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ユニット名は「涼西の三明」 7)囚人から并州刺史へ
段熲は、あざなを紀明という。武威郡の姑臧県の人である。
祖先は、鄭ノ共智段(武公の子)の血筋で、西域都護となった会宗である。前漢ノ元帝のときの人で、遡って「段」を姓とした。段熲は、その会宗の兄弟の曾孫である。
段熲は若いときから弓馬を習い、遊侠の心意気を大切にし、財貨に目もくれなかった。ここまではただの荒くれものだが、大人になってからは古学に励んだ。古学でもやらないと、官吏への道が開けない時代だからだ。段熲は大舞台で活躍したいという気持ちがあり、そのために官途に就くことを願った。
はじめ孝廉に推挙され、憲陵園(順帝の墓)の丞をやり、陽墓(景帝の墓)の令となり、政治に能力を発揮した。ちなみに丞(副官)は三百石で、令(長官)は六百石の秩である。
墓守とは地味なデビューだ。しかし皇帝の墓ですら、異民族からの進攻をろくに防げないという王朝の緊急事態だったから、ニーズありきの任命だったと言える。

段熲は、遼東属国都尉となった。鮮卑の侵攻を防ぐのが、段熲に期待された役割である。
官制の駅伝の騎馬から、書状が届いた。
「段熲よ、撤退すべし」
ご丁寧に皇帝の印璽が捺されている。
「ああ詔書か、畏れ入った」
段熲は使者の前で顔色を変えて、ただちに撤退を命じた。だが、退路のみちみちに伏兵を置いた。段熲は、洛陽の皇帝や役人どもが、戦の勝敗を判断できないと思っている。
彼らは安逸をむさぼり、勝手に鮮卑の勢いを懼れて、勝利の可能性を放棄した。勝てない戦ではないのに、なぜ引かねばならんか。段熲は、煮えきらない。自分のやりたいようにやろうと思った。
「好機である。追尾の鮮卑を討て」
段熲は、伏兵に号令した。段熲の軍が腰抜けの動きをしたから、鮮卑は油断していた。そこを攻められたから、鮮卑はことごとく斬られ、捕えられた。
まぐれ勝ちしたからと言って、皇帝の命令に背いて戦った罪は消えないぞ。詔書違反は、ふつうなら死刑、よくても禁錮だ」
段熲は、2年間の労役刑に服した。勝利したのに有罪となったが、勝利したから服役が2年で済んだとも言える。いや、そうではない。
「ここに砂金があります」
段熲は宦官あたりに賄いを送ったのだろう。だから2年で自由を取り戻し、再び官位を与えられた。
刑期を終えた段熲は、議郎に任じられた。

泰山郡と瑯邪郡では、賊の東郭竇と公孫挙らが、30000人を率いて人家を破壊した。連年出兵したが、朝廷は勝てない。
「文武ができる人を挙げよ」
156年、桓帝は人材を集めた。司空の尹頌(あざなは公孫)は、段熲を勧めた。段熲は期待に応え、首領を斬った。数万を斬首し、余党は降伏したり逃げたりした。
「段熲を列侯とする。50万銭を与え、1子を郎中とする」
列侯とは、漢の民が全員編入されている二十等爵の最上級である。
皇甫規も張奐も、叙任のことで苦労した。段熲が順調過ぎるのは、政治的有力者への配慮が上手かったからだろう。2回勝っただけで列侯とは、不自然な栄典だ。この世渡りに熱心な姿勢が、段熲の最期を決定することになるが、それはまだ後の話である。
159年、護羌校尉となって、隴西郡と金城郡に侵入していた8種の羌を破った。追討して南方に黄河を渡った。
「速やかな渡河が必要だ。よし、先遣隊を募れ。黄河をはじめに渡らせ、残りの軍を縄で引っ張ってもらう。敵の襲撃を受けたら、黄河の対岸で全滅する役目だが、成功したら恩賞は大きいぞ」
勇士たちが立候補してくれた。
追撃に成功し、2000の首級を刈り、10000余人の奴隷を獲得した。羌族はみな降伏したり逃げたりした。

