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劉備統一のシナリオ、廖立伝
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1)廖立の列伝まとめ
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この前、渡辺精一氏の『[三国志]に学ぶリストラ』を読みました。その中で、蜀の国力のキャパでは使いこなせたなった人材として、廖立が紹介されていた。
三国ファンのくせに、廖化と廖立の区別すらキッチリできてない。今回は、久しぶりに「キャラ伝」として、廖立にスポットライトを当てます。
◆伝記の基本情報
廖立、あざなは公淵。 キムタクと同じ原理で、公孫淵のファンが燕王を親しんで呼ぶときに「公淵」と言ったら、カブるな。絶対にそんな心配はいらんな・・・
武陵郡臨ゲン県の人。 ありがちな疑問を潰しておくと、廖化は襄陽県の人だから、同じ荊州だが、同族ではなさそうだ。
廖立は、劉備が荊州牧のとき、従事になった。劉琮が死に、劉備がやっと手に入れた根拠地を温めているときに、出仕したことになる。荊州の在地の賢人だね。30歳になる前に、長沙太守になった。
諸葛亮の仕官は、26歳。廖立と諸葛亮は、ほぼ同い年?
あるとき、孫権の使者が、
「諸葛さん、誰が政治に有用な人材か」
と聞いたとき、
「龐統と廖立は、楚の良才だ」
と言った。荊州を代表する2人として、廖立は龐統と同格に扱われた。さらに諸葛亮は、
「龐統と廖立は、私の仕事を助け、後世に名を残す」
と言った。
ちょっと脱線するが、、龐統は諸葛亮と張り合っているイメージがあるが、諸葛亮は「龐統は私の補佐だ」と、対外的に言ってしまっている。諸葛亮は、自分以外の人物の評判をサラッと落とすなあ・・・
◆左遷された
215年、呂蒙が荊州3郡(長沙・零陵・桂陽)を攻めた。廖立は、長沙郡を捨て、脱出した。 だが劉備は廖立を認めていたから、巴郡太守に任じた。
219年、劉備か漢中王になると、廖立は侍中。
劉禅が嗣ぐと、長水校尉になった。この人事が、廖立にはイヤだった。本心で廖立は、
「私は諸葛亮に次ぐ」
と思っていたのに、仕事はヒマだ。李厳の下に置かれたから、イライラした。丞相掾の李ショウと蒋琬が来たとき、意見を述べた。
次から、廖立の意見を引用する。ハイライトです。
◆廖立の言い分
「諸葛亮が指揮をして、曹魏へ北伐すると聞いた。お前ら、今までこの国が犯してきた戦略のミスを、もう一度反省してから、出発しろよ。この国は、判断ミスばかりしてきた。
先帝(劉備)は、せっかく漢中に進んだのに、呂蒙が荊州を攻めたら、帰ってきてしまった。けっきょく漢中を取れず、荊州の南3郡を、孫権にくれてやることになった。兵士を疲労させただけで、利益ゼロ。
漢中は曹操に奪われた。夏侯淵・張郃を、巴郡の奥まで侵入させてしまい、あやうく益州を丸ごと失うところだった。
関羽を1人にしたから全滅し、上庸は敗北し、いち地方を失った。関羽は剛勇を誇って、軍の作戦行動がでたらめで、気の向くまま突進した。だから、何度も軍勢を失った。
向朗や文恭は平凡な人間だ。向朗は馬良兄弟を尊敬して「聖人」と言うぐらいだから、ろくに仕事ができない。文恭は、治中になってから、でたらめだ。
中郎の郭攸之は、人のマネをするだけで、大きなことはできない。そのくせ侍中になっている。
この国は衰えている。向朗、文恭、郭攸之に任せるのが、どだい無理なんだ。
王連のような俗人が、偉そうな顔で民衆を疲弊させたから、今日の事態を招いたのだ」
◆廖立の晩年
諸葛亮は、廖立を追放した。
「廖立は偉そうに現体制を批判した。世論はバカだから、廖立の言葉の真偽が分かりません。このまま廖立に、好きに喋らせておくのは危険です」という理由にて。
廖立は、ビン山郡に流された。
妻子と農耕に携わって生きていた。諸葛亮が死んだと聞くと、
「わたしは蛮民となってしまう」
と泣いた。のちに姜維が訪ねると、以前のように言論には筋が通っていた。廖立の死後、妻子は蜀に帰った。
次から、廖立について考察します。
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このコンテンツの目次
劉備統一のシナリオ、廖立伝
1)廖立の列伝まとめ
2)もうひとりの戦略家
3)軍師・廖化のイフ物語
4)残念なのは・・・
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