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第1回 洛陽・南陽・淮南で勢力を築く

昨日つくった、以下の記事が面白かったので(自分が)、その姉妹品。
陳寿『三国志』袁紹伝と、范曄『後漢書』袁紹伝を照合する

洛陽・南陽の時代

『陳志』袁術伝と、『范書』袁術伝を比較します。はじめから『范書』のほうが記述が多いので、そちらを軸に、

袁術字公路,汝南汝陽人,司空逢之子也。少以俠氣聞,數與諸公子飛鷹走狗,後頗折節。舉孝廉,累遷至河南尹、虎賁中郎將。

『陳志』は「袁紹の従弟」と書くが、范曄は諸説あるから黙った。三公の子弟と「飛鷹走狗」したこと、「折節」したことは『陳志』にない。
官歴は、『陳志』のほうが多くて、「舉孝廉除郎中、歷職內外、後爲折衝校尉・虎賁中郎將」と。郎中・折衝校尉がおおい。逆に『范書』は河南尹がおおい。
虎賁中郎将に落ち着き、霊帝末を迎える。

西園八校尉ではないが、霊帝の直属軍の将校のひとりか。


『范書』のほうが記述が多いので、

時董卓將欲廢立,以術為後將軍。術畏卓之禍,出奔南陽。會長沙太守孫堅殺南陽太守張咨,引兵從術。劉表上術為南陽太守,術又表堅領豫州刺史,使率荊、豫之卒,擊破董卓於陽人。

のちに対立する劉表が袁術を南陽太守に上表したことは、『陳志』では読むことができない。というか『陳志』では、袁術は南陽太守とも書かれない。
孫堅が荊州・豫州の兵をひきい、董卓を陽人で破るのは、『陳志』では孫堅伝に。

李賢注が張咨を説明しているが、

英雄記曰:「咨字子議,潁川人。」
呉歴曰:「孫堅至南陽,咨不給軍糧,又不肯見。堅欲進兵,恐為後害,乃詐得急疾,舉軍震惶,迎呼巫醫,禱祀山川,遣所親人說咨,言病困欲以兵付咨。咨聞之,心利其兵,即將步騎五六百人入營看堅。堅與相見,無何,卒然而起,案劒罵咨,遂執斬之。」

『陳志』では孫堅伝などで消化している。

袁紹・袁術の対立が、いかにして始まるかは、范曄が、陳寿・裴注を見ながら整理してくれた感があって、もはや「先行研究」の領域。陳寿が「既與紹有隙、又與劉表不平」と片づけてしまうが、『范書』では、

術從兄紹因堅討卓未反,遠,遣其將會稽周昕奪堅豫州。術怒,擊昕走之。
紹議欲立劉虞為帝,術好放縱,憚立長君,託以公義不肯同,積此釁隙遂成。乃各外交黨援,以相圖謀,術結公孫瓚,而紹連劉表。豪桀多附於紹,術怒曰:「羣豎不吾從,而從吾家奴乎!」又與公孫瓚書,云紹非袁氏子,紹聞大怒。

従兄の袁紹は、孫堅が董卓を討って(本拠地の豫州に)帰る前に、会稽の周昕に豫州を奪わせた。袁術は怒り、周昕を撃って走らせた。
袁紹が劉虞を立てようとすると、袁術は「放縦を好み、長君を立てんこと憚り」反対する。サトリの化物のような心理描写は、『陳志』公孫瓚伝にひく『呉書』の「術陰有不臣之心、不利國家有長主」のアレンジ。「公義に託け」も出典は同じ。
こうして、袁術・公孫瓚と、袁紹・劉表の同盟ができるが、これは『陳志』も同じ。
范曄は、袁術が公孫瓚に書簡を送り、「袁紹は袁氏ではない」と述べて袁紹を怒らせたとか、『陳志』の要約である。

