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東晋次『王莽』を読む
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5)王莽、「禅譲」される
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◆第9章 摂皇帝となる
平帝が死ぬと、七廟に葬った。トコロテン式に、王莽と対立した哀帝が、七廟から外された。
後継者は、宣帝の玄孫23人のうち最も幼い、2歳の劉嬰が選ばれた。
「占いの結果が、いちばん良かった」
が理由だが、王莽が政権を取り続けるための口実だ。
この新しい皇帝は、周囲の人との会話を禁じられた。だから、六畜(馬・牛・羊・豕・犬・鶏)の名前すら言えなかった。
後5年末、謝囂が上奏した。
「武功県の人が、井戸をさらったら、白石を得ました。安漢公莽に告ぐ、皇帝となれ。朱で文字がそう書いてございました」
元后は、
「これはイタズラだ。無視せよ」
と取り合わなかったが、要職の王氏が、
「天からの通達があったことに、逆らえません。きっと王莽に皇帝の役割を摂行させよという意味でしょう」
と言ったから、王莽は摂皇帝と呼ばれた。
後6年、王莽への叛乱が、宛県を攻めた。
「王莽は劉氏から政権を奪うだろう。漢の皇族として、恥に思う。劉氏の私が先駆ければ、天下が呼応するだろう」
と安衆侯の劉崇が立ち上がった。一瞬で片づけられた。
つぎの翟義の叛乱は、
「王莽は平帝を毒殺した」
と決め付けた檄文を飛ばし、山陽郡で10万人に膨らんだ。王莽は食事が喉を通らなくなったが、
「周公のとき、管と蔡(いずれも小国)が逆らった。周公のような聖人ですら、叛乱を懼れた。まして私など」
と、ふたたび周公に自分を重ねて、心に折り合いをつけた。同時に、自分が周公の立場だと宣伝した。
陳留郡で王莽軍は大勝して、翟義は長安で磔にされた。
長安の西方でも呼応があり、その戦火を王莽は、孺子嬰を抱いて長安から眺めた。
この戦勝で、王莽は「天と人の助力を得た」と解釈し、12月に帝位についた。こう因果関係を語るのは、『漢書』だ。
「翟義の叛乱は、王莽の皇帝位への願望を現実化させるひとつの契機となった」
と意味づけたのは、著者の東氏だ。 大きな叛乱を受けても、将軍たちは王莽のために戦ってくれたし、そして勝ったのだ。勢いは、王莽にあった。
◆摂皇帝の自信
後7年、戦勝した将軍が戻ると、王莽は周の五等爵に基づいて、公・侯・伯・子・男の位を与えた。秦漢でつかった二十等爵制をやめて、周代に戻したことになる。
王莽は、名声のある人士招いたが、失敗もした。
「賢者を招致できない君主は、不徳なのだ」
儒家のロジックから見れば、「そうなっちゃう」ので、王莽は懼れた。従わない人は、法の網に引っ掛けて、自殺させた。士人が新王朝を支持するかどうかは、王莽が摂皇帝だった時期に、ほぼ見極められた。
◆第10章 皇帝位に即く
後7年、「符命」が続々と奉られた。
符命とは、木の札を2つに折ったもの。権力から与えられた、命令や恩恵を証明するもの。 各地から、
「摂皇帝は、真皇帝となるべきだ」
というメッセージが届いた。董仲舒が体系化した災異説に重ね合わせ、符命が未来の兆しを示すと考えられた。
前例がある。前漢の宣帝は、虫が食った葉が、
「公孫病已立」
と読めるから、即位できる予兆だと喜んだ。彼の名は、劉病已だった。果たして継承権のなさそうだった劉病已は、皇帝となれた。
後8年11月21日、王莽は元后に、符命の言葉を報告した。 たった4日後、
「王冠を御し、真天子の位に即き、天下を有するの号を定めて、新と曰わん」
と元后に報告し、王莽は早業で皇帝になった。このとき54歳。
2001年に長安城から出土した祭文を刻んだ玉から、王莽が泰山で封禅する準備をしていたことが分かった。叛乱軍に敗れて、実現しなかったが。
◆伝国璽
王莽の弟が、元后のところに来た。元后が持っている、漢の伝国璽を回収するためだった。
元后は罵った。
「私たち王氏は、漢家のおかげで代々富貴となれた(元后は王莽の伯母だ)。だが恩返しをせず、父のいない幼い皇帝の隙を見て、国を奪い取るとは、何事か。人間もこうまで悪事をすれば、その食べ残しはイヌやブタも食べないでしょう」
さらに言う。 「広い世界に、お前たちの兄弟のような奴は、いないよ。もし王莽が皇帝になると言うなら、自分で伝国璽を作って、万世に伝えたら良いでしょう。どうして漢家の伝国璽を、奪いに来るのかね」 ここからが、心に染みる名言! 「私は漢家の老寡婦だ。もうじき死ぬでしょう。死んだら、漢家の伝国璽とともに葬ってほしいと思っている。王莽に渡すなど、できない相談だ」
元后は、涙を落とした。
回収の使者は、
「私の力では、元后さまを説得することは出来ませんね。しかし兄(王莽)は、絶対に伝国璽を受け取るつもりです。いつまでも、頑張っていられるものでしょうか」
元后は甥の王莽が恐ろしくなり、
「私は年老いた。すでに死んだようなものだ。お前たち兄弟は、いまに族滅されるだろう」
と叫ぶや、伝国璽を地面に投げつけた。
東氏は触れていませんが、三国ファンにとっては重要な場面です。お気づきでしょう。この伝国璽は、孫堅が洛陽の井戸で発見し、孫策が兵を借りるために、袁術に差し出したものと同じです。史実とか小説とか、そういう話は今日はナシで(笑)
三国志の名場面。
「女官の死体が、印を帯びていた。何だこれ?」
「ああ、これは確かに伝国璽です。手放した人が天下を失い、手に入れた人が天下を取るという品です」
「ホンモノかね」
「もちろん。その証拠に、カドが欠けているでしょう。これは200年前、元后が王莽に怒り、投げつけたときに欠けたのです」
『漢書』によれば、伝国璽は始皇帝の持ち物だった。劉邦が、秦王子嬰から献じられたもの。
だが栗原朋信氏よれば、伝国璽が文献に表れるのは、光武帝の頃から。後漢が、前漢の継承者としての立場を主張するために、伝国璽というアイテムを作ったのだと。栗原氏は、『漢書』に伝国璽を投げつけるくだりがあるのは、
「王莽がやったのは、禅譲じゃなくて簒奪だ」
と班固がアピールするためだったと考えた。
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このコンテンツの目次
東晋次『王莽』を読む
1)若き不遇は、誤差のうち
2)早すぎる絶頂と失脚
3)漢を再生する大改革
4)平帝を毒殺したか
5)王莽、「禅譲」される
6)高祖・劉邦を畏れる
7)王莽の伝記がない理由
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