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ユニット名は「涼西の三明」 6)故郷の土になりたい
張奐のライバルで、段熲という人がいる。
さきに張奐が度遼将軍だったとき、段熲と羌を撃つことを争った。結果はイーブンであった。
段熲が司隷校尉になった。さっき張奐を禁錮にした王寓は司隷校尉だったから、その後任だろうか。
「張奐は、敦煌に帰れ」
段熲はそう指示を出した。
「私は、弘農郡の人間だ」
張奐は、正式な手続きで本籍を移したのだから、従う必要はないと言い張った。当時敦煌に行くとは、いま月面に移住せよというに等しい。命がけで行けなくはないが、生活できない。
「張奐は違反者だ。殺してよい」
段熲がそう命じたから、張奐は青くなった。
「段熲よ、見逃してくれ。私は前ノ司隷校尉(王寓)から、罪を得た。もとの本籍の敦煌から千里を隔たった私は、もはや段熲だけが頼りだ。敦煌に埋まっている私の父母の朽骨も、いまや段熲だけが頼りだ」
えらく卑屈である。
「周ノ文王は、荒野に晒された人骨を見つけると、何の縁もないのに葬った。おかげで文王の徳は広まった。燕ノ昭王は、死んだ馬の骨すら高額で買った。おかげで名馬を手に入れた。私は人骨や馬骨にすら劣る人間だ。こんな私を君が救ったとしたら、周ノ文王や燕ノ昭王を上回るぞ。どうか見逃してくれ」
張奐は文章が巧みだから、心のあり方を如実に移しこんだ表現ができる。このときの張奐は、打ちひしがれていた。
段熲は、苦笑した。
かつてのライバルが、必死に懇願してきた。敦煌に帰れという命令は、実はあまり筋が通っていない。ライバルをやり込めて、ちょっとした自尊心を満たしたかっただけなのに、薬が効きすぎた。
段熲は剛猛な人だったが、張奐を哀れみ、忍びなくなった。
「禁錮というのは、かつての名将軍をこんなに衰弱させるほど、心身にこたえるものか」
段熲は、戦場を駆けた日のことを思った。

禁錮になった人は、危害を受けずに済まない。追って殺害命令が出たり、流罪になったりした。また史書にはないが、心が内攻してしまい、病む人も多かっただろう。
だが張奐は苦難にあっても強い人だった。
門を閉ざして、一歩も外に出なかった。弟子を1000人集めて、教授をやった。『尚書記難』という30万余言の本を著した。

張奐は若いときに志節を立てた。
士大夫の友人と語った。
「男たる者が世に出るのなら、国家のために辺境に立つべきだ」
張奐は将帥となり、志どおりの活躍をした。張奐は、異民族の進出によって、故郷を失った人である。だから、真っ先に思い描いた将来像は、辺境の平定だった。
董卓は張奐を慕った。董卓は兄に頼んで、絹100匹を張奐に送った。だが張奐は、董卓の人となりを嫌悪して、絶対に受け取らなかった。
三国ファンはびっくりするところだ(笑)
なぜなら、董卓の兄が史書に登場したからだ。董卓のあざなは「仲頴」だから、次男であることは分かる。しかし彼の兄は名無しだ。行動もしないし、喋りもしない。「張奐伝」に、その兄が登場しましたよ!
181年、張奐は死んだ。78歳だった。
遺言した。
「私は10回も銀の印綬を授かった。だが知恵を抑えて世俗の塵を受容することができず、宦官どもに憎まれた。通じるか塞がるかは、運命だ。生き死には、珍しいことではない。これらの原則を理解したつもりだが、死者が住む地底は、ずっと暗いところだと聞く。あまり楽しみには思えない。だから、死体を分厚い綿でくるみ、棺を釘で密閉するのは、御免被りたい。幸い家のすぐ前に墓があるから、朝に死んだら夕には埋めてほしい。布をつけずに身ひとつで埋めてくれ。早く土に還りたい」
子供たちは、この遺言を守った。
張奐の父母の墓は、敦煌にあるようです。張奐は、弘農の土下で棺に留まり、死後の生活を送ることを拒んだ。弘農ではなく、大地と一体化することで、故郷に思いを馳せたのだろう。
張奐がかつて太守をやった武威郡では、張奐の祠が代々絶えなかった。張奐が書き残した文書は、24篇である。

長男の張芝は、あざなを伯英という。兄弟でもっとも名を知られた。弟の張昶は、あざなを文舒という。彼らは草書がうまく、現在(『後漢書』編纂時』)まで称えられている。

はじめ張奐が武威太守として赴任したとき、妻は懐妊した。
妻は張奐に打ち明けた。
「昨夜(夫婦の営みをやった後)夢を見ました。あなたが、印綬を帯びて、楼に登って歌っていました。吉でしょうかねえ」
この逸話から、思わぬ事実がこぼれている。 張奐は、歌を好んだのだろう。現実世界で決して歌わない人は、他人の夢の中でも大抵は歌ってくれないからだ。猛将の意外な一面である(笑)
占者がコメントした。
「男子が生まれるでしょう。その子は、この国で政治をやりますが、夢に出てきた楼で命を終えるでしょう」
このとき生まれた子は、猛と名づけられた。
張猛は、建安年間(196-220年)に武威太守となった。張猛は、涼州刺史の邯鄲商を殺した。韓遂が張猛を討ち取ろうとして出兵したので、州郡の人は韓遂を懼れて、張猛を包囲した。 張猛は捕虜となることを恥として、楼に登って焼身自殺した。ついに占いが的中した。
この話は、『三国志』の「龐淯」の方が詳しい。赤壁のころの出来事で、鍾繇がやんわりと涼州と協調しているときの出来事だ。

『後漢書』の論に曰く、
宦官の鄭衆が侯に封じられてから、宦官は数十年間、横暴放恣であった。陳蕃と竇武が天下の名士を代表して、これを正そうとした。だが張奐はガキに欺かれ、戈を揚げて忠烈を討ってしまった。どれだけ後悔して心を傷めても、取り返しがつかないのは『詩経』も言っていることだ。
厳しいなあ。
ぼくが思うに、張奐は孤児だ。敦煌の奪還に燃え、弘農での定住に励み、けっきょく安心できる故郷を定めることが出来ずに死んだ。金離れが良かったが、それは故郷と隔離されたせいで、失うことに免疫が出来ていたからだ。心根が座っていたのである。
そして、故郷を取り戻すという大目的のためには、目の前の金銭などどちらでも良かった。 この態度が羌族の心を掴んで成功するが、宦官にハメられて、人生は右にも左にも振れなくなってしまった。
梁冀・外寇・党錮・董卓と、後漢末の凶事を全て経験した張奐は、貴重な不運な人と言える。死後くらいは安らかでいてほしい(笑)
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
ユニット名は「涼西の三明」
皇甫規
1)敗北を見抜いた若者
2)降伏は金で買えますか
3)私を党錮に処しちゃって
張奐
4)金離れの超人
5)外戚恐怖症の過ち
6)故郷の土になりたい
段熲
7)囚人から并州刺史へ
8)東西羌のホロコースト
9)段熲が貴んだ宦官