公義に託けて、劉虞の奉戴に反対するのは、裴注『呉書』で、

時議者以靈帝失道、使天下叛亂、少帝幼弱、爲賊臣所立、又不識母氏所出。幽州牧劉虞宿有德望、紹等欲立之以安當時、使人報術。術觀漢室衰陵、陰懷異志、故外託公義以拒紹。
紹復與術書曰「前與韓文節共建永世之道、欲海內見再興之主。今西名有幼君、無血脉之屬、公卿以下皆媚事卓、安可復信!但當使兵往屯關要、皆自蹙死于西。東立聖君、太平可冀、如何有疑!又室家見戮、不念子胥、可復北面乎?違天不祥、願詳思之。」
術答曰「聖主聰叡、有周成之質。賊卓因危亂之際、威服百寮、此乃漢家小厄之會。亂尚未厭、復欲興之。乃云今主『無血脉之屬』、豈不誣乎!先人以來、奕世相承、忠義爲先。太傅公仁慈惻隱、雖知賊卓必爲禍害、以信徇義、不忍去也。門戶滅絕、死亡流漫、幸蒙遠近來相赴助、不因此時上討國賊、下刷家恥、而圖於此、非所聞也。又曰『室家見戮、可復北面』、此卓所爲、豈國家哉?君命、天也、天不可讎、況非君命乎!慺慺赤心、志在滅卓、不識其他。」

このあたりは范曄が細かく引用しなかった。

南陽にいたときの悪政は、『范書』で、

初,術在南陽,戶口尚數十百萬,而不修法度,以鈔掠為資,奢恣無猒,百姓患之。

とある。陳寿が戸数を「数百万」とするから、合理性を重視しての下方修正か。袁術のやったことは、「術奢淫肆欲、徵斂無度、百姓苦之」と、微妙に違う。
陳寿は、袁術の個人が浪費・徴税をしまくって、百姓を苦しめたとする。范曄は、法度を修めず、財産を掠め、浪費しまくったから……同じでしたw

陳寿は時系列を重視して、揚州に移る前(まだ南陽にいるころ)にこれを置く。だが范曄は、これを袁術が揚州に入った後に置く。「初め」南陽で荒淫し、「また少きより讖書『当塗高』を見て」革命の野心を持った……と、袁術を論評しつつ、革命の伏線として、南陽における悪政を使っている
范曄のこじつけである。悪政と革命は関係ない。陳寿のほうが優れている。

南陽から淮南へ

『范書』は丁寧(というか陳寿が手を抜きすぎ)だから、『范書』より、

初平三年,術遣孫堅擊劉表於襄陽,堅戰死。公孫瓚使劉備與術合謀共逼紹,紹與曹操會擊,皆破之。
四年,術引軍入陳留,屯封丘。黑山餘賊及匈奴於扶羅等佐術,與曹操戰於匡亭,大敗。術退保雍丘,又將其餘眾奔九江,殺楊州刺史陳溫而自領之,

『陳志』が「引軍入陳留、太祖與紹合擊大破術軍。術以餘衆奔九江、殺揚州刺史陳溫、領其州」としか書いておらず、少ないのは、同じ事件を武帝紀で既述だから。この部分、『陳志』のほうが詳しいのは、北上した袁術を、袁紹・曹操が連合して撃ったことくらい。
袁術が殺した揚州刺史は、范曄が陳寿を踏襲して「陳温」とするが、裴注は『英雄記』に基づいて「陳瑀」ではないかと問う。

臣松之案英雄記「陳溫字元悌、汝南人。先爲揚州刺史、自病死。袁紹遣袁遺領州、敗散、奔沛國、爲兵所殺。袁術更用陳瑀爲揚州。瑀字公瑋、下邳人。瑀既領州、而術敗于封丘、南向壽春、瑀拒術不納。術退保陰陵、更合軍攻瑀、瑀懼走歸下邳。」如此、則溫不爲術所殺、與本傳不同。

しかし范曄は、裴松之の疑問をスルーして、陳寿のママ。

『陳志』では、揚州に入った袁術が、

以張勳、橋蕤等爲大將軍。

という人事をやるが、『范書』はスルー。『范書』は、建安二年、曹操との戦いを「術大怒,遣其將張勳、橋蕤攻布,大敗而還」と書いて、「其の将たる張勲・橋蕤」と地の文に吸収してしまう。

