表紙 > 漢文和訳 > 『漢書』より、皇帝を廃しても名臣とされる、霍光伝の表現技法を味わう

02) 宣帝を立てて「関白」する

「袁術本紀」を作ろうとしています。
前漢の霍光は、皇帝を取り替えているのに、名君とされています。同じことをした王莽や梁冀は、口汚く罵られているのに。
どうやれば「名臣」を描けるのか、班固先生に学びます。

皇帝をクビにするための奏上(前半)

群臣以次上殿,召昌邑王伏前聽詔。光與群臣連名奏王,尚書令讀奏曰: 丞相臣敞、大司馬大將軍臣光(中略)死言皇太后陛下。
臣敞等頓首死罪。
劉賀をおろすための提案を、命を懸けて、やります。

天子所以永保宗廟總一海內者,以慈孝、禮誼、賞罰為本。孝昭皇帝早棄天下,亡嗣,臣敞等議,禮曰「為人後者為之子也」,昌邑王宜嗣後,遣宗正、大鴻臚、光祿大夫奉節使征昌邑王典喪。
劉賀には、昭帝の喪主を務めてもらうはずでしたが、

服斬縗,亡悲哀之心,廢禮誼,居道上不素食,使從官略女子載衣車,內所居傳舍。始至謁見,立為皇太子,常私買雞豚以食。
昭帝の死を悲しむマナーが、できていません。

受皇帝信璽、行璽大行前,就次發璽不封。從官更持節,引內昌邑從官騶宰官奴二百余人,常與居禁闥內敖戲。自之符璽取節十六,朝暮臨,令從官更持節從。
印璽をもてあそんで、権力を握った嬉しさが、こらえ切れない。

為書曰:「皇帝問侍中君卿:使中禦府令高昌奉黃金千斤,賜君卿取十妻。」大行在前殿,發樂府樂器,引內昌邑樂人,擊鼓歌吹作俳倡。會下還,上前殿,擊鐘磬,召內泰壹宗廟樂人輦道牟首,鼓吹歌舞,悉奏眾樂。
女遊びと音楽をやり、服喪の気配ゼロです。

發長安廚三太牢具祠閣室中,祀已,與從官飲啖。駕法駕,皮軒鸞旗,驅馳北官、桂宮,弄彘鬥虎。召皇太后禦小馬車,使官奴騎乘,遊戲掖庭中。與孝昭皇帝宮人蒙等淫亂,詔掖庭令敢泄言要斬。
昭帝の宮人と遊び、口外したら腰斬だといいます。
劉賀さんは、こういう人間なのです。皇帝には、不適任です。

太后曰:「止!為人臣子當悖亂如是邪!」王離席伏。
皇太后は言った。「やめなさい。人の臣であり、子でもあるものが、このように、道に外れたことを、やっていいでしょうか」

ここの解釈と訳文は、三木氏より。
劉賀は、昭帝から見れば、子であり、臣でもある。

以下、さらに劉賀の行動が弾劾されています。上奏の途中で、皇太后が口を挟んでしまったという話。よほど劉賀が不興を買ったのだと、よく現れています。

皇帝をクビにするための奏上(後半)

尚書令複讀曰:取諸侯王、列侯、二千石綬及墨緩、黃綬以並佩昌邑郎官者免奴。變易節上黃旄以赤。發禦府金錢、刀劍、玉器、采繒、賞賜所與遊戲者。與從官官奴夜飲,湛沔於酒。詔太官上乘輿食如故。食監奏未釋服未可禦故食,複詔太官趣具,無關食鹽。太官不敢具,即使從官出買雞豚,詔殿門內,以為常。
劉賀は、身分の上下を、倒錯させて遊びました。

獨夜設九賓溫室,延見姊夫昌邑關內侯。祖宗廟祠未舉,為璽書使使者持節,以三太牢祠昌邑哀王園廟,稱嗣子皇帝。受璽以來二十七日,使者旁午,持節詔諸官署徵發,凡一千一百二十七事。
昭帝でなく、自分の父を祭りました。皇帝が使える使者を、1127回も使い走りさせて、権限をもて遊んでおります。

文學、光祿大夫夏侯勝等及侍中傅嘉數進諫以過失,使人簿責勝,縛嘉系獄。荒淫迷惑,失帝王禮誼,亂漢制度。臣敞等數進諫,不變更,日以益甚,恐危社稷,天下不安。
諌めた人を獄につなぎました。天下は、ビビッています。

臣敞等謹與博士臣霸、臣雋舍、臣德、臣虞舍、臣射、臣倉議,皆曰:「高皇帝建功業為漢太祖,孝文皇帝慈仁節儉為太宗,今陛下嗣孝昭皇帝後,行淫辟不軌。《詩》雲:『籍曰未知,亦既抱子。』五辟之屬,莫大不孝。周襄王不能事母,《春秋》曰『天王出居於鄭』,繇不孝出之,絕之於天下也。
高帝や文帝の仕事と、劉賀はズレています。先祖の仕事を台無しにするのは、もっとも不孝なことです。周の襄王は、不孝なので、君主をクビになり、出て行きました。

