| | 『晋書』列伝70、反逆者の列伝 | 5)陳敏-下 | 絶頂だった陳敏は、坂を落ち始めます。
東海王軍諮祭酒華譚聞敏自相署置,而顧榮等並江東首望,悉受敏官爵,乃遺榮等書曰:
東海王の軍諮祭酒を務める華譚は、陳敏が自ら相署(相の役所)を置いたと聞いた。さらに華譚は、顧榮ら江東の首望の全員が、陳敏から官爵を受けたとも聞いた。華譚は、顧榮らに書面を遺した。 〈訳注〉華譚が「中原の名士は、陳敏を認めない」と言ってから、揚州の名士は目を覚まして、陳敏から離反します。
石冰之亂,朝廷錄敏微功,故加越次之禮,授以上將之任,庶有韓盧一噬之效。而本性凶狡,素無識達,貪榮幹運,逆天而動,阻兵作威,盜據吳會(中略)況吳會仁人並受國寵,或剖符名郡,或列為近臣,而便辱身奸人之朝(以下略)
「石冰之亂のとき、朝廷は陳敏のわずかな功績を評価し、不相応な礼を加え、上將之任を授けました。韓盧(人名)の一噬之效があるよう願っただけです。 〈訳注〉「庶」は、こいねがう。韓盧を調べねば、意味不明。 しかし陳敏の本性は凶狡で、もとより識達はありません。幹運が榮えるのを貪り、天を逆にして動じさせ、兵を阻んで威を作し、呉郡と会稽郡を盗み取って割拠しています。(中略) 呉郡と会稽郡の仁人は、西晋から優遇されているにも関わらず陳敏に味方し、名郡を分割したり、陳敏の近臣となって列しています。反逆者の作った朝廷に味方することは、とても恥ずかしいことです。 〈訳注〉省略しましたが、王莽に抵抗した人の故事が引いてありました。
昔吳之武烈,稱美一代,雖奮奇宛葉,亦受折襄陽。討逆雄氣,志存中夏,臨江發怒,命訖丹徒。賴先主承運,雄謀天挺,尚內倚慈母仁明之教,外杖子布廷爭之忠,又有諸葛、顧、步、張、硃、陸、全之族,故能鞭笞百越,稱制南州。然兵家之興,不出三世,運未盈百,歸命入臣。
(華譚の文書は続きます) むかし呉の武烈(孫堅)は、一代に稱美され、宛城や葉県で奇を奮いましたが、襄陽で受折(横死)しました。討逆(孫策)は氣が雄雄しく、志は中夏(中原)を目指し、長江に臨んで怒を發しましたが、丹陽の徒(許貢の食客)に命を終わらせられました。 孫権は先代から運を引き継ぎ、雄謀は天に届きました。内は慈母(呉夫人)の仁明之教に倚り、外は子布(張昭)が支えて宮廷で忠を争いました。また諸葛氏、顧氏、歩氏、張氏、朱氏、陸氏、全氏は、よく百越を鞭笞することができ、南州で政治を執りました。 しかし兵家が興るのは、せいぜい三代のみです。運はいまだ百代に満たず、歸命(孫皓)は晋に入臣しました。 〈訳注〉華譚の意見が集約されてます。武で立国しても、長くもたない。文で立国した晋は永続するはずで、名士は晋に味方すべきなのだ。
今以陳敏倉部令史,七第頑冗,六品下才,欲躡桓王之高蹤,蹈大皇之絕軌,遠度諸賢,猶當未許也。諸君垂頭,不能建翟義之謀;而顧生俯眉,已受羈絆之辱。皇輿東軒,行即紫館,百僚垂纓,雲翔鳳闕,廟勝之謨,潛運帷幄。然後發荊州武旅,順流東下,徐州銳鋒,南據堂邑;征東勁卒,耀威曆陽;飛橋越橫江之津,泛舟涉瓜步之渚;威震丹陽,擒寇建鄴,而諸賢何顏見中州之士邪!(以下略)
(華譚の文書は続きます) いま陳敏は令史らの役人を抱え、七第の宮殿は頑冗で、六品は才を下しています。 〈訳注〉六品下才の意味が分かりません。
一官職マニアさんから、掲示板で教わりました。
-------------------------〈引用始〉-------------------------