淮南で政権を築いた袁術を、『陳志』は、

李傕入長安、欲結術爲援。以術爲左將軍、封陽翟侯、假節。遣太傅馬日磾、因循行拜授。術奪日磾節、拘留不遣。

とする。『范書』は、揚州刺史を「自ら領し」た上で、「又兼稱徐州伯」と、徐州伯をプラスする。

『陳志』孫権伝にひく『江表伝』で「九州伯」がある。

『范書』は馬日磾を記さないが、別の列伝で既述だからか。
裴注で、馬日磾の情報を載せる。

三輔決錄注曰。日磾字翁叔、馬融之族子。少傳融業、以才學進。與楊彪、盧植、蔡邕等典校中書、歷位九卿、遂登台輔。
獻帝春秋曰。術從日磾借節觀之、因奪不還、備軍中千餘人、使促辟之。日磾謂術曰「卿家先世諸公、辟士云何、而言促之、謂公府掾可劫得乎!」從術求去、而術留之不遣。既以失節屈辱、憂恚而死。


◆下邳陳氏のこと
袁術が陳珪と対立する。『陳志』にだけ見える。

時、沛相、下邳陳珪。故太尉球弟子也。術、與珪俱公族子孫、少共交游。書與珪曰「昔秦失其政、天下羣雄爭而取之。兼智勇者、卒受其歸。今世事紛擾、復有瓦解之勢矣。誠英乂有爲之時也。與足下舊交、豈肯左右之乎?若集大事、子實爲吾心膂」珪中子應、時在下邳。術並脅質應、圖必致珪。珪答書曰「昔秦末世、肆暴恣情、虐流天下、毒被生民。下、不堪命、故遂土崩。今雖季世、未有亡秦苛暴之亂也。曹將軍神武應期、興復典刑、將撥平凶慝、清定海內、信有徵矣。以爲、足下當勠力同心、匡翼漢室。而陰謀不軌、以身試禍、豈不痛哉!若迷而知反、尚可以免。吾備舊知、故陳至情。雖逆于耳、骨肉之惠也。欲吾營私阿附、有犯死不能也。」

これが『陳志』袁術伝である。
『范書』列伝四十六 陳球伝に、陳珪の記述がついているが、ここまでは詳しくない。参考までに、『范書』陳球伝とその李賢注を引いておく。

『范書』:子瑀,吳郡太守;瑀弟琮,汝陰太守;弟子珪,沛相;珪子登,廣陵太守:並知名。
同注引:謝承書曰:「瑀舉孝廉,辟公府,洛陽市長;後辟太尉府,未到。永漢元年,就拜議郎,遷吳郡太守,不之官。球(兄)〔弟〕子珪,字漢瑜。舉孝廉,劇令,去官;舉茂才,濟北相。/珪子登,字元龍。學通今古,處身循禮,非法不行,性兼文武,有雄姿異略,一領廣陵太守。」/魏志曰,登在廣陵,有威名,有功加伏波將軍,年三十九卒。後許汜與劉備並在荊州牧劉表坐,備共論天下人,汜曰:「陳元龍淮海之士,豪氣不除。」備問汜曰:「君言豪,寧有事邪?」汜曰:「昔遭亂過下邳,見元龍無客主之意,不相與語,自上大牀臥,使客臥下牀。」備曰:「君有國士之名。今天下大亂,帝王失所,君須憂國忘家,有救世之意。乃求田問舍,言無可采,是元龍所諱也,何緣當與君語?如我自臥百尺樓上,臥君於地下,何但上下牀之閒哉!」表大笑也。

