表紙 > 考察 > シロウトにしか書けない『三国志』とは

01) 史料批判、4つのパタン

史料批判の話を通じて、
研究者は書くことができないが、シロウトならば書ける」
という、歴史物語や考察文の方向性を発見します。

ぼくは、研究者ではありません。ゆえに、シロウトの特権を振り回し、面白おかしく三国志について書いていたいです。そのために、研究者との違いを、明確にしておきたいと思います。

史料批判のフレームワーク

3月20日21日と、東京に行きました。
いろいろな方に啓蒙されまして(ありがとうございました)以下のフレームワークを考えました。

         史料を信じる   史料を疑う
 史料にある    パタン1     パタン2
 史料にない    パタン3     パタン4

表を作るのが面倒なので、文字をズラしただけの表です。
まず縦軸は、ある出来事が、文字資料に残っているか否かを指します。例えば、曹操が魏王になったことは、史料にあることです。曹操が生前に魏帝になったのは、史料にないことです。
つぎに横軸は、文字資料を読むとき、それを疑うか否かの態度を指します。曹操が魏王になったと書いてあるのを読み、そのまま信じるか。それとも信じないで、「魏王にすら、なっていないのでは?」「本当は魏帝にまで、なったんでしょ」と距離を取るのか。

縦×横により、2×2=4パタンが考えられます。

フレームワークと活躍領域

研究者の本領は、パタン2です。
シロウトの本領は、パタン4です。

ぼくはシロウトですから、パタン4の世界で、大いに筆を振るいたい。このことを、以下で詳しく書いていこうと思います。

パタン1:史料があり、史料を信じる

研究者でもシロウトでも同じです。
典拠をきちんと掲げて、ほかの人が、引用作業の正しさを検証できるようにすれば、おしまいです。

パタン2:史料があり、史料を疑う

ある事柄について記した史料があるとき、誰も反論できないことが1つだけあります。なにか。
「ある事柄について記した、史料が存在する
ということです。

前提条件でそう言っているんだから、当たり前だ。同じことを2回言っただけですね。すみません。
でもこの点は、ちゃんと区別し言いたいので、わざわざ書きました。

つぎは似て非なる話です。ある事柄について史料があっても、必ずしも言えないこともあります。なにか。
「史料にあることは、事実である」

史料と事実を仲立ちするのが、史料批判です。
書いた人が、事実を枉げたかも知れない。書いた人の利害関係は、どんなか。書いた人の政治的な立場は、どんなか。書いた人の思想信条は、どんなか。書いた人の興味関心は、どこにあるか。
書いた人を勘ぐるだけでは足りない。
ほかの人が書き加えなかったか。佚文(逸文=失われた文)はないか。今日まで残存している理由は、どんなか。どんな人が、どういう理由で保管したか。どこに、どういう形態で保管されていたか。

批判の視覚は、もっといっぱいあると思います。ご教示ください。

史料を補う&割り引くのが、史料批判。

史料批判は、研究者のご飯のタネです。
いかに説得力のある史料批判ができるかで、研究者としての業績が決まるのでしょう。
ぼくらシロウトも、史料批判が、全くできないワケじゃない。ちくま訳を読みながらでも「あれ、これ本当かなあ」と首を傾げればよい。

もっと間口を広げてもいい。『三国演義』をもとに描いた物語を、疑ってもいい。研究者は「その作業は歴史学ではない。文学だ」だと120%おっしゃるだろうが、いい。ぼくらはシロウトだから。笑
『演義』の奇抜さを疑い、ちくま訳に行くときの思考回路は、史料批判に似ていると思う。

当たり前ですが、シロウトの史料批判は、研究者より鈍い。読める史料の範囲とか、史料を読みこなす能力とか、新しい出土史料への感度とか、どれも負けてしまう。
とても残念ですが、これは事実です。勉強をがんばるのみ。

パタン3:史料がなく、史料を信じる

「史料に書いていない理由は、そもそも元ネタの事実がないから
という立場です。
例えば曹操は、日本列島に渡ったとは、史料に書いてない。だから曹操は、日本列島に渡っていない。とくに意識しなくても、人間の発想は自然とこうなるでしょう。

次回は、パタン4:史料がなく、史料を疑う。
シロウトだけが、縦横無尽に活躍できる領域について。