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東晋次『王莽』を読む
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4)平帝を毒殺したか
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◆第7章 呂寛事件
「改革途上にあった王莽にとって、人生の岐路にも関わる重大な事件」だそうです。起きたのは、後3年。
王莽の長男は、王宇という。
王宇は怖がった。
「父の王莽は、平帝の母の衛氏を、都に入れない。もし平帝が成長したら、王氏を責める材料にされないか」
王宇は、妻の兄の呂寛に相談した。呂寛は言った。
「王莽は、諌めても聞かないが、鬼神に気をつかう性格だ。奇怪なことを起こせば、鬼神の戒めだと懼れるだろう。そうすれば衛氏を、都に入れるに違いない。夜になったら、王莽の邸宅の門に血を塗ろう」
だがこれが王莽にバレて、長男の王宇は毒を飲まされた。呂寛も捕らえられた。
王宇の見積もりでは、王莽が政権を衛氏に返す余地がまだあり、そうすることが当然だと考えていた。だが王莽は、ずっと政権を保持するつもりだった。
王莽は、衛氏を誅殺した。のみならず、皇室や同じ王氏でも、自分に味方しない人を殺した。数百人が、衛氏との関係を疑われて、犠牲になった。大粛清の口実になったという意味で、呂寛の事件は王莽にとって重大だったのだ。
東氏の分析。
王莽の心中にある儒家的な理想政治への思いが、残忍な仕打ちを彼に強要した。元后が生存している間は安泰だが、元后が死ねば、王氏は中枢から排除される。いちど哀帝のときに失脚を味わっているから、充分に知っている。
政権を維持するための選択肢としては、みずから外戚となるか、自身が皇帝になるしかない。
前者までで留めておけば、王莽は霍光と同じ名誉を得られたはずだ。だが後者まで踏み込んだから、のちに更始帝に首をいじくり回されることになった。
◆第8章 宰衡の称号
王莽は、昭帝のときの霍光を先例にして、外戚になろうとした。自分の娘を皇帝に娶らせるんだが、また面倒くさいことをやった。
まず、王莽の提案。
「皇后を選ぶなら、12人の候補を名門から挙げるのが礼です」
こう言っておいて、自分の娘を混ぜた。だが、
「私の娘は徳がないから、きっと選抜を勝ち残ることはできない。12人の中に混ぜるのは辞めよう」
と恐縮し始めた。元后は誠実なことだと感心し、
「王莽の娘を、候補者に入れるな」
と命じた。
すると1日に1000人以上の人が、
「功勲のある王莽さまの娘が、初めから皇后の候補から漏れているなんて、いけない。天下の秩序が保たれない」
と訴えて押し寄せた。
王莽はいちいち反論の使者を出したが、逆効果だった。元后は、
「もういい。王莽の娘を、皇后にせよ」
と命じた。だが王莽は、
「いえいえ、12人の中から広く選ぶべきです」
と譲らない。王莽の娘に皇后の器量があるか、役人が次々と面会に行き、申し分ないという回答を得た。元后は占いをやり、吉が出たので、やっと皇后が決定した。 平帝も王莽の娘も、13歳だった。
東氏の考察。
王莽の娘を推す声を集めるため、腹心による世論操作の働きかけはあっただろう。 だが王莽は、正当な方法で政治改革や恤民政策をやっており、王莽に対する評価が相当に高かったことも否定できない。王莽は、政治的嗅覚によって、見極めが付いていたんだろう。
◆周公に比す
王莽は、伊尹が就いた「阿衡」と、周公が就いた「太宰」をドッキングさせて、「宰衡」という新ポストを作った。
三公が宰衡に何か言うときは、
「敢えて之れを言う」
と前置かねばならないルールだった。これは下から上に発言するときの慣用句。つまり、宰衡は三公より上に位置づけられた。 「宰衡・太傅・大司馬印」 という印璽を新作した。
王莽が周公にこだわったのは、古文経学の聖人として、周公が祭られていたからだ。王莽は、政治の立場も、支持する学派も、周公と関わりが厚かった。 ちなみに今文経学の聖人は、孔子です。
周公は、天子として群臣に接したという学説があり、王莽は自分と重ねた。ただし周公は、大人になった成王に政権を返上した。この時点で王莽は、まだ皇帝になるつもりはなかった。これが東氏の意見。
◆九錫を賜う
王莽は、地方行政区画をした。州を再編し、地方から上がってくる人材は王莽が全員面接することにした。王莽にとってのイエスマンばかりが、任用される仕組みができた。
儒教に基づく祭祀や建築物を、整えた。
「周公でさえ、摂政になって7年目に、やっと制度を定め始めた。だが王莽さまは、たった4年で終わらせてしまった」
これは、群臣からの上奏です。
「明堂(儒教の施設)は、1000年間も建てられずにいた。だが王莽さまが工事を命じた翌日には、10万人の学生・庶民がボランティアに駆けつけ、20日で完成した。尭や舜が洛陽を作ったときでも、これほど早くなかった」
この文は、どこへ行くかと言うと・・・
「だから王莽さまは、九錫を授けられるべきだ」
となります。
九錫が授けられるのは、史上初。以後、曹操をはじめとして、禅譲のためのステップとして、真似されていく。
宮川尚志氏は、
「劉氏しか王にしてはいけないという劉邦の遺言が生きていた。だから王莽は、皇帝の前段階として、王にならなかった。安漢公は、後世の王位(曹操の魏王、司馬昭の晋王など)の代わりである」
と指摘した。
◆平帝毒殺説
後5年、平帝が病没した。王莽が毒殺したという説があるが、『漢書』に記述のないことである。後漢になって挿入された注にあり、『資治通鑑』が採用してしまった。
東氏は、毒殺には懐疑的だ。 「定かではない毒殺説に拠って、王莽の人柄や政治を悪辣に言うのは、良くない。宮中のことだから、真実は不明だ。残された道は、政治状況や王莽が自分のポジションをどう捉えていたか、政治的願望や意欲や心理状態を勘案して、毒殺を決断する確率を測定することだ」
みたいに述べている。 また、
「王莽はすでに政治的最高権力者の地位を確立していた。だから、『簒奪者』という評価は、漢の血統を重んじる立場からは出てきても、政治や社会秩序安定化の必要性の観点からは生じにくい。当時の政治や社会の状況からすれば、王莽の政治権力掌握、皇帝即位は是認される、という評価もまた一理を有するのではなかろうか」
とある。
なぜこんなに熱っぽいかと言えば、次の章のタイトルが「摂皇帝となる」だからだ。山場なのだ。
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このコンテンツの目次
東晋次『王莽』を読む
1)若き不遇は、誤差のうち
2)早すぎる絶頂と失脚
3)漢を再生する大改革
4)平帝を毒殺したか
5)王莽、「禅譲」される
6)高祖・劉邦を畏れる
7)王莽の伝記がない理由
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