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東晋次『王莽』を読む
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7)王莽の伝記がない理由
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◆第15章 長安城の落日
赤眉が強盛。長安の役人たちが、
「赤眉軍は10万人もいるのに、なぜ文書・号令・軍旗・標識がないんだろう」
と不思議に思った。
ある人が物知り顔で、
「古代の三皇の時代には、文書や号令がなかった。それを同じかも知れないな」
と解説を付けた。いかにも王莽政権に参画している人らしい発想。だが、現場を知っている将軍が一蹴した。
「赤眉は、ただ飢え凍えた盗賊の群れだからです。犬や羊と同じで、文書や号令を備えることを知らないだけです」
王莽は、なるほどね、と喜んだ。
南陽で、劉縯と劉秀の兄弟が挙兵した。かつて10万の叛乱を引き起こした、翟義と縁つながりの人だ。
昆陽では、100万の王莽軍が攻めたが、劉秀たちに負けた。言わずもがな、彼らが最後の勝者となり、劉秀が光武帝となる。
後24年、劉秀たちが、劉玄を更始帝を立てた。
王莽は不安を隠そうと、ヒゲを染めて、若くてキレイな皇后を立てた。
南陽では、
「王莽は、平帝を毒殺した悪人だぞ」
とアジテーションが広がり、盗賊が一斉に立ち上がった。長安は恐慌した。王莽は、
「私は、平帝を殺していない。周公が、兄の武王の平癒を祈ったように、私は平帝の健康を祈った。これがそのときの文書だ。証拠だぞ」
と泣きながら示した。
王莽は反撃のために、
「劉縯(劉秀の兄)は、大殺戮をやっている」
というウワサを流したが、すぐにウソだと暴露された。世論を操作することは、できなかった。
王莽は、食事もろくにとらず、ただ酒を飲み、アワビばかり食らった。まじないに熱中して、気を紛らわした。
◆漢軍の長安進撃
更始帝は宛城を都に定め、洛陽を攻め取った。関中に通じる、武関を突破した。
「皇天は、すでにこの王莽に天命を授けられたのに、なぜ賊たちを片づけて下さらないか。もし私に落ち度があるなら、雷で殺して下さい」
王莽は、バンバンと胸を叩いて、大声で泣いた。 気力が尽きると、大地に頭をガンガンとぶつけた。 自らの功労を、1000余字のレジュメ(告天策)にまとめて、天に報告した。一緒に泣きに集まってくれた人に、粥を振る舞った。王莽の告天策を暗誦してくれた人は、朗官にした。5000余人が採用された。
新軍は、負け続けた。
王莽の妻子や祖先の墓が暴かれた。 長安郊外は攻め手に放火され、王莽がせっかく築いた儒学の建築物は、焼けた。東氏の文を引用すると、
「王莽が生涯をかけた『制礼作楽』の成果を包む火炎は長安城中をも赤々と照らしていたのだった」
◆無惨な最期
後23年10月1日、漢軍の兵士が長安城に乱入した。
王莽は宣室殿に籠もったが、
「反虜の王莽、なぜ出てきて降伏しないか」
と外から脅された。
「天は、この王莽に徳を与えたのだ。漢兵ごときに、私をどうにか出来るものか」
翌日は、早朝から戦闘開始。矢が尽きたら白兵戦に移り、日が暮れた。いよいよ王莽は追い詰められた。
王莽は、商人の杜呉に殺された。印綬を奪われた。手足・関節・皮膚・骨格をバラバラに切り刻まれた。
更始帝のところに首が送られた。宛城の市場に晒され、殴りつけられた。舌を切り取り、食らう人もいた。
この世でもっとも濃厚なディープキスである。
◆終 章
『漢書』の「王莽伝」は、上中下がある。タイトルは「伝」だが、本紀の形式で書かれている。
班固は、王莽を「不仁」だと言い、始皇帝と同列に並べた。王莽の風貌は、始皇帝に似せて書かれた。
「梟の眼、虎の唇、豺狼の声」
である。ステレオタイプだ。
班固が記した王莽の風貌は、
「口が大きく、あごが短い。ギョロ眼で赤い。大声で、しゃがれている。身長は173センチ、厚底の靴や高い冠を好んだ。から牛の尾で衣服を作り、胸を反らせて見下すように見て、遠くを眺めるように左右の人に接した」
王斐烈は歴史心理学から、王莽を分析した。
王莽は、屈従しない性格で、自分が中心となり、他人を支配せずにおれない。妄想しがちだから、晩年は1人で国事の全てを処理しようとした。逆に、内省することができず、公平に自分を見れない。
これを受けて東氏は、以下を指摘した。
理想が高い人は、己の意向と違う人を敵視する。自分は正しく、対立者は悪だ。元后の庇護があったから、王莽は致命的な挫折がない。己の理想は、人に受け入れられるはずだと過信しやすい。
河地重造氏の王莽政権論によれば、彼が目指したのは、
「皇帝を中心とする秩序整然たる統一国家、官僚による国家統制の強化、皇帝と全人民との間に直接に結ばれる個別人身的支配と保護の関係の維持・再編」
だと。『周礼』に復古したのではなく、そこに含まれる専制君主体制の理想を制度化しようとしただけだと。
前漢は皇帝支配が強く、後漢は豪族勢力が伸びる。時代は豪族による大土地所有に向かっているのに、逆行した制度を目指したから、失敗したのだと。
巻末で東氏は、
「王莽には、帝号がない。帝陵がない。墓すらない」
これに加えて、
「本格的な王莽伝が書かれていない」
というモチベーションが根底にあり、この本を書いたのだと告白されてました。なぜなら、
「王莽伝を書くには、漢代史のあらゆる分野のことに通じていなければならないから」
だと。面白い本をありがとうございました!
本を要約するだけのつもりが、ところどころ余計な口を挟んでしまったので、目的がブレました。反省。。
別のページを立てて、ぼくなりの王莽論を組み立ててみます。もちろん「三国志を理解するため」という軸足は動かしません。090620
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このコンテンツの目次
東晋次『王莽』を読む
1)若き不遇は、誤差のうち
2)早すぎる絶頂と失脚
3)漢を再生する大改革
4)平帝を毒殺したか
5)王莽、「禅譲」される
6)高祖・劉邦を畏れる
7)王莽の伝記がない理由
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