160年、張掖属国はまた羌に攻められ、民が殺された。
「敵襲!」
段熲は早朝に攻めかかられた。段熲は下馬して戦い、日中に刀は折れて矢は尽きた。ちょうど羌も疲れたと見えて、退却を始めた。段熲は昼夜を問わずに追撃した。肉を裂き、雪を食らうこと40日で、黄河の源流・積石山まで到った。国境を2000余里も進入し、羌の大帥を斬った。斬首と捕虜は5000余人。
兵を分けて石城で戦い、斬首と溺死は1600人。白石を攻めては、斬首と捕虜は3000余人。冬に街を襲撃した羌を討ち、斬獲は数百人。
段熲はタカ派で、とにかく羌族を殺し、殺し、殺す方針だ。皇甫規や張奐は、羌族を人間と見て折り合ったが、段熲はそういうことはしない。髪を振り乱してどこまでも攻め、絶対に滅ぼす。
戦果が列挙されるだけの列伝は、固有名詞の漢字を入力するのが大変なだけで、あまり面白くない(笑)

161年、并州と涼州が寇された。
「私の功績がもっと欲しいな」
遼州刺史の郭閎は、段熲の軍を停留させ、活躍の場を奪った。進めず、退けず、いつ勝てるか分からず、いつ帰れるかも分からない。段熲が率いていた兵は、故郷を慕って逃げ出した。
「ああ!段熲が失敗したぞ」
郭閎は、軍がバラバラになったのを見て、段熲を訴えた。段熲は左校で、輪作(労役刑)に服した。
段熲がいなくなった隙に、羌は諸郡を陥れた。郭閎ではろくに防禦ができず、人民は殺された。
「カムバック!段熲!」
駅前で署名活動が行われ、1000人が賛同した。朝廷は、郭閎がウソを報告したことを知った。郭閎が戦勝していれば追及はなかっただろうが、郭閎は弱いから、遡って調査された。
「君は無罪だ」
朝廷は、段熲を釈放した。
「判決ミスを、どのように償ってくれますか」
と言い出す段熲ではない。段熲は、政治の立ち回りのセンスがある。可愛がられる臣下とはどういう人か、心得ている。
「兵を逃がしてしまい、申し訳ありませんでした」
段熲は無罪を言われても、却って謝った。
「段熲は長者じゃ」
洛陽の司法担当者たちは、口々に言った。刑徒だった段熲は、復た議郎になり、并州刺史になった。いきなり昇進し過ぎである。

テン那などの羌が5、6000人、武威郡・張掖郡・酒泉郡を寇して、人家を焼いた。163年、涼州は今にも滅びようとしていた。
「護羌校尉に任ずる」
冬、段熲に声がかかった。段熲は并州から、駅伝で戦地に向かった。
164年春、355人の酋長が3000家族を率いて段熲に降伏したが、従わない人も多かった。冬、段熲は万余の軍勢で集結した敵を攻め、酋豪を斬って、4000余人を斬首・捕虜とした。
165年、また羌を討ち、400余級の首と、2000余人の降伏を受けた。夏に段熲は破れ、3日包囲された。隠士・樊志張(列伝72下・方術伝)が進み出た。
「ひそかに包囲の外に、兵士を出しなさい。そして夜に鼓を鳴らし、動揺した敵を戻ってきて討ちなさい
「よし、明暗を覆す名案だ」
段熲は数千人を斬首・捕虜とした。急追して山谷を走り回り、1年中で戦わないときはなかった。羌はついに飢えて散った。段熲は北辺と武威郡の間をさらに攻めた。
安定郡・北地郡・上郡・西河郡にいる異民族を西羌といい、隴西郡・漢陽郡・金城郡の塞外にいるのを東羌と呼んだ。段熲は連年、西羌を破って首を23000、奴隷を数万人、馬牛羊を800万、降した村落は万余だった。
「段熲を都郷侯に封じ、500戸を与える」
段熲が洛陽に気を配らずに存分に羌を追撃できたのは、有力宦官とのコネクションがあったからだろう。史書には書いてないが、この時代に戦闘だけに集中できることは、稀有なのだ。
167年、武威郡が4000余人に攻められた。段熲は追撃して破り、渠帥を斬って、3000余級の首を獲った。西羌は、ついに鎮定された。
西が済んだら次は東です。
桓帝のときに、東西の羌がそれぞれ抑えつけられたのは、ひとり段熲の活躍だったようで。次は段熲が、皇甫規と張奐のやり方を非難します。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
ユニット名は「涼西の三明」
皇甫規
1)敗北を見抜いた若者
2)降伏は金で買えますか
3)私を党錮に処しちゃって
張奐
4)金離れの超人
5)外戚恐怖症の過ち
6)故郷の土になりたい
段熲
7)囚人から并州刺史へ
8)東西羌のホロコースト
9)段熲が貴んだ宦官