01)本のぬきがき
山口久和先生の『「三国志」の迷宮』を読み直しています。
山口先生は、大阪の朝日カルチャーセンターで講義をなさっていて、ぼくも講義に通っていました。今はぼくが引っ越してしまったから、行っていませんが。今でも講義の声を鮮明に思い出すことができます。
この本の副題は、「儒教への反抗 有徳の仮面」です。これは、曹操論と劉備論が導き出した指摘です。曹操が「儒教への反抗」で、劉備は「有徳の仮面」です。まず本の内容を抜き出して、その後にぼくが考えたことを記します。
6つの人間のタイプ
孔子は人間を4つのタイプに分類した。
1)中庸のとれた君子
2)猪突猛進の狂者(何にでも飛びつく)
3)慎重居士の狷者(何にも飛びつかない)
4)八方美人の郷愿(主体性のない偽善者)
これを受けて孟子は、君子と郷愿を区別することを、思想家である自分の使命だとした。
清の章学誠は、
「時代が下ると、人心は素朴さを失って浮薄になった。孔子が作った4つのタイプに、偽狂者と偽狷者が加わった。複雑怪奇な様相を呈した」
と述べた。つまり、猪突猛進を装う人と、慎重居士を装う人が出てきた。
次に縦軸に、真偽を設定した。上に行けば本物で、下に行けば偽者である。
章学誠が空欄を埋めたので、2×3=6タイプの人間が設定された。
劉備は、君子の仮面を被った偽善者(郷愿・偽君子)である。曹操は、周囲に露悪趣味をふりまき、悪役を演じた。偽悪者(偽狂者)である。
劉備も曹操も「偽」であり、役者だった。
儒教が国教になったわけ
董仲舒の献策による。なぜ道家と法家ではなく、儒家が選ばれたか。
◆法家
法家は、韓非が理論化し、李斯が実用した。信賞必罰を実効するため、強大な軍事力や、張り巡らされた警察組織を必要とする。国家の権力経済にとって極めて大きな負担となる。賈誼の「過秦論」に指弾された。劉邦に、コスト高の法家を採用するだけの、国家的ゆとりがなかった。
◆道家
戦乱に疲弊した漢初の国情と民情に、最も適した。文帝のとき、一世を風靡した。だが、外的強制を否定するから、国家の支配イデオロギーにならない。
◆儒家
「里」と呼ばれた村落共同体に、生活習慣や価値観を具現した「父老」がおり、家族生活の延長のようだった。自然発生的に、儒教的な倫理や規範が行なわれていた。国家レベルに横滑りさせれば、皇帝権力を確立させるのに役立った。
後漢は、中国史に例を見ない礼教社会である。
司馬光は『資治通鑑』の中で、
「三代(夏殷周)すでに亡びてより、風化の美、いまだ東漢の盛んなるごときものあらず」
と言った。儒教は、国家制度と社会制度と密着しすぎたため、国家や社会と共倒れとなる。儒教は、国家イデオロギーとしての価値を失った。
名教の罪人-曹操論
曹操は宦官の孫である。儒教社会で宦官は、背徳者である。理由は、父母から授かった身体を損ない、子孫を後に残せないからである。曹操は、蔑視された。
曹操は、異姓養子の子である。異姓養子は、儒教で「贅」である。宗族(大家族制度)の純粋性を失わせて、宗族の緊密を薄める恐れがある。曹操は、蔑視された。二重の蔑視である。
曹操は事細かな遺言で、禅譲について一言も語らない。天下への未練がなく、漢臣であることに甘んじたように見える。だがこれは、後世を誑かすポーズである。『世説新語』には、曹操が人を欺く話がたくさん載っている。曹操は人を騙すのだ。
『曹瞞伝』で曹操は、軽佻浮薄な日常態度を描かれている。正統的な士大夫とは、かけ離れたものである。しかし曹操に教育が欠如したことを示すエピソードではない。書物を手離さず、詩も管弦も設計もできた。
この矛盾した人物像は、曹操が名教(儒教的規範)への反抗したから生まれた。『論語』では、
「君子、重からざれば威あらず」
と説いた。この教えのせいで、後漢の士大夫は、無趣味で小粒な教養人、しかつめらしい常識人になり、偽善的ですらあった。曹操は、自らの出自(宦官の異姓養子)を否定する儒教道徳に、憎しみ以上のものを感じた。だから儒教に反抗した。
