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(C)2007-2009 ひろお
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三国時代は分裂期ではない 1)後漢は地方政権だ
◆結論
三国時代は、「国が3つに分かれた時代」だと捉えられる。しかしこれは、歴史書が作り出したフィクションだ。じゃあ実際はどう捉えるのが正しいかというと、「国がたった3つにまとまった時代」だ。

◆後漢のウソ
1つの後漢が、魏呉蜀の3つに分かれた。これが三国ファンの世論で、ぼくが出した結論とは違う。しかしこれはウソなのだ。
なぜ後漢が統一王朝だと思うか。それは『後漢書』があるから。ただそれだけの理由ではないか。正史(断代史)として、この歴史書が伝わっているから、三国ファンは惑わされているだけだ。
ぼくは、なぜ三国時代が始まったかという問題意識のもと、『後漢書』の本紀を読んでいます。外戚が何をした、宦官が何をした、桓帝や霊帝がどうだった、などに原因を求めたが、『三国志』の基点は、洛陽に見つからなかった。

その代わりに目に付くのが、頻発する叛乱だ。
「敦煌との交通が断絶した」とか、それほど遠方のことならば、国家の外縁の騒動だと言えましょう。だが、そうではない。一般に国内と言われている地域で、しょっちゅう叛乱が置き、なかなか収拾が付かない。
幽州、涼州、并州あたりは異民族が頻繁に入り、旧都のある三輔あたりですら、確保がままならん。揚州は未開の地で、荊州の中南部や徐州がフロンティアだ。青州にも、ろくに威令が届いていない。
後漢はその実、とても小さな王朝だ。首都の洛陽、皇帝の故郷の荊州北部、豫州と兗州と冀州くらいしか、安定的に支配できていない。
いちおうそれ以外の地域にも太守や将軍を派遣し、何代もかけて鎮圧した。「賊」の側が、組織的に権力を継承するに至っていないから、「新しい国」と歴史書に認定されない。すなわち、後漢の統一が続いているように見えるのだ。
だがとっくに分裂していた。三国の前段階となる統一王朝なんて、はじめからなかった。問題設定が間違っていれば、答えは出ない。「なぜ三国に分裂したか」の答えは、絶対に出ない。

◆前漢幻想
後漢が統一王朝という幻想を植え付けることに成功したのは、「前漢を引き継いだ王朝」という主張を使ったからだ。
例えば前漢の武帝のときは、国勢が盛んで、ぼくたちが一般にイメージする統一王朝とイコールの国だったのでしょう。
だがそれも一時的な奇跡でしかなくて。武帝の前の景帝のとき、呉楚七国の乱が起きた。これを鎮圧するまでは、漢帝国は長安を中心とした地方政権だった。
武帝以前には、統一王朝としての前漢なんてなかった。漢朝400年って何ですか、という話だ。
後漢は、劉秀が前漢を継いで「中興した」国だと言われている。だが少し距離を置いてみれば、前漢と後漢は全く別の王朝だ。
前漢は王莽に乗っ取られ、その後の戦乱で長安が焼け落ちてしまった。前漢は完全に滅びたのだ。
劉秀が赤眉以降に出てきて、たまたま戦闘に勝ち抜いたから、前漢を継いだ人としてのストーリを創作した。劉氏には違いないし、系図は明らかだが、それは劉秀が前漢を「中興」する必要条件であっても、充分条件にはほど遠い。もし本当に継ぐつもりなら、王莽が立てた前漢のラストエンペラー孺子嬰を殺したことを謝れよ(笑)
図讖を駆使して正当化したのは、後ろ暗いことがあるからでしょうが。後漢の正体を見たり、という感じだ。

もともと統一王朝としてそれほど歴史のない前漢が、短期間で完全に地上から消えた。その遺骨を拾ってきて振りかざした劉秀が、後漢を立てた。しかし統一王朝を築くのは難しく、中原の地方政権に終わった。
三国時代の前提はこんなものだ。
まだ曹操の魏の方が、後漢より版図が広くて、支配が密なんじゃないかとすら思える。
後漢の揚州は、寿春が州都だった。なら孫権が拠って立った場所は、後漢の外だ。後漢のとき成都は国の一部だったが、点として確保されていたに過ぎない。後漢を分割したのでなく、新たに蜀を国に仕立てたのは、劉備たちだ。もっとも国としては資源が足りず、三国で一番早くつぶれたが。
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このコンテンツの目次
三国時代は分裂期ではない
1)後漢は地方政権だ
2)治めやすい大きさ