02) 周氏から、三公を2人だす
周瑜のことを、よく知るために『後漢書』を翻訳します。
梁冀にくみした、俗っぽい周景
景字仲饗.辟大將軍梁冀府,稍遷豫州刺史﹑河內太守.好賢愛士,其拔才薦善,常恐不及.每至歲時,延請舉吏入上後堂,與共宴會,如此數四,乃遣之.贈送什物,無不充備.既而選其父兄子弟,事相優異.常稱曰:「臣子同貫,若之何不厚!」
周景は、あざなを仲饗という。
周景は、梁冀の大将軍府に、登用された。周景は、豫州刺史、河內太守を務めた。
周景は賢者を好み、士人を愛し、彼らの才能を用いた。
梁冀と同じタイプの人間だと分かる。
年末には、周氏にゆかりのある人を集めて、宴会をした。贈り物のやりとりが派手だった。周景は、仲間たちの父兄子弟までも、特別に優遇した。
周景は、いつも言っていた。
「臣下と子供を、同じように可愛がる。これ以上に、手厚く行きとどいた、人との接し方があるだろうか」
先是司徒韓演在河內,志在無私,舉吏當行,一辭而已,恩亦不及其家.曰:「我舉若可矣,豈可令積一門!」故當時論者議此二人.
これより先、司徒の韓演は、河內郡にいた。
韓演の志は、無私だった。韓演は、誰かを役人に用いるときも、一言かけるだけで、一族の子弟まで優遇しなかった。
韓演は言った。
「人材登用は、これで充分だ。どうして一族の子弟にまで、恩をバラまくことがあろうか」
ときの人は、対照的な周景と韓演について、話題にした。
ちくま訳では「極端さを批判した」となっていたが。
景後徵入為將作大匠.及梁冀誅,景以故吏免官禁錮.朝廷以景素著忠正,頃之,復引拜尚書令.
のちに周景は、洛陽に入り、將作大匠となった。
梁冀が誅されると、周景は梁冀の故吏だったから、免官&禁錮された。だが朝廷は、周景がもとより忠正だから、このころ尚書令とした。
延熹中(158-167)洛陽で、遊侠の奴らが、順帝の陵墓を盗掘し、埋葬品を売りさばいた。
周景は、司隷校尉の左雄に、管理責任を問い詰めた。
周景は、虎賁の左駿を罰した。周景は左駿の頭を、地面に押し付けた。左駿は、顔面を血が覆った。3日して、犯人がつかまった。
いま読んだ、
周景の「忠正」な勤務ぶりは、將作大匠のときのもの。宗廟の建築を司るそうだ。だがぼくは、左氏に私怨があるように見える。笑
遷太僕﹑衛尉.六年,代劉寵為司空.
周景は、太僕、衛尉に移った。
延熹六年(163年)周景は、劉寵に代わって、司空となった。
是時宦官任人及子弟充塞列位.景初視事,與太尉楊秉舉奏諸姦猾,自將軍牧守以下,免者五十餘人.遂連及中常侍防東侯覽﹑東武陽侯具瑗,皆坐黜.朝廷莫不稱之.視事二年,以地震策免.歲餘,復代陳蕃為太尉.建寧元年薨.以豫議定策立靈帝,追封安陽鄉侯.
周景が司空になったとき、宦官は、与党や子弟を登用して、列侯の位をおおい尽くした。
周景は司空に着任したとき、太尉の楊秉とともに、姦猾な宦官たちを弾劾した。
將軍や牧守以下で、罷免されたのは50余人。周景の弾劾により、中常侍で防東の侯覽や、東武陽侯の具瑗らまでもが、罷免された。
朝廷で、周景と楊秉をたたえない人はいなかった。
周景が司空になって2年。地震があったので、司空を罷免された。
1年あまりして、周景は陳蕃に代わって、太尉となった。
建寧元年(168年)周景は薨じた。霊帝の即位を手伝ったから、周景は死後に、安陽鄉侯に封じられた。
周瑜の祖父の代、周崇と周忠
長子崇嗣,至甘陵相.
周景の長子の周崇がつぎ、甘陵国相になった。
中子忠,少歷列位,累遷大司農.
周景の中子は、周忠である。周忠は、若くして官位を歴任し、大司農となった。
周瑜の父の代、周暉と周異
忠子暉,前為洛陽令,去官歸.兄弟好賓客,雄江淮閒,出入從車常百餘乘.及帝崩,暉聞京師不安,來候忠,董卓聞而惡之,使兵劫殺其兄弟.忠後代皇甫嵩為太尉,錄尚書事,以災異免.復為衛尉,從獻帝東歸洛陽.
周忠の子は、周暉である。さきに洛陽令となったが、官位を返上して、帰国した。
周暉の兄弟は、賓客を好み、長江や淮水の流域で、一大勢力となった。
周暉と周異らが外出するとき、車が100台以上も従った。
霊帝が死ぬと、周暉は首都圏が不安定になったと聞き、政情と距離をおいた。董卓は、これを聞いて周暉を悪み、殺そうとした。
のちに周忠は、皇甫嵩に代わって太尉となった。周忠は錄尚書事をかねた。だが、災異があったので罷免された。また周忠は、衛尉に復職した。献帝に従って、長安から洛陽に帰った。
贊曰:袁公持重,誠單所奉.[一]惟德不忘,延世承寵.孟侯經博,侍言帝幙.棱﹑榮事君,志同鸇雀.[二]
『後漢書』の賛がいう。初代の周栄は、袁安に重んじてもらったから、誠意を尽くして仕えた。袁安の志は、鸇雀と同じである。
おわりに
『後漢書』で周氏は、袁安の付属品だ。袁安がなぜ立派かと言えば、後漢でもっとも栄えた家だからだ。
つまり周氏は、後漢への忠義により、名を立てた。
周氏は、後漢を蔑ろにする、董卓を許さない。もっと言えば、曹操を許さないのだろう。献帝が洛陽に帰るまで、周氏は従ったのに、その後は協力した様子がない。
献帝が曹操に保護されるのが、196年。周瑜が孫策と合流し、協力が固まるのが、この前後。何かある?
『後漢書』は、わざと周異(周瑜の父)の名すら出さない。
周異と周瑜は、三国の呉の人物であり、後漢に反逆した側である。そういう范曄の判断なのかな。厳しいことだ。100325