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東晋次『王莽』を読む 3)漢を再生する大改革
◆第5章 京師への帰還
哀帝の母の傅氏は、驕慢になった。
元后を「ばばあ」と呼び、尊号をインフレさせた。だが哀帝は、握るところは握っていたので、傅氏の外戚権力は専権しなかった。

かわりに哀帝は、董賢を寵愛した。美貌だったから、哀帝と寝食をともにした。董賢は列侯に封じられ、22歳で大司馬になった。
哀帝と、威勢のよい董氏と、今では重職に就けない王氏が、宴会で同席した。哀帝はジョークめかせて、董賢に言った。
「尭をまねて、舜に禅譲しようと思うが、どうかな」
王氏が諌めた。
「天下は高祖皇帝(劉邦)の天下であって、陛下の私物ではありません。陛下には、天下を子孫に伝える義務があります。天子に、戯言は許されません」
哀帝はムカッとして、王氏を追い出した。

哀帝がこんなことを言い出したのは、天変地異や占いの結果、皇帝の体調などが、
「漢の命数が、そろそろ尽きそうだ」
というメッセージを伝えていたからだ。
元帝のころから災害が増え、成帝のころから大水が増えた。生活が苦しいから、叛乱も増えた。
前2年の元旦、日食が起きた。正月17日、哀帝の母の傅氏が崩じた。いよいよ哀帝にとって、不吉だ。
「王莽を呼び戻せ」
という声が高まった。男色のパートナーに過ぎない董賢に対抗して、きちんと政治ができる人が望まれた。王莽が、長安に戻った。

◆第6章 元后と共に
哀帝は前1年6月に、26歳で崩じた。
「哀帝、死す」
と聞いた元后は、ただちに未央宮に出向いて、哀帝が首から提げていた璽綬を入手した。元后は、董賢を呼び出して、
「陛下の葬儀を、段取りなさい」
と命じたが、董賢は、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
と頭を下げるだけ。仕方ないので、
「むかし王莽は、大司馬として成帝の大喪を仕切った経験があります。王莽は故事に詳しいから、彼に手伝わせましょう
と言い切った。
董賢は締め出され、冠を脱いで裸足になり、正門前で詫び続けるだけだった。王莽は兵権を握り、董賢を自殺させた。
王莽は猜疑心がつのって、
「董賢の棺を開け。本人だと確かめろ」
と命じた。
董賢の一族は財産を没収され、43億銭にもなった。
董賢の知人が、獄中から董賢の死体を引き取り、葬ってやろうとした。王莽は激怒し、その知人を殴り殺した。

王莽は、平帝を立てた。9歳である。
平帝の母系家族は、洛陽に入ることが許されなかった。哀帝の母の傅氏に、手を焼いたことを教訓にしたのだ。
「わが子に会いたい」
と、平帝の母は、日夜泣いた。
王莽は、嫌った人をとことん迫害した。
哀帝を居なかったことにして、亡き「先代」成帝の代理として、元后は詔を発行した。王莽は、元后に「白(もう)す」というスタイルを取りながら、自らの政策を実行した。

◆安漢公王莽
紀元後1年、益州から白雉が献上された。王莽は、周公旦と同じ構図で君主を助けていると、印象付けた。
王莽が漢の宗廟を安んじたから、「安漢公」を贈りたいと群臣が申し出た。王莽は断った。

ここからの応酬は、東氏曰く、 「王莽一流」「辞譲の精神による煩瑣な政治的手法」だ。王莽の断り口上は、
「平帝を即位させた4人を表彰すべきです。私のことは忘れて下さい」
だった。王莽がここで言った4人は、王莽に半ば命じられて、平帝を指名したのだが・・・
元后は、追って王莽に伝えた。
私(元后)と血縁があるから、安漢公をもらうことを、遠慮しているのですか。気にすることはありませんよ」
「いいえ、それが理由ではありません」
王莽は、辞退した。元后が呼び出すと、
「病気なので、出かけられません」
と王莽は断った。
仕方ないので、王莽が名前を言った4人を、まず表彰した。次に王莽を表彰しようとしたが、また辞退した。
元后は痺れを切らし、「安漢公」を王莽に押し付けた。
それに対して王莽は、
「称号を受けることは、承知しました。しかし封邑は要りません。民が豊かになったら、改めて賞してもらいたい」
と注文を付けた。
「そんな変則は、認められません」
群臣が困った。元后は已むなく、
「封邑は除きましょう。しかし皇帝から賜う金銭や舎人の人数は、はじめの2倍にして、バランスを取りましょう。この妥協案でどうですか」
と聞いたが、また王莽は辞退。。
「私は、余計な金銭は要りません。諸侯王や功臣の子孫を侯に封じ、民に施しをして下さい。皇帝の恩恵が、行き渡らぬことのないように」
・・・めんどくさ!

東氏の分析。
現代人からのみならず、同時代人から見ても、王莽の行動は特異だっただろう。王莽は前半生で、謙譲の美徳を学んだから、それを知恵として使った。また「政治の刷新」という主観的真意も、この作法に含まれているだろう、とのこと。

◆四輔制と三公制
紀元後1年、王莽は四輔制度を作った。
武帝以降、儒教の教説に基づいた官職のデザインが望まれた。
前漢は秦の官制を継いでいたが、秦は法家の国だから、儒教官僚の好みに合わない。そのニーズに答え、王莽が仕上げたのが、この四輔制度だった。
古代存在したとされる「太師」「太傅」「太保」「少傅」を、三公の上に置いた。王莽は三公の1つ、大司馬でありながら、四輔制度を主催した。もはや、何でもできる立場だ。

王莽は爵位をバラ撒き、漢復興への協力を呼びかけた。イナゴに困らされると、「イナゴを買い取る」という政策を打って、退治に国家的に取り組んだ。周公にならって、「制礼作楽」を整理した。学校制度を作った。
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このコンテンツの目次
東晋次『王莽』を読む
1)若き不遇は、誤差のうち
2)早すぎる絶頂と失脚
3)漢を再生する大改革
4)平帝を毒殺したか
5)王莽、「禅譲」される
6)高祖・劉邦を畏れる
7)王莽の伝記がない理由