表紙 > 読書録 > 宮城谷『三国志』より、関羽と劉備の最期を考える

03)関張を裏切りかねない

劉備は諸葛亮との出会いをキッカケに、志の矛盾を解消しました。
老子と劉邦の両立は、不可能である。だったら目標を劉邦に絞り込んで、皇帝即位を目指そう」
というわけで。
二兎を追うものは、、という諺に気づいたのでしょう。劉備は、あだ名がウサギなだけに。
しかし劉備のこの決心に、割を食った人がいた。関羽です。

関羽と劉備の決裂

有名な成語に「水魚の交わり」がある。
劉備と諸葛亮の仲の良さを表す言葉です。だが同時に、裏読みすれば、劉備と関羽とのギャップを表す言葉でもある。日常生活の中で機会があれば、権力者の寵愛を失った「過去の側近」に、使ってみたいものだ(笑)

関羽がわざわざ曹操から帰ってきたのは、諸葛亮と会う前の劉備を支持したからでしょう。
例えばお腹が空いていたとする。とにかくたくさん食べたい。ただし過剰な偏食家で、お米よりもパンが食べたい信念があったとしましょう。曹操が、
「最高級の新米を好きなだけお食べ」
と、もてなしてくれた。対する劉備は、
「粗末なパンしかないが、食べに戻らないか」
と誘った。
自分の食べたいものしか食べない主義なので、粗末でもいいから、パンを選ぶでしょう。これが関羽という人だ…関羽をここまでスポイルした例えを他で読んだことがないが(笑)
だが劉備は、諸葛亮と交わった。結果、
「まずい古米しかないが、そのうち新米を手に入れるからね」
に成り下がった。つまり、曹操の劣化版になってしまった。関羽は劉備との縁を、ひそかに切った。

関羽は、魏呉の2国にはさみ撃ちにされ、負けたとされる。だが、蜀からも攻められていなかったか。宮城谷氏は、こんなことは書いてないが、喚起されて思ったことです。
劉封や孟達が裏切り、麋芳と士仁があっさり敵に降った。成都がのちに、彼らをどう裁いたかは別として、
「関羽が蜀に裏切られた」
が、まず起こっている。これが第一段階。
そして第二段階。関羽はついに、益州に逃げなかった。宮城谷氏の解釈では、
「蜀に逃げ帰ろうとしたのではなく、不正な呉と戦うことが関羽の目的だった」
と書かれていた。これは同義のままで、
「蜀へ帰ることを辞めた」
と言い換えることができる。 描写のない場面だが、関羽の脳内では、益州の関所が閉ざされて、入れてもらえないイメージが出来上がっていただろう。締め出しは、攻撃に等しい。
関羽は、魏呉蜀から攻められていたんだ。そりゃ、負けるよね。
配下の兵士たちは、わざわざ呂蒙が家族を優遇しなくても、とっくに逃げたのだと思う。曹氏、孫氏、劉氏に攻められて倒れたのは、他ならぬあの袁術さまだ(笑)二の舞だけは、非常に御免です。

桃園結義の結末予想

関羽が呉に斬られ、張飛が寝首を掻かれ、劉備が敗戦で衰弱する。そんなのは分かりきったことですが、ここではイフ物語として、
「もし劉備が棄てる美学を貫いたら、関張との関係はどうなったか」
を考えてみたいと思います。
結論としては、劉備が関張を棄てる、だと思う。

まず赤壁後、劉備は荊州南部を接収する。周瑜が駄々をこねたら、さっさと返却する。周瑜が益州を攻めたいと言えば、先鋒とならざるを得ない。だが、劉璋の部将の抵抗にあって、いまいち勝てない。

史実で劉備が益州を平定するとき、荊州の人材と資財を注ぎ込んだにも関わらず、けっこう苦戦しました。もし周瑜の先鋒をやっていれば、もっと人と物の条件が悪く、しかもモチベーションが低い。勝てるかどうか、微妙なのです。


