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| 『淮南子』の老荘と淮南三叛 | 3)『淮南子の思想』前半要約 |  
| 『淮南子の思想』前半の要約です。 
 ◆劉安の父、劉長
 『淮南子』のパトロン・劉安の父は、劉長という。劉邦の子。
 劉長の出生は、不幸だ。
 漢が天下を統一して3年目の前199年。韓王信の叛乱を平定した劉邦は、趙国に立ち寄った。趙王の張敖は、劉邦の持ち前の口調で侮辱されたが、ちゃんと接待をした。
 趙王は、自分の側仕えの女から見繕って、劉邦に差し出した。この女が、劉長の母(劉安の祖母)となる。
 「やっぱり劉邦は、あまりに無礼だった」
 趙の重臣たちが、漢に謀反を企てた。発覚して、趙王は死に、幼い劉長を抱いた母も、捕らえられた。母は呂后を頼ったが、審食其に取り成してもらえなかった。母は、自殺した。
 2年後、まだ幼い劉長は、淮南王に封じられた。呂氏が専制すると、劉長は呂后の庇護を受けて育った。
 
 呂氏が誅され、代王・劉恒が即位した。文帝という。
 即位から3年目、劉長は文帝に挨拶をした。態度はとても不遜で、漢の法を無視した。文帝に向って、
 「大兄」
 と呼びかけた。たしかに劉長は文帝の弟だが、けじめが付かない。
 
 ◆劉長の増長
 劉長は任侠を好み、力が強かった。母を助けなかった審食其に、復讐するために生きた。
 ある日劉長は、審食其に面会して、母の仇を金槌で叩き殺した。劉長の従者は、審食其に馬乗りになって首をかき切った。
 劉長は、はだぬぎになって弁明した。
 「私の母は、趙王の事件に連座すべきではなかったのです。だが審食其は、母を助けなかった。たしかに私は列侯を殺したから、重罪です。しかし情状酌量をして下さい」
 文帝は、弟の劉長を大目に見た。
 
 劉長は淮南国に帰り、法令・人事・司法・服輿など、皇帝にしか許されないことを、勝手にやった。
 前174年、劉長は謀反を決行した。匈奴や南越に使者を出して、漢を転覆させる誘いをかけた。露見した。
 「劉長を死刑にせよ」
 と重臣たちが決めたが、文帝は、
 「彼は私の弟だ。庶民に落として、蜀郡に移せば充分だ」
 と助けてくれた。
 護送された劉長は、とても屈辱を感じた。
 「護送なんかされる私を、誰が勇者と呼んでくれようか。こんな目に遭う人生なら、もう要るものか」
 劉長はハンガーストライキをやり、そのまま餓死した。護送する人は、劉長の腕力を恐れて、車を開かずに南へ運んだ。
 これを聞いた文帝は、
 「弟をちょっと苦しめただけで、そのうち許すつもりだった。取り返しの付かないミスだ。弟が死んでも戸を開けなかった護送官を死罪にしろ」
 と命じた。
 
 ◆劉安の涙
 劉長の遺児たちは、身を捩って、
 「よくも父を辱めたな、、長安の皇帝を絶対に許さない」
 と骨髄に恨みを刻んだ。
 劉長は母を皇帝に殺され、劉長も皇帝に殺された。淮南王の家は、皇帝に代々の恨みを抱く家となった。
 劉長が死んでから10年目、子の劉安は、父が領した淮南国の3分の1を封じられた。このとき15歳。
 
 ◆好学の王
 劉安は、力強かった父と違い、文学愛好者だった。
 『漢書』には、
 ――賓客方術の士、数千人を招致した。
 と書かれている。
 ――劉安が遺した書物は、内書21篇、外書は数え切れないほど。中篇8巻があり、神仙・黄金白銀のことを記したものも20余万言。
 とあり、
 劉安がパトロンとなって、製作したものだ。
 
