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三国時代は分裂期ではない 2)治めやすい大きさ
前回は、後漢が魏より小さな地方政権に過ぎないこと、呉蜀は後漢を割いたのではなく、独自に国を始めたことを書きました。
「統一王朝に君臨する皇帝」というフィクションについて、秦に遡って考えて見ます。

◆秦のトリック
この暴露大会は、前漢よりもまだ遡れる。
始皇帝は、「皇帝」という概念を発明した偉人だ。彼の王朝が数代で終わってしまったことを、咎めることはしません。だがその実態は、戦国時代の諸侯を一時的に屈服させただけだ。
戦国時代の諸侯は、周王朝に基点を求める人たちだし、合従連衡をくり返すうちに決定的な感覚の対立を抱かなくなった。敵と味方、強と弱を一定周期で続けていくとき、ある瞬間に波長がピタリと合うことだってあろう。
例えるなら、ターミナル駅からは5つの方面へ電車が出ているとする。それぞれ独立したダイヤなのだが、1日に数回だけは、5本の電車が同時にターミナルを出発する。それくらいの偶然は起こるだろう。
しかし1度は同時に出発したからと行って、向う先は違うし、次の電車はやはりバラバラに出発する。
秦は郡県制を導入したというが、陳勝たちに叛乱されて、バラバラになってしまった。混乱の時代に台頭してきたのは、旧戦国時代の王侯の血縁だ。つまり、戦国時代は、地下に息を潜めて続いていた。ターミナル駅の電車が、めいめいに動くのと同じだ。

司馬遷が「項羽本紀」を立てたのは、一時でも項羽が政治をしたからだ。項羽がやったのは、諸国に王を封じることだ。戦国時代に「逆戻り」させたように見える。秦が短かったから、戦国の気風が生き残っていたのではない。あの広大な領土を、均質に治めるというのが、そもそも無理なのだ。自然に背くのだ。
劉邦だって、元の領土の漢中や、秦が元の領土とした関中を、郡県方式で直轄して治めることができた。だが中原には、王を封じて治めるしかなかった。いわゆる郡国制だ。
国を骨抜きにするのは、曾孫の武帝まで待たねばならなかった。
始皇帝も高帝(劉邦)もまた、三国を1つに合わせた領域に君臨する皇帝ではなかった。これは、三国ファンが見落としやすい点だと思う。

◆国土の大きさ
日本人にとってイメージできないのは、あれだけ広大な大陸を、交通や通信の未発達な時代に、どうやって皇帝が統一したかと言うことだ。そんなことできるのか?と純粋に分からん。
だが少なくとも後漢の段階までは、できていなかった。
中国大陸と日本列島が両方入った地図を見て、驚くことがある。日本が意外に大きいといことだ。
「日本は中国よりずっと小さい」
これは真実だ。
だが、日本が中国と比べてどれほど小さいかと言えば、規模が何百分の一というほどのことはない。せいぜい十分の一だ。(それでも大きな差だけど)
『蒼天航路』の巻末に、歴史の解説地図があって、同じ縮尺の四国が載っている。これを見ると、
「日本のなんと小さいことよ」
とため息を付きたくなる。だが四国は、日本地図の中で見ても小さいのだ(笑)日本の歴史を見渡したときに、四国だけで独立した国を営んだことはない。戦国大名のチョウソカベ氏がいるが、本州や九州に対して別の国を作ったかと言えば、そうじゃない。
大宰府から京都や奥州方面を、政治を張り巡らして治めるなら、後漢代の行政区分「州」の1つ強か2つ弱くらいに匹敵するだろう。面積としてもそうだし、治めるために必要な行政機構の量もそれくらいだ。

講談社の中国の歴史シリーズの春秋戦国の巻で、表紙裏に地図があり、考古学が明らかにした文化圏が書いてある。この文化圏の範囲に合わせて、春秋戦国の国が立ったという。この文化圏の1つの大きさが、人が国を作るときの標準サイズだろう。
日本が「万世一系」の国を作ってきたのは、国の標準サイズと、島嶼の面積がたまたま一致したからじゃないか。そう思えてくるほど、文化圏の大きさは握り心地がよい。

◆小結
魏は後漢よりも大きな国で、外征の意欲が盛んだった。南匈奴を解体したり、毌丘倹が高句麗を潰したりしている。
呉蜀は、それまでは中原との関係性がなかった地域に立ち、「鼎立」というパワーゲームに在地の住民を関与させた。蛮とか越とか羌のことを言っています。
三国時代は、後漢より果敢に、文化圏をまとめあげている。三国時代のあり方を「1つであるべきものが分裂した」と考えるのは違って、「3国によくまとまっている」「前代より、求心力がよほど強い」と捉えるのが正解じゃなかろうか。
三国時代を捉えなおす考察シリーズは、続きます。090523
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このコンテンツの目次
三国時代は分裂期ではない
1)後漢は地方政権だ
2)治めやすい大きさ