02) 妄想を公開できる、特権
史料批判の話を通じて、
「研究者は書くことができないが、シロウトならば書ける」
という、歴史物語や考察文の方向性を発見します。
「史料にあるか×史料を信じるか」という、2×2のフレームワークで場合分けして、シロウトなりの三国志の楽しみ方を探しています。
パタン4:史料がなく、史料を疑う
ないものを疑うとは、禅問答のようですが。平たく言えば、
「記録にはないが、事実はあったんでしょ?」
という勘ぐりだ。
解りにくいから、具体例をあげます。
たとえば、
「袁紹が劉表を皇帝に推戴しようと考えていた」
という記述は、史料にありません。いわゆる妄想というやつです。しかし、あり得ないとも言い切れない。と思う。
皇帝になるつもりのおじさん劉表伝
史料に書いてないけれど、状況証拠を集めれば、無限に話ができる。
さらにそれを、
「史料のこの部分は、そんな風に、読めなくもないよね」
という具合で、接続させればよい。
研究者は、史料にないことに対し、沈黙を守るしかありません。敢えて感想を述べるとしても、
「ふーん」
としか言えないそうだ。それ以上でも以下でもない。
状況証拠だけでは、法的に有罪を立証できない。犯人を追い詰めることができない。だから警察は、沈黙を守ります。しかしシロウト探偵は、勝手に仮説を立てて、ぐいぐい捜査を進める。
研究者は、個人的な集まりで、自由に意見を述べることはあるでしょう。しかし、裏づけの充分でない想像を、公言はできない。
ぼくらシロウトは、史料が残らなかった理由まで、まことしやかに組み立てて、自分の妄想を補強することができます。
ファン同士の交流で「新説を披露」することができます。
研究者には、できないことです。
シロウトは、この説明でいい。
なぜなら、筋は通っているから。もしかしたら、真実かも知れない。
だが警察から見て、この指摘は1ミリも役立たない。なぜなら、犯罪の証拠にならないからだ。せいぜい「ふーん」としか言えない。
もちろん、いくらシロウトの妄想とは言え、史料に書いてあることを、無視してはいけない。史料にあることと、矛盾しない範囲で、オリジナルな仮説を立てる自由があると思うのです。
もし史料と違うことを言うなら、それなりの史料批判を経るべきだ。
小説を評価する尺度は、史料との整合性ではない。面白いか、つまらないかだ。ぼくは史書を読むのが好きですが、『三国演義』を尊敬しています。
シロウトが三国志をやるなら
ビジネスで大切だと言われるのが、
「競合との差別化」
です。つまり、自分にしか作れないものを、作りましょうと。
すでに市場を寡占している会社に対し、まったく同じ商品&売り方で攻めても、勝てるわけがない。後発は、つねに不利なのです。
三国志を読むとき、ぼくらシロウトが、研究者に対して差別化できるのは、どこか。上で書いた、パタン4です。史料にないことを、妄想で補うことです。
しかし歴史の場合、シロウト探偵の手法は望めない。口を滑らせてくれる、犯人がいないからだ。いま以上の情報は手に入らない。妄想に終始する。研究者とは並行線のままだ。
(金石文が発掘されたら、新展開をむかえますが)
また、反論する容疑者がいないから、推理ミスにも気づかない。。
「史料に書いていないことは、証明できない」
という限界が、職業的な研究者に立ちはだかっています。頭がボンヤリしていて、証明できないのではない。なぜ証明できないか、証明できている。そういう「解らなさ」だ。
この限界は、同時に、ぼくらシロウトが楽しむ余地を与えてくれているのだと思います。
『三国志』は、史料が多すぎもせず、少なすぎもせず、いい感じです。
ぼくはシロウトですが、
自分なりの『三国志』を書きたいという目標があります。ホームページのタイトルも、その目標から取っています。
書くならば、パタン4に属することは何かを捉え、その部分を意識して攻めたいと思います。
そうすれば、論文の劣化版でなく、情趣のない小説でもなく、
「学問と小説のあいだ」
みたいな文章ができるかも知れない。がんばろう。100322