01) 荀爽と何顒は、董卓暗殺を謀らず
『三国志集解』で、荀攸伝をやります。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ
党錮された家柄、孔融と付き合う家柄
張璠漢紀稱昱、曇並傑俊有殊才。昱與李膺、王暢、杜密等號為八俊,位至沛相。攸父彝,州從事。彝於彧為從祖兄弟。
荀攸は、あざなを公達という。荀彧の従子だ。祖父の荀曇は、広陵太守。
『後漢書』列伝52・荀淑、韓韶、鍾晧、陳寔伝を抄訳
『荀氏家伝』はいう。荀曇は、あざなを元智という。兄の荀昱は、あざなを伯脩。
張璠『漢紀』はいう。荀昱、荀曇は、どちらも傑俊で、殊才があった。荀昱、李膺、王暢、杜密らは、八俊といわれた。荀昱は、沛相までなる。
『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳
『李膺家伝』はいう。李膺は、党事に坐した。杜密と荀翊(荀昱)は、おなじく県獄に繋がれた。ときに年初だ。荀翊は、杯をひいて言った。「朝廷を正そう。小さなことから起とう」と。李膺は、荀翊に言った。「死をにくむのが、人間の感情だ。なぜ荀翊は、死をおそれないか」と。荀翊は言った。「仁を求めて、仁を得る。なにが恨めしいか」と。李膺は「漢室は、滅亡するなあ。漢室は、善人をおおく殺す」と歎じた。
ぼくは思う。荀攸は、党錮の被害を、ド真ん中で受けた家に生まれた。
荀攸の父は、荀彝。州從事となる。荀彝は、荀彧の從祖兄弟である。
荀攸は、おさなくして父を失う。祖父の荀曇が死んだ。
故吏の張権は、荀曇を墓守した。荀攸は13歳だ。叔父の荀衢に言った。「祖父の故吏・張權は、ふつうでない。悪いことを企む」と。はたして張権は、殺人して亡命してた。荀攸は、評価された。
『魏書』はいう。荀攸が7、8歳のとき、荀衢に耳を傷つけられた。荀攸は、これをかくした。『荀氏家伝』はいう。荀衢の子は、荀祈。あざなは伯旗。族父の荀愔とともに、名を知られた。荀祈と孔融は、肉刑を論じた。荀愔と孔融は、聖人の優劣を論じた。どちらも『孔融集』にある。
荀愔や荀祈らの扱いと、荀攸の扱いが、ちがう気がする。なぜ荀攸だけ、曹操に大切にされたのだろう。荀彧との血縁という点では、条件はおなじだ。
荀祈は、濟陰太守までなる。荀愔はのちに有道の科目に徵された。丞相祭酒にまでなる。
何進の黄門侍郎となり、董卓を殺したい
魏書雲攸使人說卓得免,與此不同。
何進が秉政した。海内の名士を徵した。荀攸ら20余人が徵された。荀攸は、黃門侍郎となる。
袁紹を挙兵させ、董卓軍を統べた鄭泰
董卓が乱し、関東が起兵した。董卓は、長安にうつる。荀攸と、議郎の鄭泰、何顒、侍中の种輯、越騎校尉の伍瓊らは、謀った。
荀攸らは言った。「董卓を殺そう。殽山、函谷関をたよりに、天下に号令しよう。桓公や文公をやろう」と。バレた。何顒や荀攸は、獄につながれた。何顒は、憂懼して自殺した。荀攸は、いつもどおり飲食した。たまたま董卓が死に、荀攸は免れた。
『魏書』はいう。荀攸は、人をやって董卓を説得した。ゆるされた。陳寿『三国志』と、王沈『魏書』は、おなじでない。
『後漢書』何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏か
