表紙 > 読書録 > 江上波夫『騎馬民族国家』、日本誕生は司馬氏のおかげ

02) 日本建国は司馬氏のしわざ

江上波夫『騎馬民族国家』1967中公新書
を読みました。
三国志と日本についての着想を得ました。
この辺りから、ぼくが好きなことを書きます。

日本史の始まり

まず再度、江上氏の説を確認します。畿内を征服したのは、応神天皇や仁徳天皇だそうです。
仁徳天皇の在位は、諸説あるでしょうが(真剣に論じる必要もなかろうが)西暦312年から399年だそうです。西晋の統一が終わって、五胡十六国が旬になる時期に重なります。

君主の名前も出自も何でもいいが、とりあえずこの時期に、あれだけ面倒くさい古墳を作るだけの、大きな権力があったのは事実でしょう。

前頁で、江上氏の①~⑧で見たように、この時期から、日本の出土品に変化があるらしいですね。

4世紀の終わりに統一を終えて、5世紀には倭の五王が、南朝宋に使者を遣る。日本史が、この頃に始まったと言えそうです。
騎馬民族だか何だか知らないが、とにかく日本列島に変化があった。これだけは確かだ。
日本は、南朝宋や北魏と並行して生まれた国というイメージで良さそうです。「五胡十六+1国」と言えるかも。

「十六」に確かな根拠がないことは知ってますが、、言葉遊びです。

三国志の終わり

三国志の終わりとは、ぼくらの知っている三国志のキャラたちの直接の影響が、なくなった時点だと思っています。

さて、話が遡って恐縮ですが、
両漢の400年間は「皇帝は1人しかいない」という約束で、東アジアの秩序が保たれていました。だが、諸葛亮が劉備を口説いて、約束を破りました。孫権が約束を破りました。
「辺境の1地域でも支配していれば、自立できるんだ」
という前例を作りました。パンドラの箱を開けた。

漢族は、三国時代を経験しました。そのせいで、せっかく西晋が天下統一しても、司馬氏の王たちは、独立国みたいに振る舞いました。八王の乱で、争った。司馬氏が、中国の分裂を助長した。
秩序の中心にいる司馬氏が「バラけろ」と言うんだから、東アジアの秩序は分解するのみ。
まず、匈奴の劉淵が趙漢を作りました。胡族たちは国家づくりを模索して、5世紀の初めに北魏というかたちで、集大成しました。

北魏とは、司馬氏が、三国の次の時代の秩序を作りそこねた、副産物です。ただし北魏はユニークなものではない。東アジアの秩序の周辺地域なら、どこでも類似品が生まれ得る、モデルに過ぎないと思う。
江上氏によれば、誕生したばかりの日本は、北魏と似ています。司馬氏の失敗は、北魏だけでなく、日本をも生んだんだと思う。
司馬懿の孫や曾孫たちの功罪の、直接的な影響下にあるという点で、日本建国前夜までが、三国志と捉えてもいいんじゃないかなあ。

騎馬民族なんていません

五胡十六国の盛衰に見られたように、5世紀初め、漢族の周辺にいた非漢族(胡族)に、一定の建国パターンがあるのかも。だから、
「北魏のような騎馬民族に、日本列島が征服された」
ではなくて、
「中原の周辺諸国で起きた、北魏を代表例とした潮流に連動して、日本でも国が誕生した」
と言った方が、ぼくは納得がいきます。

ぼくの話を間違いなく伝えるため、 アリガチな誤解を解きます。
江上氏が「騎馬民族国家」なんてキャッチーな書名をつけたせいで、日本建国が、蒙古襲来(元寇)のイメージと混ざっていませんか。京都のお公家さんや、鎌倉の武士たちが、モンゴルの猛々しい騎馬隊に、蹂躙されているイメージです。
違うのです。
4世紀は、海や山こそあれ、シームレスに1つの東アジア世界がありました。対馬海峡を隔てて、農耕に生きる日本の原住民と、東北アジアから南下した野蛮な騎馬民族が、「外交交渉」や「侵略戦争」をやったのではない。並行して、民族性を作る最中だった。

民族性が育つ前は「漢族の周辺の人」が共通のアイデンティティだ。

たしかに江上氏が言うように、農耕民族は保守的です。だから、アグレッシブに、騎馬文化を摂取したりしないでしょう。
しかし、司馬氏のヘマのせいで、4世紀は、遠心力がとても強い時代です。べつに騎兵隊が吶喊して来なくても、文化を注入されたかも知れない。筋肉注射を押し込むように、ぐいぐいと強引に。

今回のまとめ:邪馬台国への挑戦状

江上氏は5世紀の初めに、騎馬民族が日本列島を征服したといった。
ぼくは騎馬民族など知らないが、5世紀の初めに、日本列島で何らかの統一権力が生まれたことだけには同意。
その統一権力を生み出した原因は、諸葛亮の天下三分や、司馬一族の失政まで遡っていいと思っています。ここに、日本誕生と『三国志』とのつながりを見出し、嬉しくなっております。
邪馬台国論争ばかりが、三国志と日本史の接点じゃない。100211