼ唯一、曹操の朝廷でも高官になった人。「李傕はバカだが、賈詡だけは、賢かった」という話が、創作されがちだ。どこまで割り引けばいいのか、手加減がむずかしい。ともあれ、牛輔への所属とか、官位の高さとかは、客観的な情報なので、賈詡の評価に反映させてよいだろう。
獻帝紀曰:傕等與詡議,迎天子置其營中。詡曰:「不可。脅天子,非義也。」傕不聽。張繡謂詡曰:「此中不可久處,君胡不去?」詡曰:「吾受國恩,義不可背。卿自行,我不能也。」
獻帝紀曰:傕時召羌、胡數千人,先以禦物繒采與之,又許以宮人婦女,欲令攻郭汜。羌、胡數來闚省門,曰:「天子在中邪!李將軍許我宮人美女,今皆安在?」帝患之,使詡為之方計。詡乃密呼羌、胡大帥飲食之,許以封爵重寶,於是皆引去。傕由此衰弱。
たまたま母が死んだ。賈詡は、去官した。光禄大夫となる。李傕と郭汜は、長安で闘う。李傕は、ふたたび賈詡に請い、宣義將軍とした。
ぼくは思う。李傕と郭汜の泥仕合が始まった理由は、賈詡がいなくなったからだ。賈詡の母が死んだので、仲裁する人がいなくなった。李傕政権の解体には、いろんな要因があるだろうが、賈詡伝を読む範囲では、そう解釈できる。193年でなく、194年でなく、195年に李傕政権がバラバラになったのは、賈詡の母のせいだ。
『献帝紀』はいう。李傕は、賈詡に言った。「私の軍営に、天子を置きたい」と。賈詡がダメだと言った。張繍は賈詡に、去れと言った。賈詡は言った。「私は国恩を受けた。李傕から天子を守るため、去らない」と。
『献帝紀』はいう。李傕は、財宝や女性を与える約束で、羌族や胡族を味方にした。李傕は、郭汜を攻めたい。羌族や胡族が、献帝を冷やかす。賈詡が、羌族と胡族を、追い払った。李傕は、兵力を失って、衰退した。
次回、献帝が長安を脱出してから、曹操に保護されるまで。賈詡は、複雑な動きをします。献帝の陪臣は、たいてい、複雑な動きをする。賈詡は、顕著。つづく。