すれちがっている。下邳陳氏は、記述が散って迷惑である。

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第2回 皇帝になり、敗戦・飢饉で滅びる

興平二年、袁術が即位を検討

『陳志』によると、袁術は、興平二年の冬に、献帝が曹陽で李傕に敗れて、初めて皇帝即位を検討する。しかし『范書』は、やや前倒しにする。

又少見識書,言「代漢者當塗高」,自云名字應之。又以袁氏出陳為舜後,以黃代赤,德運之次,遂有僭逆之謀。又聞孫堅得傳國璽,遂拘堅妻奪之。

范曄によれば、袁術は若きときから「当塗高」ってオレのことだと妄想していた。舜の後裔だとか、このあたりの話は、裴注『典略』を、范曄が組み込んだもの。

典略曰。術以袁姓出陳、陳、舜之後、以土承火、得應運之次。又見讖文云「代漢者、當塗高也。」自以名字當之、乃建號稱仲氏。


興平二年、ついに即位に言及するシーンにおいて、范曄は『陳志』を焼き直しただけなので、『陳志』をひく。

興平二年冬、天子敗於曹陽。術會羣下謂曰「今劉氏微弱、海內鼎沸。吾家四世公輔、百姓所歸。欲應天順民、於諸君意如何?」衆莫敢對。主簿閻象進曰「昔周、自后稷至于文王、積德累功。三分天下有其二、猶服事殷。明公雖奕世克昌、未若有周之盛。漢室雖微、未若殷紂之暴也」術、嘿然不悅。


つづけて『范書』は、張範・張承の話を載せる。

使召張範。範辭疾,遣弟承往應之。術問曰:「昔周室陵遟,則有桓文之霸;秦失其政,漢接而用之。今孤以土地之廣,士人之眾,欲徼福於齊桓,擬迹於高祖,可乎?」承對曰:「在德不在眾。苟能用德以同天下之欲,雖云匹夫,霸王可也。若陵僭無度,干時而動,眾之所弃,誰能興之!」術不說。

これは、『陳志』巻十一 張範伝の焼き直し。『陳志』で散らかった袁術に関する記述を、並べ直したところが、范曄の功績である。


袁術の即位に反対したものとして、孫策が『范書』に登場。

自孫堅死,子策復領其部曲,術遣擊楊州刺史劉繇,破之,策因據江東。策聞術將欲僭號,與書諫曰:「董卓無道,陵虐王室,禍加太后,暴及弘農,天子播越,宮廟焚毀,是以豪桀發憤,沛然俱起。……」術不納,策遂絕之。

孫策伝にひく『呉録』で、孫策が張紘に書かせたという文書の焼き直し。『呉録』のほうが原典に近かろうから、そちらを読むべし。

袁術が皇帝に即位する

建安二年,因河內張炯符命,遂果僭號,自稱「仲家」。以九江太守為淮南尹,置公卿百官,郊祀天地。

この『范書』では「郊祀天地」で、『陳志』は「祠南北郊」です。

『范書』は、即位後の戦況をまとめる。

乃遣使以竊號告呂布,并為子娉布女。布執術使送許。術大怒,遣其將張勳、橋蕤攻布,大敗而還。術又率兵擊陳國,誘殺其王寵及相駱俊,曹操乃自征之。術聞大駭,即走度淮,留張勳、橋蕤於蘄陽,以拒操。〔操〕擊破斬蕤,而勳退走。

このあたりは『陳志』では、武帝紀・呂布伝などで消化した。
張勲・橋蕤が留まった蘄陽は、李賢注あり。

水經曰:「蘄水出江夏蘄春縣北山。」酈元注云:「即蘄山也。西南流經蘄山,又南對蘄陽,注于大江,亦謂之蘄陽口。」


ここで『范書』にしかない話。

時舒仲應為術沛相,術以米十萬斛與為軍糧,仲應悉散以給飢民。術聞怒,陳兵將斬之。仲應曰:「知當必死,故為之耳。寧可以一人之命,救百姓於塗炭。」術下馬牽之曰:「仲應,足下獨欲享天下重名,不與吾共之邪?」