後漢で儒教に反抗することは、社会と国家に対する叛逆だった。曹操は社会のアウトローから転じて、創業の主に翻身した。ために曹操は、楊脩を殺し、崔琰を殺し、そして荀彧を殺した。
儒教倫理は、動機主義である。孟子は、
「殺人を好まざる者が王者だ。不義をなし、無辜を殺して天下を得るのは、非だ」
と言った。覇者は、心術の功利性、その手段の不純によって卑しめられた。結果の善が、動機・心術・手段の悪を正当化しない。しかし曹操は、涙を流しながらも、知人を刑殺した。儒教倫理に反抗し、冷徹に計算した合理主義である。
曹操は復讐を禁じた。儒教は「父の讐はともに天を戴かず」と言うが、それでは治安が乱れるので、禁止である。
曹操は厚葬を禁じた。民百姓に無駄な負担を強いるから、いくら儒教が重視しようと禁止である。
儒教は、有徳の為政者による道徳的感行を期待して、政令を二次的手段と見なした。だが曹操は、軍律を峻厳に適用した。「包囲された後に降服しても、容赦しない」という軍律は、211年まで19年間、徹底された。
後漢は、政治とは道徳実現の場で、国家とは倫理的共同体だと見なした。だが曹操は、政治は権力闘争の場で、臣下は能吏であり、君主に忠であれば、倫理は必要なかった。
曹操の治績は「良く用いられた残虐」と評価できるだろう。
偽善と任侠-劉備論
後漢はモラル偏重の社会である。裏面として、偽善の風潮が醸成された。范曄が言う、
「仁を利する者」
である。皇甫規が党錮の禁で自首した。劉虞は、妻に美服させながら、自分はボロ冠を被った。宦官が、在野の賢人の抜擢に、狂奔した。曹騰にもこの気味がある。
人間性の虚構の上に、偽善があり、モラルの漫画化がある。虚構化された仮面を、真実の人間と取り違える。だが、世を挙げて仮面に欺かれていたのではない。仮面を真実の人間性の表現として、信じることをみずから欲したのだ。
劉備は盧植の下で、儒教イデオロギーの社会的効用を学び取った。だが学問が嫌いなので、教養を深めなかった。だが劉備は、仁や義や漢室復興の大義を述べるから、尊敬された。
劉備の偽善の仮面は、簡単に剥がれる。劉備の血筋は疑わしいし、董卓を討つ姿勢に欠けるし、漢中王を勝手に名乗るし、帝位に即いた。劉備は、「仁を利する」人である。
劉備が劉琮から荊州を奪わなかったのは、曹操から守り通せないという冷静な計算だ。龐統に、益州を奪った後の宴会で、たしなめられた。
劉備は、「後漢200年の名教社会が生んだ最大の偽善者」である。
ではなぜ劉備の偽善の仮面に、関羽、張飛、孔明が欺かれたか。
「桃園決義」に脚色された人間関係は、既成の秩序からドロップアウトした人間同士が、支配社会に反抗するために結ぶ心理的紐帯である。劉備は、社会的物質的基盤がないのに、天下争奪の争いに加わった。このハンデを補填するため、任侠の精神を用いた。
任侠の精神は、全人格を挙げて1人の人物に傾倒し、命を捨てる献身をする。非合理的であるため、利害打算を度外視する。双務契約によって結ばれる、通常の君臣関係ではない。君主は、より少ない代価で、より大きな献身を引き出すことができる。疑似血縁的関係を擬装すると、任侠の精神が成立する。董卓が呂布に持ちかけたように。
劉備は、「年少」の者と、一見対等のごとく付き合ったのだろう。これが劉備の狡猾な洞察力と智慧である。
遊侠無頼の徒たちは、劉備の人間的魅力の虜となった。なぜなら任侠の精神の持ち主は、おのれを認めてくれる人のためなら、身命を捨てても恩義に報いようとする信義の徒であったから。既存の社会からの逸脱者(亡命者や乱暴者)が混ざり、関羽や張飛がそれである。
マックス・ウェーバーは、カリスマに基づく支配を提起した。合法的支配、伝統的支配と対比できる、第3の支配である。
カリスマは、被支配者が自由に承認するものである。ゆえにカリスマ的支配は、非常に不安定だ。だから劉備は、関羽、張飛、孔明による、カリスマの演出を必要とした。