宮崎市定氏の「九品官人法の研究」による解釈だと、「いま陳敏は倉部の令史にして、七第の頑冗、六品の下才なり」と読み下し、
七第頑冗は度支都尉のこと、六品下才は郷品六品のことを指すと思われ、
おそらく郡吏から中央の倉部令史に移る際に、郷品六品を与えられたのだろう。
のようなことを書かれています。
>陳敏,字令通,廬江人也。少有幹能,以郡廉吏補尚書倉部令史。(中略) 朝廷從之,以敏為合肥度支,遷廣陵度支。
合肥度支,廣陵度支は度支都尉(七品)との解釈ですね。
越智重明氏の明徳出版社古典新書「晋書」(一部抜粋し翻訳&解説。解説メイン?)では、
「陳敏は尚書倉部令史に起家した、七第の卑しい身分、郷品六品の下才」と訳され、
解説で下記のように説明されています。
令史は郷品六品ものが就任する官で、陳敏は尚書倉部令史に起家したと考えられるから、
彼は元々郷品六品だったことになる。
陳敏の時代には家格固定化が進み、事実上郷品と才能は対応しなくなっていたが、
それでも郷品制度の標榜するところでは六品は下才。
それで(郷品)六品の下才と呼ばれた。
七第の頑冗は、七職と同じで、族門制出現以後の後門の付くべき七品級の官(職)のこと。
やや詳しく言えば、族門制下、後門に開かれている職(官)の品等は、流外の四品等と
流内の三品など(上は第七品官《中の二品勲位》から下は第九品まで)との七品等あり、
品等がこのように七つあるところから、七職、七等といった表現が生じたのだろう。
江東で自立を図ったとき、彼の官は高かったが、それに応じ郷品も上がっていただろう。
しかしもともとその郷品は(族門制出現以後の)後門の郷品である六品であるから、
その点を強調すれば当然、七第の頑冗と言うことになる。
宮崎氏の場合は、例としてあげられただけで解説はさほど詳しくないようです。
越智氏の場合は注釈なのでかなり詳しいが、六品に関しては基本的に同じ解釈?
また宮川尚志は「六朝史研究政治社社会編」で、
「七第の頑冗、六品の下才、官位も門地も卑しい成り上がりものの陳敏」
と書いておられ、特に細かい解釈までは書いておられませんが、
とにかく官位・身分が低い形容だと理解されているようです。
なお後門とは、甲族・次門に次ぐ第三等身分で、最初最下級士族、後上級庶民。
と言う理解の模様です。
以上ただ書き写しただけですが、六品下才を意訳するとこうなるのでは?
「陳敏は郷品六品にしかなれなかった才能のないやつである。よって、そんなやつに従うことはない」と。 -------------------------〈引用終〉-------------------------
陳敏は、桓王(孫策)や大皇(孫権)と同じことをしようとしています。しかし遠度の諸賢は、陳敏に孫呉をマネることを許していません。 〈訳注〉諸賢とは、中原の名士のことか。 揚州の諸君(あなたたち=顧榮ら)は、陳敏に頭を垂れていますが、陳敏を正しく導けていません。ただ命を惜しんで、陳敏に従う屈辱を味わっているだけです。 西晋は、陳敏を倒す準備をしています。荊州から武旅(軍隊)を發して、長江に沿って東下します。徐州の鋭鋒は、南下して堂邑に拠ります。兵を東に向ければ、晋の威光は歴陽で輝くでしょう。橋を飛び、橫江之津を越えれば、瓜步之渚を味方の舟で覆いつくすことができます。 〈訳注〉「泛」は、舟を浮かべる、水面を多いかぶせる。 そうすれば、晋軍の威は丹陽を震わせ、寇(陳敏)を建鄴で捕らえることができるでしょう。 陳敏が西晋に討たれたとき、陳敏に味方した揚州の諸賢は、中原の名士にどんな顔をして会うのですか」 〈訳注〉この続きで、「小寇」に味方して逆賊にならず、西晋のために「良策」を図れという、決心を迫る文が続きます。省略しましたが。 (華譚の文書は終わりです)
