表紙 > 考察 > シロウトにしか書けない『三国志』とは

02) 妄想を公開できる、特権

史料批判の話を通じて、
研究者は書くことができないが、シロウトならば書ける」
という、歴史物語や考察文の方向性を発見します。

「史料にあるか×史料を信じるか」という、2×2のフレームワークで場合分けして、シロウトなりの三国志の楽しみ方を探しています。

パタン4:史料がなく、史料を疑う

ないものを疑うとは、禅問答のようですが。平たく言えば、
「記録にはないが、事実はあったんでしょ?」
という勘ぐりだ。

解りにくいから、具体例をあげます。
たとえば、
「袁紹が劉表を皇帝に推戴しようと考えていた」
という記述は、史料にありません。いわゆる妄想というやつです。しかし、あり得ないとも言い切れない。と思う。

劉表の話は、ぼくが3年前に書いたことです。
皇帝になるつもりのおじさん劉表伝

史料に書いてないけれど、状況証拠を集めれば、無限に話ができる。
さらにそれを、
「史料のこの部分は、そんな風に、読めなくもないよね」
という具合で、接続させればよい。

研究者は、史料にないことに対し、沈黙を守るしかありません。敢えて感想を述べるとしても、
「ふーん」
としか言えないそうだ。それ以上でも以下でもない。

推理小説に例えます。
状況証拠だけでは、法的に有罪を立証できない。犯人を追い詰めることができない。だから警察は、沈黙を守ります。しかしシロウト探偵は、勝手に仮説を立てて、ぐいぐい捜査を進める。

研究者は、個人的な集まりで、自由に意見を述べることはあるでしょう。しかし、裏づけの充分でない想像を、公言はできない。

ぼくは気楽に、テキトーな話をウェブで公開してます。これができるのは、シロウトだからです。


ぼくらシロウトは、史料が残らなかった理由まで、まことしやかに組み立てて、自分の妄想を補強することができます。
ファン同士の交流で「新説を披露」することができます。
研究者には、できないことです。

「犯人は、凶器をこの川に捨てたという。この川は水流が速い。ゆえに凶器は、とっくに太平洋に流れ出てしまった。発見はムリだが、凶器を捨てたという自白は、本当だろうね」
シロウトは、この説明でいい。
なぜなら、筋は通っているから。もしかしたら、真実かも知れない。
だが警察から見て、この指摘は1ミリも役立たない。なぜなら、犯罪の証拠にならないからだ。せいぜい「ふーん」としか言えない。


もちろん、いくらシロウトの妄想とは言え、史料に書いてあることを、無視してはいけない。史料にあることと、矛盾しない範囲で、オリジナルな仮説を立てる自由があると思うのです。

シロウト探偵は、事件を解決してナンボだ。冤罪に陥れちゃダメ。

もし史料と違うことを言うなら、それなりの史料批判を経るべきだ。

小説ならば、史料と矛盾していい。いちいち、ことわる必要はない。
小説を評価する尺度は、史料との整合性ではない。面白いか、つまらないかだ。ぼくは史書を読むのが好きですが、『三国演義』を尊敬しています。

シロウトが三国志をやるなら

ビジネスで大切だと言われるのが、
「競合との差別化」
です。つまり、自分にしか作れないものを、作りましょうと。
すでに市場を寡占している会社に対し、まったく同じ商品&売り方で攻めても、勝てるわけがない。後発は、つねに不利なのです。

三国志を読むとき、ぼくらシロウトが、研究者に対して差別化できるのは、どこか。上で書いた、パタン4です。史料にないことを、妄想で補うことです。

シロウト探偵ならば、犯人をワナに嵌める。犯人しか知りえない情報を口にさせ、妄想を補う。犯人の失言は、警察も使える証拠となる。
しかし歴史の場合、シロウト探偵の手法は望めない。口を滑らせてくれる、犯人がいないからだ。いま以上の情報は手に入らない。妄想に終始する。研究者とは並行線のままだ。
(金石文が発掘されたら、新展開をむかえますが)
また、反論する容疑者がいないから、推理ミスにも気づかない。。


「史料に書いていないことは、証明できない
という限界が、職業的な研究者に立ちはだかっています。頭がボンヤリしていて、証明できないのではない。なぜ証明できないか、証明できている。そういう「解らなさ」だ。

「史料的制約」といいます。

この限界は、同時に、ぼくらシロウトが楽しむ余地を与えてくれているのだと思います。
『三国志』は、史料が多すぎもせず、少なすぎもせず、いい感じです。

研究分野としては、時期が短いので、不自由な素材のようですが。


ぼくはシロウトですが、
自分なりの『三国志』を書きたいという目標があります。ホームページのタイトルも、その目標から取っています。
書くならば、パタン4に属することは何かを捉え、その部分を意識して攻めたいと思います。

研究論文を読めば、「研究者が、もうこれ以上は言えないこと」が分かる。狙いを定められるはず。

そうすれば、論文の劣化版でなく、情趣のない小説でもなく、
「学問と小説のあいだ」
みたいな文章ができるかも知れない。がんばろう。100322