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『晋書』列伝70、反逆者の列伝
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2)王弥-下
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永嘉初,寇上黨,圍壺關,東海王越遣淮南內史王曠、安豐太守衛乾等討之,及彌戰于高都、長平間,大敗之,死者十六七。元海進彌征東大將軍,封東萊公。與劉曜、石勒等攻魏郡、汲郡、頓丘,陷五十餘壁,皆調為軍士。又與勒攻鄴,安北將軍和郁棄城而走。懷帝遣北中郎將裴憲次白馬討彌,車騎將軍王堪次東燕討勒,平北將軍曹武次大陽討元海。武部將軍彭默為劉聰所敗,見害,眾軍皆退。聰渡黃河,帝遣司隸校尉劉暾、將軍宋抽等距之,皆不能抗。彌、聰以萬騎至京城,焚二學。東海王越距戰於西明門,彌等敗走。彌複以二千騎寇襄城諸縣,河東、平陽、弘農、上党諸流人之在潁川、襄城、汝南、南陽、河南者數萬家,為舊居人所不禮,皆焚燒城邑,殺二千石長吏以應彌。彌又以二萬人會石勒寇陳郡、潁川,屯陽曜,遣弟璋與石勒共寇徐兗,因破越軍。
永嘉初(313年)、王弥は上黨郡を寇して、壺關を包囲した。 東海王の司馬越は、淮南内史の王曠や安豐太守の衛乾らを、王弥討伐に向けてきた。
王弥は高都と長平の間で戦い、司馬越軍を大いに破った。王弥側の死者は、十六七人だけだった。
「王弥を征東大將軍に進め、東萊公に封じる」
劉淵は、王弥の位を上げた。
王弥は、劉曜や石勒らとともに、魏郡、汲郡、頓丘郡を攻めた。五十余壁の城市を陷し、みな住民を徴発して軍士にした。王弥は石勒と鄴城を攻めた。安北將軍の和郁は、鄴城を棄てて逃走した。 懷帝は、北中郎將の裴憲を遣わして、白馬の経路から王弥を討伐させた。車騎將軍の王堪には、東燕を通って石勒を討伐させた。平北將軍の曹武は、大陽から劉淵を攻めさせた。
武部將軍の彭默は劉聡に敗れて、殺害された。彭默の軍勢はみな撤退した。劉聡は黄河を南へ渡った。懐帝は、司隸校尉の劉暾や將軍の宋抽らに劉聡を防がせたが、勢いを止めることはできなかった。
王弥と劉聡は、1万騎を率いて京城に至り、二學を焚いた。
〈訳注〉二學ってどこ?
東海王の司馬越は、西明門で王弥と劉聡を防いだ。王弥らは敗走した。
王弥はふたたび二千騎で、襄城郡の諸縣を寇した。 河東郡・平陽郡・弘農郡・上党郡からの流人で、潁川郡・襄城郡・汝南郡・南陽郡・河南郡に移った人は、數萬家あった。もとの住人に不礼をはたらき、すべて城邑を焚燒した。流人は、二千石長吏(郡の長官)を殺して王弥に呼応した。 王弥は2万人を率いて石勒に合流して、陳郡・潁川郡を寇し、陽曜に駐屯した。王弥は弟の王璋を遣わし、石勒とともに徐州・兗州を寇して司馬越の軍を破った。
彌後與曜寇襄城,遂逼京師。時京邑大饑,人相食,百姓流亡,公卿奔河陰。曜、彌等遂陷宮城,至太極前殿,縱兵大掠。幽帝於端門,逼辱羊皇后,殺皇太子詮,發掘陵墓,焚燒宮廟,城府蕩盡,百官及男女遇害者三萬餘人,遂遷帝於平陽。
