表紙 > 考察 > 倭の五王は、ぼくの知りたい三国志を終わらせた

02) 王莽から南朝宋まで

西嶋定生『中国史を学ぶということ』に啓発されて、
自分語りをさせて頂いています・・・

ぼくの三国志の始まり

漢字文化を共有する日本は、後漢の光武帝のときに始まりました。
歴史とは、文字文化の所産です。ぼくが知りたい、文字文化のある日本の「有史」時代は、光武帝の時代に幕を開けました。

考古学の人が「先史」時代の地層を掘ってるが、興味がない。でも出土品の文字には、興味がある。矛盾は・・・してません・・・


日本の始まりを、もっと遡れないか?という疑問を潰します。
前漢の武帝のときまで、朝鮮国が前漢に敵対した。日本からの使者は、地理的に長安に行けなかった。
だから武帝より以前に、東アジア世界への加入時期を置けない。
『漢書』には、日本が朝見したと書いてあるが、まだまだ接点が少ない。字入りの下賜品がない。漢字を学ぶ動機がない。

西嶋氏が言ったように、儒教を国教化し、周辺と冊封体制を築くというシステムができたのが、王莽のときだ。中国が冊封に本気になる前に、日本が冊封されるなどあり得ない。
いくらか前に見積もっても、スタートは王莽の時代だ。

先史のネアンデルタール人

中国の正史に、日本の叙述が少ないことにイライラする人は多い。しかし、東アジア世界の一員(今日のぼくらの直接の祖先)の営みは、正史に登場するだけで全部だ。
正史に出てこない「日本の原住民」は、異文化の外国人みたいなもの。ぼくが知りたい、日本史の当事者ではない。絶滅したと言われるネアンデルタール人みたいなものだ。
ぼくは頭が文系だから、「縄文人のDNAが」とは言わない (笑)

「日本史の起源を知りたい」
という、ぼくが三国志を好きになった動機の意味を広げたなら、王莽以降が、ぼくの関心の対象となるのです。

王莽はビッグバンから生まれたのではなく、王莽の以前にも歴史があることは知っています。しかし、闇雲に手を広げると、薄まるしね。

論理的でないことを承知で、象徴的な表現をすれば、こうなります。
「ぼくの求める三国志(日本史の起源)は、王莽から始まる

ぼくの三国志の終わり

幹から枝が分岐したところが、ぼくの三国志の終わりです。分岐したところから、中国史は「外国の歴史」となります。

西嶋氏に教えられるまで限定できなかったが、倭王武(雄略天皇?)が終点だろう。5世紀の後半だ。倭王武は、列島を駆け巡り、敵対者を排除して、国家の体裁を整えたらしい。

倭王武による、自己申告ベースでは。
っていうか、中国皇帝が言い分を認め、官位をくれた。申告内容を正史に書いてもらえた。これなら、文字記録にあるという意味で「史実」と言える。歴史屋は、目の前にあって確かな「史実」を、どう逆立ちしても証明不可能な「事実」よりも重んじる癖がある (笑)

倭王武は「治天下大王」を名乗り、華夷秩序からの離脱を図る。この時期、南朝宋の後期あたりから、国史は分かれるのです。

倭王武の国力が、中国皇帝に匹敵したと言いたいんじゃない。きっと倭は、果てしなく弱い。そうでなく、「本人たちが天下の中心だと考え、そう書き残した」ことが、ぼくにとって重要なのです。心意気だ。

北朝:北魏は、日本の兄

北魏が493年に洛陽に遷都した。北魏は鮮卑の拓跋部だ。
彼らは、日本史の源流となる中国皇帝ではない。非漢族として、自前の国家を作り始めた。つまり、国力や居場所に違いはあれ、北魏は、日本と並行した国だと思う。親でなく、兄である。

論理的に説明できない、第6感で恐縮ですが。。
北魏の仏教文化が栄えた辺りから、急に「外国の歴史」を読んでいる気分になる。仏教が広まったあたりから、なぜか急速に・・・。
中国と全く違う、日本仏教の歴史を見ているからかなあ。

南朝:裴松之の時代を最後に

南朝も同じ。5世紀後半、外国になる。
少し遡って経過を追います。
5世紀前半、宋の文帝の時代に、裴松之が『三国志』に注を付けたり、『後漢書』や『世説新語』が成立したりする。前時代の文化が消えそうだから、惜しんで記録したんだと思う。
日本史が分岐する、前夜のできごとだ。思い出の総まとめだ。

備忘録をつける発想だ。記憶力が絶倫で、性格が安定して、明日も全く同じように生きられると思えば、わざわざ日記を付けたり、関連資料を集めたりしないはずだ。
南朝の漢族たちは、漢魏や両晋と断絶するのを感じ、新しい風潮の到来を予想した?


やがて南朝宋は、450年ぐらいから、皇族同士の殺し合いが激化する。南朝宋を建国した劉裕の子孫さんが、
「次に生まれるとき、皇族だけは御免だ」
と漏らしたことは有名。
こんな露骨な殺し合いは、ぼくは道徳観念としてキライと言うより、歴史を読む者として、楽しめない。
「気まずくなったら殺しちゃえ!」
では、策謀も言い訳も、深まらないのだから。魏晋のように、ネチネチと頭を悩ませて責め合ってこそ、面白いのです。

1人が殺された現場を、何人もが何時間もかかって検証するから、面白い。動機は何だろうか、人間関係はどんなかな、、と。
爆弾で一気に数十万人も殺したら、比例して、数十万倍おもしろくなるワケない。道義的な問題も、そりゃあ、あるけどさ。

ドライな殺人の連鎖に、ぼくは日本史の源流を見ません。あまり共通点がないような気がするのです。だから面白くないのかなあ。
南朝宋の後期と、斉、梁、陳は、分岐が終わった「外国」です。もっと言えば隋は、聖徳太子が露骨に客体化した外国です。隋でも、節操なく殺害がくり返されます。ウンザリします。

カンタンに殺すから悪だ、見て見ぬふりをしたい、日本史から切り離したい・・・なんて議論では、一切ありません。

倭の五王が、終わらせた

5世紀前半、倭の五王が足しげく朝貢した。倭の五王は、列島の統一戦争で勝つために、南朝宋のバックアップが欲しかった。
だが倭王が勝ち終われば、次に中国に対してやるのは、独立宣言。倭の五王は、中国にベッタリ頼りたいから、朝貢の頻度を上げたのでない。裏腹なのです。

人間関係で同じことをやったら、「恩を仇で返した」と嫌われる。

5世紀後半、日本は北魏とも南朝宋とも、違う国になりました。つまり、ぼくが日本史の源流を探るという意味での「三国志」は、終わってしまいました。裴松之の時代で終わるなんて、キレイです (笑)

おわりに

会社に勤めながら、中国史を楽しく読んでいる毎日ですが・・・いつかぼくは、日本史に帰ることがあるんだろうか。こればかりは、全く分かりません。故事では、桃源郷から一度出たら、再訪できない。100203