 劉安が40歳のとき、文帝の孫の武帝が即位した。
 武帝は、博識の諸父(従叔父)である劉安を尊重した。武帝は、劉安にテーマ作文をさせて、その完成度に驚いた。
 
 ◆淮南の謀反
 もと楚の地で、周に対抗した文化を持った。楚王は「われは蛮夷なり」と言い放った人もいた。楚の最後の都は、寿春だった。
 中央にとって難解な文化圏で、劉安は国を持ち、八公と呼ばれた食客を囲った。剣術の雷被、儒学の伍被、その他に方士も多数。方士たちは活発で、劉安が登仙したという伝説を作るのも彼ら。
 
 前122年、王侯たちは淮南王の謀反を評議した。
 「劉安は大逆無道で、謀反をしたことは明白です」
 劉安は、長安からの使者が到着する前に、首をかき切って自殺した。57歳だった。
 
 ◆原因は何か?
 謀反の背景を『漢書』は探す。
 かつて呉楚七国ノ乱のとき、劉安は挙兵するつもりだった。父を殺された恨みと、淮南国を分割された恨みがあったから。同じように分割された大国の斉も、7分の4ヶ国が挙兵した。
 劉安の宰相が、
 「どうしても挙兵なさるなら、私を将軍に任じて下さい。私が劉安さまの無念を、晴らして差し上げましょう」
 と申し出たから、劉安は喜んで兵を任せた。
 だが、
宰相は、挙兵するどころか、長安に味方して、呉楚の叛乱軍に備えた。おかげで淮南国は、取り潰されずに済んだ。
 謀反するはずだった劉安は、チャンスを逸した。
 
 こんな話もある。
 武帝が即位して、劉安は初めての挨拶に言った。武帝の側近が、わざわざ劉安を郊外で出迎えて、言った。
 「いま武帝には、太子がいません。劉安さまは、高祖皇帝の孫です。武帝に万が一のことがあれば、あなたが皇帝になりなさい」
 劉安はその気になり、金銭を郡国に撒いて、支持者を水面下に増やした。だが、武帝の姉の子が、淮南の太子妃に降嫁することになった。長安に、淮南の秘密が筒抜けになってしまう。
 劉安は、この嫁を追い返すべく、太子に命じた。
 「よいか、わが子よ。武帝の姪が輿入れしても、会ってはいかん。3ヶ月したら、私はお前を叱るだろう。これは演技だ。怒ったふりをして、同室で過ごすように命じる」
 「あとは普通の夫婦になれば宜しいですか」
 「ちがう。お前は、武帝の姪と、言葉を交わすな。そのうち武帝の姪は、イヤになって長安に帰るだろう」
 果たして、武帝の姪は長安に逃げ出した。
 
 とどめは、剣術の食客、雷被の密告だった。
 雷被は、淮南の太子と、剣術の稽古をした。手加減をしていたが、うっかり太子を叩いてしまった。
 「主人の子を殴るとは、何事か」
 雷被は追い詰められ、長安で淮南の本心を暴露した。
 朝廷には、審食其の孫がいた。審食其とは、劉安の父・劉長に金槌で殺された人だ。復讐の復讐の復讐を達成すべく、審食其の孫が動いた。劉安の謀反は決定的とされてしまった。
 
 ◆謀反の理解
 著者の金谷氏は、『漢書』が謀反の事実を伝えるのに熱心すぎると言い、それよりも劉安が外から追い込まれた事情に着目した。
 何となれば、
 文帝・景帝のときは、王は領土が広く、軍事はともかく、少なくとも経済上は完全な独立国だった。長安では、「黄老の術」と呼ぶ無為の政治、すなわち不干渉主義が取られた。休息の時期だった。
 だが、皇帝と諸王の対立は、建国以来の政治的矛盾として膨らんだ。
 「地方の王はスネのくせに、腰のように太い」
 と危機に感じたから、大国を分割し、力を削いだ。やがて呉楚で乱が起こり、淮南を追い込んだのだ、と。
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 | このコンテンツの目次 『淮南子』の老荘と淮南三叛
 1)魏の貴公子は知っている
 2)「淮南」「老荘」「反中央」
 3)『淮南子の思想』前半要約
 4)『淮南子の思想』後半要約
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