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東晋次『王莽』を読む
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6)高祖・劉邦を畏れる
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◆即位の論理
『礼記』によれば、 「天下は公のもので、私の家が独占してはいけない」 となる。
王莽が劉氏から奪うこととは、『礼記』で根拠づけることが出来る。王莽は、前代皇帝(劉嬰)から禅譲の意思を聞いていないから、
「上帝から劉邦の神霊に命令が下り、漢は新に国を譲った」
という理屈づけをして、正当化した。
西嶋定生氏は、
「漢代皇帝の神秘的権威は、どのように賦与されるのか。(上帝に天命を授けられた)祖霊(劉邦・劉秀)に承認されることで、賦与されるのだ」
と論じた。
この延長で考えると、劉邦が異姓の王莽を、ご親切に承認してくれるわけがない。 だが王莽は、
「劉氏の祖先は尭で、王氏の祖先は舜だ。尭は舜に禅譲した。劉邦は劉氏しか守らないという、セコい人ではない。劉邦は祖先の尭を見習って、劉氏から王氏への禅譲を支持してくれる」
というストーリーを描いた。
強引だが。。
だから王莽は、劉氏を否定しない。劉氏を優遇したし、漢の歴代皇帝の廟にせっせと参っている。
◆高祖への畏れ
皇帝の孺子嬰は、定安公に降格された。
5県の封地を与えられ、漢の祖先廟をその地区内で祭らせた。正朔や服色は、漢のものを使い続けることを許された。新王朝の「賓」の待遇とされた。
劉嬰の新しい身分を発表し終わると、王莽は劉嬰の手を握った。王莽はシクシクとすすり泣き、
「むかし周公は摂政しましたが、成王に政権を返すことができました。だが私は、皇天の威命に迫られて、政権を漢室に返せませんでした」
と弁明した。
劉嬰の中傅(もり役の宦官)が手を取り、劉嬰は殿を降りた。劉嬰に北面させて、 「臣」
と称させると、百官はみな感動した。
劉氏の叛乱が山東で起こったが、広がらなかった。王莽への期待が大きく、叛乱が拡大する条件が、まだこの時期には整っていなかった。
叛乱より怖いことがあった。
長安に住む狂女が、
「高祖皇帝が、お怒りになっている。すみやかに我が国を返せ。さもなくば、9月にはきっと王莽を殺してやる」
と叫びながら、道を歩いた。
これはきっと巫女で、王莽が高祖廟に参拝することを踏まえて、触れ回ったのだろう、と。王莽は直ちに、この女を殺した。
王莽が劉邦を畏れる気持ちは強まった。
のちに兵士を高祖廟を派遣して、剣を抜いて四面を殴り、斬らせた。斧で、戸や窓を壊させた。
屋根や壁に、桃湯を撒かせ、赤いムチで打たせた。自然科学から見たら無生物の、廟をやっつけた。
気持ちが収まらず、一部隊を高祖廟に留まらせた。劉邦の神霊から、新王朝を「守備」したのだ。
「黄龍が堕ちて、黄山の宮中で死んだ」
という訛言(流言)があった。
黄龍とは、新王朝のシンボルカラーを踏まえたもの。
著者は指摘していないが、補足しておきます。
黄巾も曹魏も孫呉も、漢を継ぐものを自称したから、黄色をシンボルに選んだ。200年を隔てたが、王莽と同じです。
もともと王莽がシンボルカラーを選ぶとき、諸説ある漢の徳の種類の中から、火徳を選んだ。
「漢は火徳(赤)だから、次は土徳(黄)」
だと固めたのは、王莽だ。三国志への影響は大きいなあ。
ちなみに、
龍が死んだ場所は、前漢の恵帝のときに建てられた宮殿。武帝もよく微行した。元后も遊びに行ったし、王莽も付いていった。王莽ゆかりの場所なだけに、不吉っぽさが膨らむ。
◆第11章 新王朝の諸政策
新官制を発布した。『礼記』に基づき、名称にこだわった。官名を変更するときは、建築物や地名も、一緒に変えた。
「必ずや名を正さんか」
と『論語』にあるが、王莽の礼楽好みの性癖も手伝い、とても凝った作業になった。漢の官名は、秦を引き継いだものが多かったから、王莽は徹底的に匂いを消した。
地名は、ひどいところでは5回も変更され、元に戻されたりもした。住民は置いてきぼり。 詔書を下すとき、わざわざ旧名を括弧書きしなければ、誰もどこの話なのか分からなかった。
度量衡を整え、貨幣体系を改め、王田制を布いた。
土地政策というのは、ぼくにとっては、
「歴史学の古戦場、いまや地雷原」
みたいな分野だ。東氏が概説した研究史を、このページでまとめることができません。大論争が終わった後に歴史学を知った若者が、フラフラと足を踏み入れようなら、ドッカンドッカンと残留した地雷が弾ける。そして一生、帰って来れないはずだ。 平たく言えば、
「哀帝の限田制も、王莽の王田制も、史料があまり残っていないので、実態がよく分からない。正史を執筆した人の関心も薄いしね」
だが、日本の戦後歴史学がそんな開き直りを許すわけがなく。
◆第12章 匈奴単于の怒り
武帝のとき、匈奴と抗争しまくったが、国費が尽きた。割に合わないから、武帝以降の前漢では、匈奴と仲良く折り合ってきた。
だが王莽は異民族に対して、失礼な外交をしたから、関係がこじれた。儒教の読み物に書いてある「華夷」の観念を、杓子定規に持ち込んだのがいけなかった。
匈奴と戦うために、国境に物資を運んだ。これが社会不安をもたらし、王莽政権の崩壊の一因になった。
◆第13章 諸政策の破綻
王田制も貨幣施策も失敗して、重臣の諌めによって撤回した。
◆第14章 豪族・民衆の叛乱
瑯邪郡の呂母という女が、息子を県役人の殺された。復讐のために財貨をバラ撒き、兵士を集めた。復讐に成功した後、兵士たちは赤眉に吸収され、叛乱集団に成長した。 「とにかく討てええ!」
王莽は、青州・徐州に大討伐軍を送る。
東氏は、 「
なぜ民衆が盗賊になるか、王莽は無理解だ」
と言い、王莽が兵を派遣する弊害を指摘する。東氏は、王莽が知らなかった正解を以下に示した。
長いけど引用する。
「民衆は食えないから、略奪し、山や沢に入って食料を求めるに過ぎず、討伐軍に対しては身を守るためにやむなく戦わざるを得ず、その戦闘によって政府軍の指揮者が戦死したり傷ついたりするのである。これを政府に歯向かう不届きな者と断罪するのが、中央にぬくぬくと居て地方の実態が見えない者の習癖ではあろう」
討伐を任された将軍も、
「軍を送るという方法では、盗賊の発生は解決しません」
と反対したものだから、王莽は将軍を解任した。そのせいで、山東地方は瓦解した。
「王莽には戦略的発想がない、と思わざるをえない」
と東氏は結論づけた。
◆王莽の孤独と狂騒
王莽の妻が死んだ。息子たちが自殺させられたから、ショックで失明していた。
不法行為をした子や孫を、王莽はコンスタントに殺した。
「大義、親を滅す」
という信念のもと、王氏に罪人を置くわけにはいかなかった。
方術に凝り始め、「登仙」を願った。
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このコンテンツの目次
東晋次『王莽』を読む
1)若き不遇は、誤差のうち
2)早すぎる絶頂と失脚
3)漢を再生する大改革
4)平帝を毒殺したか
5)王莽、「禅譲」される
6)高祖・劉邦を畏れる
7)王莽の伝記がない理由
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