周瑜は、劉備の拙い戦いぶりを、冷笑しながら見ている。劉備と劉璋を潰し合わせたいのでしょう。
劉璋は、益州が戦火に見舞われるのを嫌う人なので、劉備に会談を持ちかける。劉璋は、劉備に益州を譲ってしまう。周瑜は勇んで、
「劉備は呉の先鋒だ。速やかに益州を明け渡せ」
と言い始める。諸葛亮はイヤがる。劉備もまた、さっさと逃げ出すほども周瑜が強くないので、いちおう鼎立はする。しかし、州牧としての割拠であり、王や帝への野心はない。
漢中に張魯を攻めるが、なかなか勝てない。諦める。

曹操が南下して、漢中に攻め込んだ。劉備は漢中に手出ししない。

史実では、曹操から漢中を守り抜いたことが、「持つ人」としての劉備を確立された画期です。あの堪え根性を、老子風の劉備だったら発揮しなかったと思う。

曹操が成都を目指す。
関羽と張飛は、それぞれ益州の重要拠点を任される。さながら劉璋が劉備を拒んだように、漢中以南の防衛線を張るのです。
曹操だけでなく、孫権まで介入して、劉備は敗走する。劉備は、蒼梧にでも逃げて行く。

当陽で敗走したとき、劉備は魯粛に言いました。
「蒼梧で余生でも送るよ」
のちの劉備から逆算すると、この発言は、それこそ「大嘘な方便だ」と見なされる。だが、劉備の本心だったんじゃないか。蒼梧で、天下に介入せずに暮らすのが、老子者のゴールである。

情報が寸断されているから、関羽も張飛も、劉備の詳細を知らない。だが、城を守るのが使命だと心得て、討ち死にをする。だが劉備は、桃園の結義を守らずに、すたこらと南方に逃れていく、、

桃園結義のウソ

ここまで「結義、結義」と書いておいてアレですが、
「誕生日は違うけど、命日は同じにしようね」
と言うのは、小説です。そんなことは分かっています。
いま老子風の劉備を見ていて気づいたことですが、劉関張の人間関係の必要充分条件を、もう一度よく吟味してみる必要があるんじゃないでしょうか。
よく3人の関係を証明する、正史における証拠として、一緒に寝起きしたって記述が引き合いに出される。三国ファンは、わりに正史寄りの人でも、何となく3人の親密に納得しているわけですが、、ちょっと慎重になって下さい。

同日に死にたいなら、ベッドを共有してもいい

これは成立します。わざわざ結義までしたのに、一緒に寝たくない、ということはないでしょう。しかし逆命題の、

ベッドを共有するなら、同日に死にたい

というのは、必ずしも成立しません。

ある命題が正しいなら、必ず成立するのは、対偶だけ。裏も逆も、正しいとは限りません。劉備の例では、
「ベッドを共有したくないなら、同日に死にたくもない」
です。そりゃそうで笑、一緒に寝たくもない奴と、一緒に死ぬのはイヤなのです。

もし劉備が心の底で、
「このヒゲたち、暑苦しいなあ」
としか思ってなかったとしても、正史とは逆らわないのです。劉備が他人を棄てちゃう性格で、関羽と張飛に、結義するほどの愛着を抱いていなかったという仮説もありえる。

劉備は老子風をやめて、がめつく漢中王になった。この事実は関羽を落胆させたでしょう。しかし劉備が露骨に関羽を裏切るという場面を招かなかったのだから、むしろ幸せだったのかも。
関羽については分からないが、後世のファンにとっては、
「見たくないところを、見なくて済んだ」
ので、とても良かったですね。もちろん王としての成否と、物語のキャラとしての成否は、別に論じられるべきですが。

おわりに

宮城谷『三国志』は、一部では長さが騒がれていますが、ぼくは簡潔すぎると思う。だから、八巻のオマケだった公孫度みたいに、関連した短編が成立するほどで。漢代ともなれば、春秋時代と違って、史料が多いからねえ。
宮城谷『三国志』は、ここから100本の小説を派生させても涸れないくらいに、可能性の幹を提示しただけだと思う。
老子風の劉備が、可能性の筆頭だと思うのですが、いろいろ膨らませていきたいと思っています。091020