宗廟重于君,陛下未見命高廟,不可以承天序,奉祖宗廟,子萬姓,當廢。」臣請有司御史大夫臣誼、宗正臣德、太常臣昌與太祝以一太牢具,告祠高廟。臣敞等昧死以聞。
君主その人よりも、祖先の宗廟のほうが、重要です。まだ劉賀は、高帝に正式に即位の報告を行っていません。廃してしまいましょう。

劉賀の退場、霍光による粛清

皇太后詔曰:「可。」光令王起拜受詔,王曰:「聞天子有爭臣七人,雖亡道不失天下。」光曰:「皇太后詔廢,安得天子!」乃即持其手,解脫其璽組,奉上太后,扶王下殿,出金馬門,群臣隨送。
皇太后は、郡臣のチクりを認めた。劉賀は「諌めてくれる臣が7人いれば、天子は、天下を失わない」と言った。

三木氏は、劉賀のセリフに「私は臣下の言うことを聞くだろう」と追加している。劉賀の勘違いぶりが、いっそう浮きたつ。

霍光は劉賀に、「あんたは、もう天子じゃないんだよ」と言った。

王西面拜,曰:「愚戇不任漢事。」起就乘輿副車。大將軍光送至昌邑邸,光謝曰:「王行自絕於天,臣等駑怯,不能殺身報德。臣甯負王,不敢負社稷。願王自愛,臣長不復見左右。」光涕泣而去。
劉賀は西を拝み「バカな私は、皇帝になれませんでした」
霍光は泣いて謝った。「私は劉賀さまに、臣下として殉じることはできませんでした。私は、劉賀さまを裏切っても、漢室を裏切ることはいたしません。もう劉賀さまとお会いすることはないでしょう」

曹操の名台詞「私が天下を裏切っても、天下に私を…」を思い出させる。
霍光は泣いているが、涙の中身は、けっこう残酷である。


群臣奏言:「古者廢放之人屏于遠方,不及以政,請徙王賀漢中房陵縣。」太后詔歸賀昌邑,賜湯沐邑二千戶。昌邑群臣坐亡輔導之誼,陷王於惡,光悉誅殺二百餘人。出死,號呼市中曰:「當斷不斷,反受其亂。」
霍光は、劉賀の臣下200余人を殺した。
劉賀の臣下は「霍光を殺さないから、俺たちがやられた」と言った。

霍光は、まったく容赦がありません。
涙のうそ臭さが、『演義』劉備を思い出させる。


霍光が宣帝を立て、「関白」する

光坐庭中,會丞相以下議定所立。
皇帝を誰にするかのミーティング。この表現は流用しやすい。

孝武皇帝曾孫病已,武帝時有詔掖庭養視,至今年十八,師受《詩》、《論語》、《孝經》,躬行節儉,慈仁愛人,可以嗣孝昭皇帝後,奉承祖宗廟,子萬姓。臣昧死以聞。」
宣帝が選ばれました。

明年,下詔曰:「夫褒有德,賞元功,古今通誼也。大司馬、大將軍光宿衛忠正,宣德明恩,守節乘誼,以安宗廟。其以河北、東武陽益封光萬七千戶。」與故所食凡二萬戶。
霍光は、宣帝からご褒美をもらいました。

光自後元秉持萬機,及上即位,乃歸政。上廉讓不受,諸事皆先關白光,然後奏禦天子。光每朝見,上虛己斂容,禮下之已甚。
日本史の「関白」の語源です。
皇帝は霍光の前では、ビビッてへりくだり、例を尽くした。

霍光の死、宣帝の背中のトゲ

光秉政前後二十年,地節二年春病篤,車駕自臨問光病,上為之涕泣。光薨,上及皇太后親臨光喪。
死にました。
天子思光功德,下詔曰:「功如蕭相國。」
霍光は、蕭何にひとしい。

宣帝始立,謁見高廟,大將軍光從驂乘,上內嚴憚之,若有芒刺在背。後車騎將軍張安世代光驂乘,天子從容肆體,甚安近焉。及光身死而宗族竟誅,故俗傳之曰:「威震主者不畜,霍氏之禍萌於驂乘。」
宣帝は霍光と同乗したとき、霍光にはばかり、背中にトゲが刺さっている心地だった。霍光の子供たちが滅ぼされたあと、世間はこう言った。「主君をおびやかす人は、滅ぼされて当然だ。霍光が宣帝に同乗し、宣帝に不快を味あわせたとき、霍氏の末路は決まっていたのだ」

おわりに

『漢書』で霍光は、けっこうエグい。好悪も策略も、むき出しだった。
のちに歴史書のイメージで語られるほど、「理想の外戚で、理想の廃立劇をやった」ようには、描かれていない。
霍光は、子の代で宣帝に滅ぼされた。リアルなのは、結構。だが霍光は、もっとバカみたいに、褒められてほしかった。100429