王弥はのちに劉曜と襄城郡を寇し、ついに京師に逼った。 ときに京邑は大飢饉で、人は食い合い、百姓は流亡し、公卿は河陰に逃げていた。 劉曜と王弥らは、ついに宮城を陷した。太極前殿に至り、ほしいままに兵は大掠した。懐帝を端門に幽閉し、羊皇后に逼って辱め、皇太子の司馬詮を殺した。司馬氏の陵墓を發掘し、宮廟を焚燒した。城府は蕩尽され、百官および男女で殺害された人は、3万余人にも及んだ。
懐帝は平陽に遷された。
彌之掠也,曜禁之,彌不從。曜斬其牙門王延以徇,彌怒,與曜阻兵相攻,死者千余人。彌長史張嵩諫曰:「明公與國家共興大事,事業甫耳,便相攻討,何面見主上乎!平洛之功誠在將軍,然劉曜皇族,宜小下之。晉二王平吳之鑒,其則不遠,願明將軍以為慮。縱將軍阻兵不還,其若子弟宗族何!」彌曰:「善,微子,吾不聞此過也。」於是詣曜謝,結分如初。彌曰:「下官聞過,乃是張長史之功。」曜謂嵩曰:「君為硃建矣,豈況範生乎!」各賜嵩金百斤。彌謂曜曰:「洛陽天下之中,山河四險之固,城池宮室無假營造,可徙平陽都之。」曜不從,焚燒而去。彌怒曰:「屠各子,豈有帝王之意乎!汝柰天下何!」遂引眾東屯項關。
王弥の軍が掠奪を行なうと、
「やめさせなさい」
と劉曜が禁じた。だが王弥は、従わなかった。
劉曜は、王弥の牙門を務める王延を斬って、王弥を従わせようとした。だが王弥は怒り、劉曜と戦さを始めた。死者は千余人。王弥の長史である張嵩は、王弥を諌めた。
「明公(あなた)は、(劉淵の)国家とともに大事を興す人です。事業はまだ始まったばかりなのに、部将同士で攻討していて、どうやって主上に顔向けをするのですか!
〈訳注〉「甫」は、苗を育てる平らな床。転じて、始まり。
洛陽を平定した功は、まことに王弥將軍にあります。しかし劉曜が皇族ですから、下に付いておくべきです。西晋で2人の王氏が孫呉を平定したときのことを参考にすると、今と状況が似ています。
〈訳注〉寒門出身で、益州から攻め下ったから王濬は、戦功が大きかった。だが名門で手柄の少ない王渾は、王濬を憎んで滅ぼした。軍功と繁栄は別ですよ、という教訓だ。
どうか賢い王弥さまには、先々のことをよく考えて頂きたい。もし王弥将軍が兵を阻んで(劉淵のところに)帰還しなくても、(君主の)子弟や宗族をどうにか出来るものでしょうか!」
〈訳注〉劉曜は劉淵の血縁だから、王弥がどんな抵抗をしても敵わない。劉曜は罰せられず、王弥がバカを見る。
王弥は言った。
「善きかな、微子。私は自分の過ちに気づかなかった」
〈訳注〉「微子」は殷のチュウ王の兄の名だが、ここではそんな意味じゃないね。軽い呼びかけか。
王弥は劉曜のところに行き、謝った。王弥と劉曜は、もとのとおり仲直りした。
王弥は言った。
「下官が私の過ちを指摘してくれました。この仲直りは、張長史(張嵩)の功績です」
劉曜は張嵩に言った。
「キミは硃建(大手柄)をなした。手本として奨励せねばならん」
王弥と張嵩に、それぞれ金百斤を賜った。 王弥は劉曜に言った。 「洛陽は天下の中心です。(現在の漢都である平陽は)山河が四方にあって険固ですが、新しく城池や宮室を營造している時間はありません。平陽から洛陽に都を移しましょう」
〈訳注〉劉淵がいる平陽は防御しやすいが、田舎なのだ。洛陽に遷都したいと言った王弥は、やはり漢人で役人の家柄だ。
「洛陽に遷都などしない」
劉曜は王弥を却下し、洛陽を焚燒して去った。王弥は怒って言った。
