| |
『淮南子』の老荘と淮南三叛
|
2)「淮南」「老荘」「反中央」
|
◆曹爽政権への不満
晋代に書かれた『三国志』には、曹爽政権が悪く書かれている。上辺だけ飾った連中が、利権だけをむさぼり、あとは趣味をして遊んでただけだと書いてある。
晋の司馬氏に敵対したから、過剰に貶められているはずだし、
「不正を働いて私服を肥やす」
というのは、腐った役人を描写するときの定型文だから、史書にあったとしても、話半分でよいでしょう。
実態はいかに。
きっと老荘を信じている人は、曹爽に登用されたものの、ろくに政治向きのことをしなかったんだろう。小難しい政治にチクチクと心を痛めるより、もっと楽しいことを彼らは知っていたからね。
◆晋が成立したわけ
統一志向の強かった曹丕・曹叡に死後を託されたのは、司馬懿。彼は代々、儒教の学者の家の人だから、統一論者だろう。 司馬懿はクーデターを起こして、曹爽に勝った。その卑怯なやり方を咎められなかったのは、
「老荘にハマって、ラリるのは個人の自由だが、政権を担当されては困る。中夏には1つの王朝が君臨し、秩序を保ってもらわないと」
という、世論があったからだろう。
司馬氏が曹爽の次に倒した次は、夏侯玄と張シュウだ。魏室の外戚だから殺された、謀議したから殺された、と言われるが、それだけではない。老荘を語る人だから、殺された。
「私たち司馬氏は、老荘にウツツを抜かし、政治改革や統一戦争を放棄するような奴らとは、違うんです」
という決意表明です。
強くなる司馬氏と距離を置いた人たちは、竹林の七賢だ。彼らが好んだのも、老荘思想。集権に反発するとき、人は老荘を友にする。
晋の建国を支えたのは、
「漢代のように、皇帝は1人であるべきだ。1つの国家を保つために、儒教が尊ばれるべきだ。しかるに魏は、割拠政権としての現状を、老荘思想によって肯定し、統一への意欲が薄まった。だめだ」
という意見だ。漢で発明された、儒教に基づく統治システムを、ふたたび機能させたいという思惑だ。
まあ、儒教を絶対の地位から引き降ろし、新しい国&新しい思想のあり方を模索したのは、初代の曹操だ。 魏は3代皇帝の曹芳のときに守りに入り、(漢代に定義された意味において)王朝としての機能を果たさなくなったが、元凶を始祖の曹操が作ったんだから、自業自得だねと受け流しましょうか。
◆淮南の三叛と、老荘
司馬氏の伸張を受けて、魏を守ろうというスローガンの元、3つの大きな叛乱があった。いずれも淮南で起きた。
集権された中央に反発するとき、その行動は淮南で行なわれる。3つの叛乱の最後を飾ったのは、過ぎし日に、老荘の徒と付き合いのあった諸葛誕でした。
「淮南」「老荘」「反中央」というキーワードが揃ったところで、金谷治『淮南子の思想 -老荘的世界-』の話をしていこうと思います。
◆この本について
金谷治『淮南子の思想 -老荘的世界-』は、著者が助教授のとき、夏休みに伊賀の田舎へリンゴ箱
いっぱいの本を送り、そこで書いたものらしい。初出は1959年。
とてもいい情景が浮かびます(笑)
この本を「講談社学術文庫」の1冊として、入手しやすい形で(と解説にある)刊行したのが、1992年。濃いブルーの表紙で、同サイズの文庫本より2倍弱くらいの値段がするシリーズが、どこまで「入手しやすい形」なのやら。電車の中で読んでいて、不覚にも笑った。
ともあれ、ぼくは、名古屋駅前のジュンク堂で「入手」した。
◆この本の概要
2部構成。
前半は淮南王(劉安)の伝記。 劉邦の孫として生まれ、淮南王に封じられた劉安は、戦国時代の流れを組む諸子百家のパトロンになった。 呉楚七国ノ乱をやり過ごした。武帝が皇帝権力を強化し、儒教一尊の色を強めると、淮南王は謀反の疑いをかけられ、自殺した。
後半は、『淮南子』の内容紹介。
思想研究では「雑家」に分類されるほど、たがいに矛盾する諸説が詰まっている。おそらく淮南王の複数の食客たち書いたものを、寄せ厚めたんだろう。このままでは書物として崩壊するが、「老荘」の思想によりつじつまが合わされ、あらゆる矛盾を飲み込み、見事に1つの著作物にまとめられた。
こうして『三国志』に見られたような、「淮南」「老荘」「反中央」のキーワードを結ぶ前例として、『淮南子』が浮かび上がってきたのです!
というのが、ぼくが今回書きたかったことです。
次回から、本の要約を読書メモとして残しておきます。
| |
|
|
このコンテンツの目次
『淮南子』の老荘と淮南三叛
1)魏の貴公子は知っている
2)「淮南」「老荘」「反中央」
3)『淮南子の思想』前半要約
4)『淮南子の思想』後半要約
|
|