表紙 > 読書録 > 安田二郎「元嘉時代政治史試論」より、裴注誕生の背景

02) ないものねだりの歴史事業

前回は安田氏の、元嘉時代の論文を読みました。
次は『三国志』にひきつけた話です。

失って初めて、大切さに気づいたよ

ここから、論文を読んでの感想を書きます。
ぼくが文帝の時代に興味を持っているのは、『後漢書』『世説新語』が作られ、『三国志』に裴松之が註釈を付けたからです。
ぼくら三国ファンが鑑賞して楽しい本が、たった1代で急ぐように完成した。何らかの時代の要請があるからに違いなくて。なぜだ?

卑近な例を持ってくると、大学生が卒業旅行をするようなものじゃないかと思うのです。まだしばらく学生時代が続くと思っていれば、油断しまくって、バイトに精を出したりする。だが社会人になる期日が迫ると、焦って遊ぶのです。バイトなんて辞めちゃうさ。
失われそうになって初めて、大切さに気づくのです。人間関係でも、似たようなものでしょう。

六朝は貴族制の時代だと言うけれど、いまいち実感に乏しい。前時代の歴史学が、機械的に当てはめたステレオタイプかも知れず…。ほとんど貴族制の論文を読んだことがないので、勉強不足のくせに不用意なことは言えませんが。
ただ少なくとも今回の安田論文においては、文帝は寒門に脅かされている。ついには寒門に殺されてしまう。文帝は、特定の一族が安定して政治家を輩出し続けた時代を懐かしみ、歴史の名著ラッシュを起こしたんじゃないかと思う。
メンタリティとしては、卒業旅行と同じです。

劉裕が手を抜いたツケ

文帝はすでに皇帝だから、秩序の安定を望みます。
でも南朝宋そのものが、下克上の王朝です。食うに困るような家に生まれた劉裕が、腕力だけで建国した王朝です。これは、前代の王朝とは決定的に違う。

魏の曹操は、革命を言い訳するための既成事実を、入念すぎるくらいに作った。
晋の司馬氏は、名門でした。秦漢時代から役人で、魏朝では宰相としての功績が大きい。司馬さんは自分も学者だし、さらに周囲に学者を集めて、革命のロジックを作った。
もし司馬氏の王朝を正しい手続きを踏んで滅ぼそうとすれば、名門出身の賢者が徳に徳を積み重ね、じわじわやる必要がある。だから滅ぼすには非常なコストがかかる。
っていうか、現実的に滅ぼすのはムリである。
司馬氏の両晋は、両漢と魏が450年を費やして作った「永続する帝国」というフィクションを継承している。だから西晋が滅びて、裸一貫で揚州に流れてきた司馬睿が、皇帝を名乗ることができた。五胡十六国の中には、東晋を正統と仰ぐ国がある。桓温や桓玄では、東晋を滅ぼせなかった。

東晋をきちんと段取りを踏んで滅ぼすのはムリだ。劉裕は開き直ったのでしょう。劉裕が建国するときはショートカットして、正統性を作ることに手を抜いた。強けりゃ天下を取っていいと主張するなら、秦末の混乱に逆戻りだ。漢魏の伝統をご破算にした。
「やったらやり返される」
という不文律があるようにね、南朝宋もまた、寒門出身の将軍にカンタンに滅ぼされる資格があるのです。ぼくが文帝だとしたら、滅ぼされるのはイヤだ。

文帝の矛盾と屈折が、三国ファンに貢献した

ないものをこそ、欲しくなる、という人間の皮肉な本性を否定することはできない。南朝宋には歴史も正統もないから、劉裕の子である文帝は、漢魏の秩序に憧れた。文帝の態度は、矛盾めいて滑稽ですが、とても人間らしい。
漢魏の歴史を書きとめながら、同じ手で、寒門に推戴された劉義康を遠ざけた。寒門は秩序を破壊する元凶だから。
安田論文は、文帝の歴史事業のことは何も言っていないが、文帝の胸の内を推測したとき、歴史編纂と寒門排斥の2つの仕事に矛盾はないとぼくは思います。

三国時代にもっとも近接する時代にいて、最も早く三国ファンになったのが、南朝宋の文帝とその同時代人である。いや、ファンと言うべきじゃないな。趣味の教養じゃなく、体制安定のための装置だから、真剣さは生半可ではない。
しかも南朝宋の人は時間軸が三国に近いから、後世のぼくらとは比べ物にならないほどに、情報収集しやすいのです。三国ファンがバイブルと仰ぐ本が、立て続けに完成されました。

おわりに

一般的に、成功したり充足している人の話は洞察が浅くて、通り一遍でつまんない。「自慢かよ」と飽きられる。
逆に、失敗した人や屈折した人は、ゴチャゴチャと弛まずに悩んでいるから、興味深い発言をたたき出したりする。文帝の屈折が三国ファンに名著を提供した。劉裕の手抜きと、南朝宋の皇族の悲しい運命には、感謝をせねばならんかも。

王莽と劉秀の一連のやりとりが落ち着いたとき『漢書』が整理された。班固の仕事に示されるように、ひと段落して前時代の意味づけを終了して初めて、時代が変わるのです。
帰宅するまでが遠足ではない。写真を現像してアルバムにしまいつつ、ガヤガヤ思い出を確認しあうまでが遠足です。すなわち、禅譲が終了するまでではなく、歴史書を作って王朝の興廃を振り返るまでが、一連の物語なのだと思う。三国の後日談は、南朝宋の文帝に到って初めて終わるのです。091122