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東晋次『王莽』を読む 2)早すぎる絶頂と失脚
◆第3章 大司馬となる
王莽は、騎都尉になった。比二千石で、羽林騎を管理する。宮門や宮城を警護する役職が続くのは、外戚の一員の特徴だ。
やがて王莽は、大司馬となる。

外戚政治は、昭帝から宣帝のときの霍光から始まった。
霍光は、前漢の武帝に後事を託された人。
武帝は、皇帝権力を強め、宦官が務める中書だけでは、キャパが不足した。そこで尚書に機密書類をチェックさせ、取り次ぐかどうかを決めさせた。尚書は「内朝官」として、皇帝の秘書をした。
内朝の権限は、領尚書事のポストが握り、霍光に始まって外戚が就いた。領尚書事は、大司馬とセットで任されることが慣例化した。
王莽は、霍光の前例どおり昇進した。

王氏の外戚政治を、前もって概観する。
前33年に19歳の成帝が即位すると、王莽の伯父の王鳳は、大司馬・大将軍・領尚書事になった。
成帝は、 成帝1代のあいだに、王音、王商、王根、王莽が大司馬になった。成帝が死に、哀帝をはさみ、平帝が即位すると、元帝の皇后だった王氏(元后)が、臨朝体制をしいた。王莽は、大司馬・領尚書事になった。
後漢の外戚政治の、端が開かれた。

◆王氏への反感
話を戻す。 劉邦がした約束の中に、
「功績がない人を、列侯にするな」
というのがあるが、王氏がこれを破っていると非難された。王鳳が辞職を願い出たが、成帝が折れた。
前24年、日食があった。成帝は、
「王氏が陛下をないがしろにしているからだ。王鳳を罷免せよ」
という意見に、耳を傾けた。
これが王氏に漏れてしまい、元后はハンガーストライキした。実母に押し切られて、成帝がまた折れた。
王氏の権勢は決定的となった。巨万の富を得て、人事を操った。

あるとき成帝は、王氏の邸宅を訪問した。未央宮の白虎殿(皇帝の住居)そっくりの建物があった。成帝は激怒して、王氏を責めた。
王氏たちは、はじめに元后に謝ったから、成帝はますます怒った。王氏たちは死を覚悟したが、うやむやに終わった。

◆淳于長の獄死
淳于長は、元后の姉の子。だから、王莽の従兄だ。王鳳が病気になったとき、王莽とともに誠実に看病して名声を得た。
王鳳の死後、気が楽になった成帝は、遊び歩くようになった。淳于長は、お気に入りの連れだった。夜遊びで、成帝は趙氏という女性を気に入った。
「趙氏を皇后にしたいが、元后(実母)が家柄を理由に反対するのだ。何とかならないか」
と、成帝は淳于長に相談した。淳于長は、趙氏の立后を実現させた。成帝に恩を売ったのだ。
ときの大司馬・驃騎将軍の王根は、病気だった。淳于長は、
次の大司馬は、私ではないか」
と期待した。外戚の一族だから、権利がある。

王莽は、淳于長の不道徳な行いをチクって、失脚させた。淳于長に味方した別の王氏も、失脚した。
王莽は、大司馬の位を手に入れた。
オレサマが大司馬になりたくて、王莽はライバルを追い落としたのか。王氏そのものを保全するために、一族の汚点になりそうな人を告発したのか。王莽の人となりをどう捉えるかで、判定が変わる。
・・・そう仄めかすだけで、著者は結論を書いてくれない。

◆第4章 失意の日々
前7年、成帝が崩じて、哀帝が即位した。哀帝は成帝の甥で、王氏の血が入っていない。中山王だった。
王莽は大司馬を退こうとしたが、留められた。
哀帝の母は、傅氏という。未央宮で宴会したとき、元后と傅氏のシートが、すぐ隣に設定された。王莽は青筋を立てて、
「傅氏は藩妾(中山王の妻)である。なぜ至尊(元后)と並ぶのか」
と詰問した。
傅氏は怒って、王莽は罷免された。
哀帝は法家の色が強い性格で、皇帝権力を回復しようとした。系統としては、武帝や宣帝に通じる。
哀帝が王氏を弾圧したから、元后は、
「持っている土地は、墓地以外を貧民に分け与えるように」
と一族に命じた。他氏の大臣にも容赦がなく、目の仇にされた王氏は滅亡の可能性に怯えねばならなかった。

法家の哀帝は、儒家と対立した。
長安の南北郊での祭祀を辞めて、儒家官僚の神経を逆撫でした。中山王に過ぎなかった父に「恭皇」という、皇帝みたいな号を贈り、天子七廟制をややこしくした。哀帝は、母や祖母に尊号をつけていき、王氏を駆逐しようとした。『春秋』に、
「母は子を以て、貴たり」
と書いてある。枝分かれした藩国から当主が入ると、ややこしい。

前5年、王莽は長安を追放され、任国に下った。41歳の男盛りの失脚だ。
新都侯としての年収は、現代日本に換算すると、6000万円だそうだ。王莽は3年間、雌伏した。
田舎時代の出来事は、史料が少ない。
あるとき王莽の次男が、奴隷を殺した。罰則は不明だが、予め奴隷の非を告発してから殺せば、法的には問題がなかった。唐代には、労役1年が課せられる罪だ。
それほど重くない罪のはずだが、王莽は、次男を自殺させた。
子供を平気で殺した王莽の人格に問題があるのか。反対勢力に付け入る隙を与えず、王氏を守った苦肉の選択だったのか。

王莽は新都で、3人の侍女を愛した。4人の子を得たが、長安には連れて行かなかった。顔師古は、
「侍女が他の男と通じたかも知れず、我が子だと認知しなかった」
のが理由だと、推測した。

◆南陽豪族社会
このころ王莽は、孔休に嫌われた。
孔休は、南陽太守が王莽に付けてくれた役人だ。孔休に名声があったから、王莽は進んで話しかけた。
見舞いのお礼に、王莽は孔休に玉具や宝剣を贈った。孔休は受け取らなかった。王莽は、
「よく見ると、孔休さんの顔にはアザがある。美玉には、アザを消す効果があると聞いたから、持ってきたのです(やましい賄賂ではない)」
と言った。でも孔休は、要らんという。
「孔休さんは、この玉に値がつくのが気がかりなのか」
と言って、王莽は玉を砕いて、袋に入れて渡した。孔休は、やっと受け取ってくれた。
後日、別れの挨拶に行ったが、孔休は病気だと言って、王莽に会ってくれなかった。

孔休は、南陽郡の儒教の名家だ。王莽政権にくみせず、同じ南陽郡から出た光武帝に高く評価された。
王莽と孔休の対立は、感情の問題では片付かない。宇都宮清吉氏が論じたように、マルクス主義的に南陽郡の経過を読めば、対立が分かってくる。
南陽郡は、秦末に強制移民が送り込まれた、フロンティアだった。前漢のときの国境は、臨淮、沛郡、南陽、蜀郡の南側にあり、郡内では大土地開発が行なわれた。王莽と対立した豪族が、主体だ。
王莽が限田策に関わったから、利害が対立した。だから孔休は、王莽を嫌ったのである。(本当かなあ)
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このコンテンツの目次
東晋次『王莽』を読む
1)若き不遇は、誤差のうち
2)早すぎる絶頂と失脚
3)漢を再生する大改革
4)平帝を毒殺したか
5)王莽、「禅譲」される
6)高祖・劉邦を畏れる
7)王莽の伝記がない理由