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『淮南子』の老荘と淮南三叛
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1)魏の貴公子は知っている
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金谷治『淮南子の思想 -老荘的世界-』を読みました。
今回の試みは、『三国志』よりは前の時代の古典について学び、『三国志』についての理解を深めようというものです。 コジツケっぽくもありますが、そうばかりではないと思います。『三国志』に登場する人は、三国時代以前の出来事を知っていたし、むしろ歴史として学ぶ対象が(期間も地域も)狭いだけに、ぼくたちより熱心に学び、詳しかったはずです。
『淮南子の思想』を通じ、『三国志』について発見したことから書き始めます。後ろ2回で本を要約して、発見の根拠を示します。
◆曹操と老荘思想
曹操は、後漢でひたすら信望された儒教を相対化した。よく、
「儒教に対抗するために、文学を確立した」
と言われるほどです。
だが、それだけじゃない。 そもそも儒教に対抗して成立した老子や荘子だって、曹魏のときに栄えた学問です。今日ぼくたちが読む『老子』のうち、最も優れた注釈は、魏の王弼が付したものらしい。
なぜ曹操が儒家と対立するかと言えば、曹操が統一政権を築き損ねたからだと思う。
「素行が悪くても、才能があれば用いる」
と、儒家が青ざめるようなことを高らかに宣言するのは、赤壁に敗れてから。
――赤壁敗戦で、人材不足を痛感したから、こう言った。
なんて書いてある本があるが、違う。すでに曹操の下に人材は充分だし、赤壁はほぼ戦ってないんだから、人材不足だと認識するキッカケにはならない。
◆漢を守った、儒教
儒教というのは、統一政権を力づける学問です。
「この王朝は天命を受けているから、永続すべきだ」
と、体制維持を支持するのが、儒教です。 儒教が官学化されたのは、前漢の武帝のとき。国教化されたのは、後漢の章帝のとき(という説をぼくは支持します)。いずれも王朝がピークで、現状をキープできたら素晴らしいなあ!と、宮殿の中側の人が思った時期だ。
結果から手繰れば、武帝や章帝のときに儒教をことさらに謳ったおかげで、以降の王朝の下り坂が緩やかになり、簡単に崩壊することが食い止められた。
既成の王朝には嬉しい儒学ですが、割拠政権に終わるリスクの出てきた曹操には、逆に疎ましい&怖ろしい思想です。王朝を護持してきた儒家にかかれば、
「中夏は統一されるべきだ。だが曹操は、統一できなかった。つまり有徳ではないんだから、退場すべきだ」
というロジックが成立してしまう。
対抗するために、
「この広い国土が、1つの王朝に統一されているなんて、むしろ不自然ではありませんか。人が賢しらに手を加えすぎた、おかしな状況ではありませんか」
と言うことができる、老荘を味方に付けたのだと、ぼくは思う。
◆魏の国勢と、儒教
曹操の孫・曹叡は、統一王朝の皇帝になりたかった人だ。
曹操も曹丕も、統一戦争をさんざんやったが、結果を残せなかった。ことに曹丕は、何回も孫呉を攻めて、成果ゼロのうちに死んだ。
曹叡は司馬懿を使いこなして、諸葛亮を焦らし殺し、公孫淵を討った。その後の歴史を知っているぼくたちは、曹叡の時代を、
「魏が大成長を遂げられるチャンス」
だとは思わないが、おそらく魏の朝廷に席があれば、そう思ったに違いない。
曹叡の治世の後半は、土木工事ばかりやっている。ただ贅沢に狂ったのではない。曹叡は統一王朝の皇帝として、不足なく天を祭る責務を感じていた。だから、やむを得ずに支出した。
呉蜀が残っているが、魏が台頭に張り合うべき相手ではなく、チラ見すれば充分な盗賊集団と変わりない。
統一を志向する曹叡は、儒教を重んじた。
◆老荘を語る連中
陳寿『三国志』の魏書に「諸葛誕伝」があります。
曰く、
諸葛誕は、夏侯玄や鄧颺と仲が良く、洛陽で人気があった。明帝(曹叡)に意見する人があった。
「諸葛誕や鄧颺らは、上っ面の華やかさばかり競い、虚名を集めています。免職になさいますように」
明帝(曹叡)は、諸葛誕を辞めさせた。
この時期、曹叡の大方針を理解しない洛陽の貴公子たちが、老荘思想に傾倒した。彼らは名臣の子弟なんだが、曹叡は「浮薄虚誉」として遠ざけた。
曹叡としては、
「三国時代なんて妄想だ。魏はすでに統一王朝だ。ふたたび儒学を味方につけ、魏を永続させよう」
と考えている。だが貴公子たちは、
「曹叡は呉蜀を軽視し過ぎだ。魏は統一王朝ではない」
と思っているから、分裂の時代に似合った老荘も好んだ。
◆拡散する魏王朝
曹叡が死に、曹芳が即位した。幼帝に求心力を持たせるには、儒教を使うしかない。少なくとも後漢は、それで成功した。
だが政権を担当した曹爽は、老荘な人と気が合ったので、高位高官を占めさせた。
曹爽を取り巻いたのは、老荘を研究した何晏。何晏と親しく付き合ったのは、夏侯玄であり、鄧颺です。彼らは諸葛誕に連なる人脈で、みな老荘に傾いています。
老荘な政権担当者とは、泳げない海女さんとか、金属アレルギーの板金屋とか、それぐらいおかしいが、魏の朝廷はそうなった。王朝の求心力はみるみる低下して、内側から崩壊するリスクも生じたはずだ。
「蜀も呉も手ごわいねえ。統一できなくても仕方ないね」
儒家から見たら、ひどい自棄とも感じられることを、曹爽はときどき放言していたんじゃないか。史書には見えないが。 曹爽は、いちど征蜀を失敗している。自己正当化するためにも、この思いは強まっただろう。 ぼくの感覚からしたら、あの広大な大陸に、皇帝が1人でなくちゃならんというのは、無理な思い込みだ。むしろ、
「皇帝を称する人が3人いても良いじゃん」
と、割り切っちゃうほうが、を老荘を持ち込むまでもなく、現実に適った考え方だと思う。ただし、それを許せないのが儒学の名士だ。
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このコンテンツの目次
『淮南子』の老荘と淮南三叛
1)魏の貴公子は知っている
2)「淮南」「老荘」「反中央」
3)『淮南子の思想』前半要約
4)『淮南子の思想』後半要約
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