いま、裴注の順序を、変えてます。何顒の話を、つぎに抜粋。盧弼の注釈ですが、地の文として書きます。
何顒への盧弼注:何顒は董卓暗殺を計画せず
何顒のことは、武帝紀の巻初にある。
『資治通鑑』の献帝・初平三年(192)はいう。はじめ黄門侍郎の荀攸、尚書の鄭泰、侍中の种輯らだ。荀攸は投獄されても、平気だった。鄭泰は、袁術のところに逃げた。董卓が死に、荀攸はまぬがれた。
『通鑑考異』はいう。『三国志』では、荀攸、何顒、伍瓊は、ともに謀った。何顒、伍瓊は、すでに死んで久しい。荀攸とともに謀ったのは、誤りである。
盧弼は考える。『後漢書』鄭泰伝はいう。鄭泰は、はじめ尚書侍郎となった。のちに議郎となる。『三国志』は議郎という。『後漢書』鄭泰伝にも、何顒、荀彧とともに董卓を殺そうとしたとある。鄭泰は、武関からにげて、袁術をたよった。袁術は、鄭泰を揚州刺史にした。刺史になる前に、鄭泰は死んだ。
『後漢書』何顒伝はいう。董卓が、政権をとる。司空の荀爽、司徒の王允らと、董卓を殺そうとした。たまたま荀爽が死んだ。何顒らは、他事にかこつけ、董卓につながれた。何顒は、憂憤して死んだ。
黄山はいう。『後漢書』鄭泰伝はいう。何顒は、鄭泰とともに捕われた。党錮伝とちがう。『後漢紀』や『三国志』ともちがう。『後漢書』荀淑伝、王允伝のあいだでは、ちがわない。党錮伝はいう。何顒は、荀爽、王允とともに謀った。『後漢紀』はいう。荀攸、鄭泰、种輯が、ともに謀った。『三国志』はさらに、伍瓊がともに謀った。
『後漢書』王允伝で、王允とともに謀ったのは、わずかに黄琬、鄭泰だけ。ただ、荀淑伝で、荀淑とともに謀ったのは、党錮伝とおなじだ。
党錮伝は、何顒が他事で捕われ、董卓につながれ、憂憤して死んだ。鄭泰伝では、董卓を殺そうとしたが、もれて、何顒らが捕われた。捕われたのは、何顒だけでない。しかし『後漢紀』では、何顒、荀攸は、おなじく獄につながれた。何顒は、憂懼して自殺した。
『三国志』荀攸伝で、荀攸は何顒とともにつながれた。何顒は自殺したが、荀攸はいつもどおり飲食した。董卓が死んだので、荀攸は免れた。『三国志』によれば、荀攸がつながれたのは他の史料と同じだが、何顒の死因が自殺という点が、他の史料と違う。
盧弼が思うに、何顒は自殺したのでなく、罪によって殺された。董卓は何顒より前に、伍瓊、周毖、李旻、張温、伍孚を殺した。何顒が董卓を殺そうとしたという計画を知れば、董卓は何顒を殺しただろう。下獄せず、ただちに殺したはずだ。かんたんに分かることだ。
何顒が獄死なら、何顒とともに董卓を殺そうと計画した人も、死ぬはずである。しかし、鄭泰は逃げた。王允、黄琬は、殺されず禍いなし。つまり何顒は、董卓を殺す以外の罪で捕まった。董卓を殺す計画は、もれなかった。もし、もれたら、鄭泰らも董卓に殺されたはずだ。
董卓は志を得て、朝廷の人士を殺した。人士は、汲汲とした。董卓を殺したい人士は、多かった。『資治通鑑』は、荀爽の謀略と、何顒の死を載せない。
姜シン英はいう。荀爽は、必ずしも董卓を殺す謀略がなかった。だから『通鑑考異』は、荀爽の謀略を記さないと言った。何顒の死も、董卓を殺す謀略が原因でない。『後漢書』が記す謀略のほうが、誤りなのだ。
次回、袁術が何顒を殺すと言います。すでに、荀攸伝なのか、何顒伝なのか、よく分からなくなっています。つづく。