「屠各子(異民族のガキ)に帝王之意が分かるものか!(洛陽を焼いてしまって)お前は天下をどのようにしようと言うのか!」 〈訳注〉「××をいかんせん」の典型的な用法だ(笑)虞よ虞よ・・・
ついに王弥は(劉曜と決裂して)軍を率いて東に行き、項關に駐屯した。
初,曜以彌先入洛,不待己,怨之,至是嫌隙遂構。劉暾說彌還據青州,彌然之,乃以左長史曹嶷為鎮東將軍,給兵五千,多齎寶物還鄉里,招誘亡命,且迎其室。彌將徐邈、高梁輒率部曲數千人隨嶷去,彌益衰弱。
はじめ劉曜は、王弥が先に洛陽に入り、自分を待ってくれなかったから、これを怨んだ。劉曜と王弥の嫌隙は、洛陽への先陣争いから始まった。劉暾は王弥に、
「青州に還って本拠としましょう」
と説いた。王弥は意見を採用した。 王弥は、左長史の曹嶷を鎮東將軍とし、兵五千を給った。曹嶷は宝物を持って郷里の青州に行き、王弥が移住するお膳立てをした。王弥の部将である徐邈、高梁は、部曲を數千人率いて曹嶷に従い、王弥の元を去った。王弥の軍勢は、ますます衰弱した。
初,石勒惡彌驍勇,常密為之備。彌之破洛陽也,多遺勒美女寶貨以結之。時勒擒苟晞,以為左司馬,彌謂勒曰:「公獲苟晞而用之,何其神妙!使晞為公左,彌為公右,天下不足定也!」勒愈忌彌,陰圖之。劉暾又勸彌征曹嶷,藉其眾以誅勒。於是彌使暾詣青州,令曹嶷引兵會己,而詐要勒共向青州。暾至東阿,為勒遊騎所獲。勒見彌與嶷書,大怒,乃殺暾。彌未之知,勒伏兵襲彌,殺之,並其眾。
はじめ石勒は、王弥の驍勇を悪んで、つねに密かに王弥に備えていた。王弥が洛陽を破ると、美女や宝貨に手をつけず石勒の取り分を多く残し、石勒と結ぼうとした。 石勒が荀晞を捕らえ、荀晞を左司馬とした。このとき王弥は石勒に言った。
「あなたが荀晞を獲らえて用いるとは、なんと神妙なことか!荀晞を左司馬として、この王弥を右司馬にすれば、天下を定めるために何が不足だろうか」
〈訳注〉まるで下邳城で敗れた呂布だ。「曹操が歩兵を率い、この呂布が騎兵を率いれば云々」
石勒はいよいよ王弥を忌み、ひそかに王弥を片付ける計画を練った。 劉暾が王弥に「曹嶷を青州に行かせましょう」と勧めたから、曹嶷は青州に向った。石勒は、曹嶷の軍を攻めた。
曹嶷の軍が壊滅したので、王弥は劉暾を青州に行かせた。王弥は、曹嶷に残兵を率いて戻らせた。王弥と曹嶷は、石勒の目をあざむいて、ともに青州に向った。 劉暾が東阿に至ると、石勒は騎兵を出して、劉暾を捕らえた。石勒は、王弥が曹嶷に与えた書面を見て、大いに怒った。
〈訳注〉おおかた「劉曜と決別したし、石勒に敵視されている。青州に拠って劉淵から独立し、自前の新勢力を築こう」と書いてあったのだろう。
石勒は、劉暾を殺した。
王弥は、劉暾が殺されたのを知らなかった。石勒は伏兵で王弥を襲った。石勒は、王弥とその軍を殺した。
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝70、反逆者の列伝
1)王弥-上
2)王弥-下
3)張昌
4)陳敏-上
5)陳敏-下
6)王如
7)杜曾
8)杜弢
9)王機、王矩、その他
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