表紙 > 読書録 > 安田二郎「元嘉時代政治史試論」より、裴注誕生の背景

01) 南朝宋の文帝と、寒門台頭

安田二郎氏の論文を読みます。
「元嘉時代史への一つの試みー劉義康と劉劭の事件を手がかりにー」
というタイトルで、
初出は『名古屋大学東洋史研究報告』二、1973
です。著作集を出版するときに、タイトルをいじって「試論」にしたみたいです。意味は同じなので、格好を付けただけでしょう (笑)

東晋の次の南朝宋において、3代文帝は極めて現実的&政治的なニーズから、漢魏の歴史編纂をやったと確認することが、今回の文章のゴールです。コジツケになったらごめんなさい。
南朝宋の個別の出来事に関心があるわけじゃないので、論文からの引用は、かなりカンタンにやります。

南朝宋のお国柄

南朝宋は、皇族同士が殺しあって滅びた。その端緒は、南朝宋がいちばん栄えた文帝の時代にある。

いま安田氏はこの論文で引用していないが、南朝宋の末期に皇族が
「今度生まれ変わるとき、少なくとも皇族だけは御免だ
と言った。そういう王朝である (笑)

東晋を滅ぼして、南朝宋を建国した劉裕は、東晋を反面教師にして、
「皇族の藩屏を強化せよ」
と遺言した。だが世代が下れば、兄弟は他人になる。早くも劉裕の子の文帝は、弟を退けて、皇子を大切にした。

西晋の武帝も同じだ。というか、きっと万国共通の傾向だ。

文帝のやり方を前例にして、400年代後半の前廃帝と明帝の時代には、皇族の皆殺しが行なわれた。南朝宋は滅びた。

文帝VS寒門

文帝に激しく退けられたのは、弟の劉義康。事件が起きたのは、西暦440年からである。
劉義康がなぜ敵視されたかと言えば、文帝から与えられた人事権を行使して、寒門出身者を才能重視で登用したから。寒門が劉義康の支持基盤となった。寒門が劉義康を祭り上げたのは、現体制をひっくり返して、新興の自分たちが有利な体制を作ろうとしたから。現体制と戦うには、皇帝の対抗者となる皇弟が最適だった。

出世するには、一に名声、二に血筋。そんな後漢や三国の風潮は、東晋の滅亡とともに、消え去ってしまったようで。

なぜ文帝は、寒門を無視できなかったか。
このころ農民層が階層分化し、寒門の出身で血筋が尊くなくても経済力を持つ人が出てきた。南朝宋は、例えば北魏と戦うときに、寒門の援助を受けなければ、戦役が成立しなかった。

安田氏がこの論文を書いた時期は、まだ歴史学者たちがマルクス主義と付き合っている時期です。生産の形態が社会を規定するという議論で、その転機を南朝宋に求める話でしょう。
もっとも安田氏は、論文の末尾でこの話に触れるのみで、敵前逃亡をしてしまったけれども。


いちどは庶民に落とされた劉義康だが、2回も推戴された。445年の范曄の叛乱。447年の胡誕世と袁ウンの叛乱。

范曄は『後漢書』を書いた人です。安田氏は欠かさず「范曄の反乱」と括弧を付けて書いていますが、その理由が論文内で説明されていません。
范曄が何をやったのか、なぜ反乱が括弧付きになるのか、『後漢書』を知るために是非とも抑えておきたいのになあ。

劉義康を抹殺して叛乱は収束したが、支持基盤であった寒門の動きは、変らずに活発だった。
寒門は、次は皇子の劉劭を味方につけて、文帝を切り殺した。これ以後の南朝宋では、寒門が活躍する。皇族が殺しあったのは、台頭した寒門に踊らされてのことである。

寒門が列伝に登場しても、前時代とのつながりがない。つまり、漢魏晋ファンにとっては、あまり脈絡の感じられない時代です。陸遜ファンが陸機に感情移入するような楽しみ方ができない。


論文の話はこれまで。
次は、南朝宋の文帝のとき、なぜ『三国志』裴松之註や『世説新語』『後漢書』が生まれたのか、考えてみたいと思います。