表紙 > 人物伝 > 曹操が腫れ物のように扱った、夏侯惇

02) 先祖をとても尊敬した夏侯惇

夏侯惇について、気になっていることが5つあります。

2.夏侯惇は、曹操の腫れ物である

べつに左目が、腫れているのではない。笑
前ページに見たように、曹操と夏侯惇は、先天的に結びつかない。
にも関わらず夏侯惇が、曹操の君主権を脅かした話はない。理由は、夏侯惇の個人的な性格だろう。(後述)
経歴で語るなら、曹操と対等を主張できる。

経歴を見ておきます。
夏侯惇伝によれば、はじめ曹操が挙兵したときから、夏侯惇は裨将として従った。黄巾の乱のときかな。
兵力の裏づけがない曹操は、190年6月に奮武将軍を名乗ったとき、夏侯惇を司馬にした。ほんとうにスタートから、右腕だ。

曹操の初期最大のピンチは、徐栄に敗れて、手持ちの軍隊が壊滅したときだ。武帝紀によれば、曹操と夏侯惇は、揚州で募兵した。揚州刺史の陳温と、丹陽太守の周昕に、4000をもらった。帰り、兵が離反した。『魏書』では、曹操が自ら剣を振り回し、沈静した。
後年の強大さと比べると、まるで格好がつかない状態だ。夏侯惇は、創業する苦楽を、曹操とともにした。

功績だけではない。夏侯氏という血筋が、曹操に厄介だ。
前ページに書いたが、たとえば丁氏は同郷人。
(三国ファンから見ればマイナーな)丁儀との婚姻につき、曹操と曹丕は、ガヤガヤと議論している。また曹操は曹昂を殺して、丁夫人から離婚された。曹操と言えども、郷里での力関係から、自由ではなかったことが知れる。

在地勢力に苦慮したのは、孫権ばかりじゃないんだ。

曹操が、夏侯惇を魏臣にしなかった(できなかった)のは、自然だ。
寝床に人を出入りさせないことで有名?な曹操は、夏侯惇に許した。つまり、夏侯惇ならば、いつでも曹操を殺せた。曹操は、それを許した。これが曹仁だと、許褚に入室を断られる。笑

3.夏侯惇の性格は?

曹操は優れた人だが、大きなミスが多い。『蒼天航路』では、夏侯惇は曹操の母親のようだと言われた。彼の包容力、たしかに母性だ。
夏侯惇は、どんなキャラなんだ?
これを思ったとき、ぼくは前漢の夏侯嬰だと気づきました。

きっと夏侯惇は、われこそは夏侯氏の棟梁だと自覚し、夏侯嬰の再来を目指したのです。
夏侯惇は、先生を侮辱した人を斬り、陣中に先生を招く人です。根っこで、先祖や先輩への敬意が強すぎるのでしょう。だからひたすら、夏侯嬰を演じることに、徹したのだと思う。

関羽は目上に対抗し、張飛は目下を虐待した。
だが夏侯惇は、目上(学問の先生や、曹操)を敬い、目下(自分を見捨てた韓浩や、氾濫地域の民衆)にも理解がある。夏侯惇がバランスを取れたのは、適切なロールモデル=夏侯嬰がいたからだ。


夏侯嬰は、劉邦の臣。劉邦が間違えて、夏侯嬰を傷つけた。夏侯嬰はシラを切りとおした。偽証罪で、逆に夏侯嬰が罪を問われても、劉邦の無実を言い続けた。(君主に対する、母性の表われ)
劉邦に、根拠地の沛を与えた。(兗州の戦いに通ず)
雍丘で、丞相・李斯の子を戦車で破った。(後漢末、張超がこもる城)
目下の韓信を、兵卒から抜擢。(夏侯惇は、同じ韓姓の韓浩を使う)
劉邦が子を捨てたが、助けた。(君主一族を、君主以上に護衛する)

ほら、見事に符合しました!
夏侯惇の気性の激しさと、慎み深さが、説明できたと思います。
悪くいえば「先祖コンプレックス」ですね。

4.夏侯淵とペアではない

曹操は夏侯惇に遠慮している。だが夏侯淵に対して曹操は、上から目線の発言が目立つ。
「将軍なら、もう少し慎重にしないとダメだ」
「夏侯淵は、白地将軍(バカ将軍)だ」
曹操がリラックスしている。この気安さは、何なんだ?

夏侯惇は、夏侯氏の棟梁。対して夏侯淵は、夏侯惇の「族弟」となっているが、その他大勢の若者だろう。立場が、ずっと弱い。

夏侯淵伝によれば、夏侯淵は曹操に、刑罰から救ってもらった。恩を与えるほど、曹操に余裕がある。夏侯惇と違う。

夏侯淵が際立つ戦績を残すのは、官渡の戦の後だ。曹操の創業から、重要な仕事をしてきた夏侯惇より、10年以上も遅い。

夏侯惇と夏侯淵を、左右対称に見たくなるが、まるで違う。夏侯惇は厄介な重鎮で、夏侯淵は使いやすい一軍人だ。
出世の速度もぜんぜん違う。将軍号を初めてもらうのが、夏侯惇は195年ごろ、呂布を退けたとき。夏侯淵は212年、長安に指揮官として赴いたとき。17年も違うのか?差が大きすぎないか?

夏侯惇の官位が、異常に高いのです。

例えば、袁紹を滅ぼしたとき、夏侯惇は伏波将軍、河南尹。しかも法制に縛られない特権を得た。同じとき夏侯淵は、督軍校尉として、せっせと兵糧を調達している。

両目が開いていても、夏侯惇は前線を走り回ったりはしなかっただろう。
「目を負傷したから、後方に引っ込んだ」は、きっと違う。
夏侯惇と呂布との戦いは、偶然に遭遇したから戦っただけだ。曹操は夏侯惇をアゴで使わない。戦わせられない。

5.目を負傷した時期

『演義』で夏侯惇は、曹性に左目を射られる。
ちゃんと調べてないが、198年ごろの設定か?
陳寿が「夏侯惇が劉備を助けたが、高順に敗れた」と書いているあたりかな。呂布を殺す直前です。

だが正史では、195年より後にはならない。
なぜなら、左目を負傷したあとに夏侯惇は、陳留太守と濟陰太守に戻されているから。つまり、曹操がこの2郡を回復する前に、負傷してもらわねばならない。

『蒼天航路』では、早くも190年に負傷した。隻眼キャラを立てるために、前倒しした。『演義』も人気商売だ。キャラを目立たせねば。
隻眼になるという美味しいイベントがあるのに、わざと3年以上も遅らせた理由が分からん。そこだけはセンスを疑います。

おわりです。勉強会、宜しければご参加ください。100404