敏凡才無遠略,一旦據有江東,刑政無章,不為英俊所服,且子弟兇暴,所在為患。周、顧榮之徒常懼禍敗,又得譚書,皆有慚色。、榮遣使密報征東大將軍劉准遣兵臨江,己為內應。准遣揚州刺史劉機、甯遠將軍衡彥等出曆陽,敏使弟昶及將軍錢廣次烏江以距之,又遣弟閎為曆陽太守,戍牛渚。
陳敏はおよそ才に遠略がなかった。一旦は江東に割拠したが、刑政は章らかでなかったから、英俊な名士は服従しなかった。かつ陳敏の子弟は兇暴で、英俊な名士はこれを患いた。 周□や顧榮のような人たちは、つねに禍いを受けることを懼れた。顧榮らは華譚から文書を受け取って、みな慚色をあらわにした。 〈訳注〉危害を加えられることを恐れ、賊に味方していたことを暴露されたからだ。 周□と顧榮は、ひそかに遣いを出し、征東大將軍の劉准に、 「兵を遣わして長江に臨み、陳敏を圧迫しろ。私たちは内応してやる」 と伝えた。 〈訳注〉劉准は陳敏の元上司で、石冰を倒すために陳敏に兵権を分け与えた人。寿春を都督する。 劉准は揚州刺史の劉機と甯遠將軍の衡彥らを歴陽に出陣させた。陳敏は、弟の陳昶と將軍の錢廣に、烏江を防衛をさせた。また弟の陳閎を歴陽太守にして、牛渚を抑えさせた。
錢廣家在長城,鄉人也,潛使圖昶。廣遣其屬何康、錢象投募送白事於昶,昶俯頭視書,康揮刀斬之,稱州下已殺敏,敢有動者誅三族,吹角為內應。廣先勒兵在硃雀橋,陳兵水南、、榮又說甘卓,卓遂背敏。敏率萬餘人將與卓戰,未獲濟,榮以白羽扇麾之,敏眾潰散。敏單騎東奔至江乘,為義兵所斬,母及妻子皆伏誅,於是會稽諸郡並殺敏諸弟無遺焉。
陳敏の部将の錢廣は、家が長城にあり、□郷の人である。錢廣は、陳昶をだまし討ちにしようと考えた。錢廣は手下の何康を遣わした。 錢廣は、 「私は配下の兵を投げ出して、あなた(陳昶)の指揮下に入りたい」 という書面を、何康に持たせていた。陳昶が頭を俯けて書面を読んでいると、何康は刀を揮って陳昶を斬った。 「揚州の下では、すでに陳敏を殺した。あえて動く者は、三族を誅す」 と吹聴して内応した。 錢廣は先に兵を勒して、朱雀橋にいた。陳敏の兵は、川の南に布陣した。 周□や顧榮は、甘卓を説得した。甘卓はついに陳敏に背いた。陳敏は万余人の兵を率いて、甘卓と開戦するところだった。だが、顧榮が白羽扇を靡かせて指揮を取り、陳敏の軍を潰散させた。 〈訳注〉孫呉のマネを願った陳敏は、諸葛亮を気取った顧榮に敗れた。彼らも広義の「三国ファン」なんじゃないだろうか(笑) 陳敏は單騎で東に逃げて、江乘に至ったが、義兵に斬られた。陳敏の母および妻子は、みな誅に伏した。 これにおいて会稽諸郡は、陳敏の弟たちを残らず殺した。 「陳敏伝」は、波長が合わなくて、訳がうまく出来ませんでした。 |
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このコンテンツの目次 『晋書』列伝70、反逆者の列伝 1)王弥-上 2)王弥-下 3)張昌 4)陳敏-上 5)陳敏-下 6)王如 7)杜曾 8)杜弢 9)王機、王矩、その他 |
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