袁術から沛相に任じられた舒仲応は、袁術のための兵糧を飢民に与えてしまった。袁術政権が、兵糧どころか、平時の食糧すら足りなかったことが分かる。

政権の末期症状として、裴注『九州春秋』が載せる馮方の娘のトラブルは、范曄が省略する。裴注を引いておく。

九州春秋曰。司隸馮方女、國色也、避亂揚州、術登城見而悅之、遂納焉、甚愛幸。諸婦害其寵、語之曰「將軍貴人有志節、當時時涕泣憂愁、必長見敬重。」馮氏以爲然、後見術輒垂涕、術以有心志、益哀之。諸婦人因共絞殺、懸之廁梁、術誠以爲不得志而死、乃厚加殯斂。


寿春を放棄する

『范書』:術兵弱,大將死,眾情離叛。加天旱歲荒,士民凍餒,江、淮閒相食殆盡。……術雖矜名尚奇,而天性驕肆,尊己陵物。及竊偽號,淫侈滋甚,媵御數百,無不兼羅紈,厭粱肉,自下飢困,莫之簡卹。於是資實空盡,不能自立。

『陳志』:荒侈滋甚、後宮數百皆服綺縠、餘粱肉。而士卒凍餒、江淮閒空盡、人民相食。術、前爲呂布所破、後爲太祖所敗。

袁術が衰弱した要因が、ふたつ提示される。『范書』のほうが丁寧。
①袁術の兵が弱いこと。具体的には曹操軍に惨敗すること(范曄は、張勲・橋蕤の敗北に「兵は弱く、大将は死し」と繋ぎ、描写と論評がシームレス)
②天候不順のために食糧が続かないこと

ついに寿春を放棄して、陳蘭・雷薄を頼るのは『范書』に詳しく、『陳志』を完全にカバーする。

『范書』:四年夏,乃燒宮室,奔其部曲陳簡、雷薄於□山。復為簡等所拒,遂大困窮,士卒散走。憂懣不知所為,


袁術が袁紹に帝号を贈ろうとする『范書』の描写は、裴注『魏書』が出典なので、『魏書』を引いておく。

魏書曰。術歸帝號于紹曰「漢之失天下久矣、天子提挈、政在家門、豪雄角逐、分裂疆宇、此與周之末年七國分勢無異、卒彊者兼之耳。加袁氏受命當王、符瑞炳然。今君擁有四州、民戶百萬、以彊則無與比大、論德則無與比高。曹操欲扶衰拯弱、安能續絕命救已滅乎?」紹陰然之。

陳寿はこれを「將歸帝號於紹」と要約しており、ダメ。

袁術の死

袁術の最期についても、やはり『范書』のほうが詳しくて、

術因欲北至青州從袁譚,曹操使劉備徼之,不得過,復走還壽春。六月,至江亭。坐簀牀而歎曰:「袁術乃至是乎!」因憤慨結病,歐血死。

年月を補うのが、范曄の立派なところ。『范書』献帝紀および『後漢紀』という、年表の代わりになる史料があるから、それを駆使することができる。

裴注『呉書』は、おもしろおかしい。

吳書曰。術既爲雷薄等所拒、留住三日、士衆絕糧、乃還至江亭、去壽春八十里。問廚下、尚有麥屑三十斛。時盛暑、欲得蜜漿、又無蜜。坐櫺牀上、歎息良久、乃大咤曰「袁術至于此乎!」因頓伏牀下、嘔血斗餘而死。

小説くさい部分を、范曄がこそぎ落として、列伝を書いたのだろう。

列伝の最後は、『陳志』のほうが詳しくて、

妻子、依術故吏廬江太守劉勳。孫策破勳、復見收視。術女入孫權宮。子燿、拜郎中。燿女、又配於權子奮。

范曄は、袁燿の娘が、孫権の子・孫奮と結婚したことを省く。もう後漢代ではないから、カバーするのを辞めたのだろう。

『陳志』袁術伝と、『范書』袁術伝は、それぞれ紀伝体の構成の都合により、他の列伝と既述を奪いあっており、一対一で比較することが難しかった。151231

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