光武帝は、堯の後裔だとアピールしない
佐川繭子「光武帝による火徳堯後の漢再興について」
後漢経学研究会論集2
光武帝が後漢をたてるとき、火徳は大切だったが、
堯の後裔であるという宣伝は、必要なかったという話。
はじめに
王莽の禅譲は、相生による。
前漢の武帝のとき、相勝の土徳から、相生の火徳にかわった。
同時に、劉邦にはじまる漢家は、堯の子孫になった。
火徳&堯後は、劉向や劉歆が、前漢末から提唱したもの。
だが火徳&堯後であることは、光武帝の統一と密接ではない。
1 天子の乱立と漢の再興
光武帝が「私は、火徳の劉氏だ」と云っても、群雄は降伏しない。
いくらでも、他に天子を名のった人がいるから。
23年2月、更始帝が天子。
23年9月、王莽が殺された。
23年10月、汝南で劉望が天子。系図はないが、宗室の一員。莽新の将軍・厳尤と陳茂が、劉望に降った。更始帝が、漢室の正統な継承者だと知られていなかった証拠。同年中、更始帝の将軍が討つ。
23年12月、王郎が邯鄲で自立。趙王の子・劉林が、赤眉がくるとウワサして、王郎を立たせた。25年5月に、光武帝に敗れた。
『後漢書』王郎伝を抄訳、光武帝の河北デビュー戦の強敵
25年1月、劉嬰が皇帝になった。前漢を持続させる考え。劉嬰をかついだのは、方望。方望は、天水の隗囂集団に、軍師として招かれた。隗囂は、漢室復興をかんがえていた。24年、隗囂が更始帝のしたに入ると、方望は更始帝を見捨て、隗囂から離れていた。
25年4月、蜀で公孫述が自立。金徳の白。
25年2月に王郎をやぶり、光武帝は河北に割拠。
光武帝本紀「赤伏符」や、鄧シン伝では、劉秀が天子になることが云われる。しかし、火徳の漢が再興されるとは云わない。
26年1月にはじめて、火徳が表明された。あとづけ。
赤眉のカラーは、識別のため。漢再興はあとづけ。
史書にある因果関係の説明は、いつも胡散くさい。眉を赤く塗ったのは事実だろうが、「識別するために」という理由は、ただの仮説&主観だ。
26年11月、梁王の劉永が天子を自称。更始帝が敗れたので、即位した。27年秋、光武帝に攻められて殺された。
まえにぼくは、列伝を抄訳しました。
『後漢書』劉永伝:河南の天子、袁紹が曹操をやぶるモデルとなる
26年11月、孫登が、銅馬たちに立てられた。自滅。
27年、李憲が天子を自称。もと莽新の人。23年、淮南王を名のった。30年に敗走した。おそらく莽新に代わるという意識で立った。
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29年、盧芳が天子を自称。武帝の曾孫を名のる。更始帝に召された。更始帝のあと、三水の豪傑によって、西平王。匈奴から漢帝と認定された。五原郡に都した。40年、光武帝に降伏。
ここまで、わざわざ引用して見たように、劉秀が図讖をつかっても、
だれも劉秀に降伏してこなかった。
「火徳の劉氏だ。劉秀が天子になる」は、光武帝の配下でのみ通用。
2 漢の再興を唱える者たちの理論
莽新の末期、チウンと蘇キョウは漢の再受命を読んだ。孔子が、漢の赤制『春秋』を記して、王朝の長さを予言した。劉秀が、その受命者という話もあった。
班彪『王命論』は、隗囂のしたで書かれた。火徳の漢が、堯の子孫として、天下を得ることを云った。図讖のない、火徳堯後説だ。
3 光武帝政権と漢火徳堯後説
光武帝が再興した漢とは、火徳。一巡前の火徳は、堯。
堯-舜-夏-殷-周-漢で、一巡した。
しかし、劉氏が堯の後裔だとは、あまり知られていない。
光武帝は、服色を変えて正統を示したが、
堯後は示さない。そもそも、あまり知られていない。
堯後は、光武帝を正統化するために、必要でない。
4 漢家と火徳説・堯後説
光武帝政権が、堯後だといった根拠は、不明。
王莽が、劉氏を堯後だといったので、引きずられたか。
あいまいだから後漢の賈逵は、『春秋左氏伝』を堯後の根拠とした。
賈逵は、章帝のときの人。光武帝のとき、まだ堯後の話はなかった。
むすびにかえて
『史記』の劉邦は、農民出身だ。農民なのに成功した自負。
だが後漢では、漢室の名誉のために、堯後がつくられた。
新末に反乱した多くの農民と区別するため、光武帝は堯後になった。
ぼくの感想
儒教史は、難解。ぼくが、どうこう言うのは難しい。
ただ思うのは、火徳堯後という後漢の正統性をつくるとき、
王莽がおおいに貢献しているということ。堯後しかり。
もう1つ。シロウト目線から、身もフタもないことを云います。
光武帝は、火徳でも堯後でもなく、腕力を理由に、後漢を起こした。
佐川氏はいう。堯後は、光武帝の勝利に必須でない。火徳は必須だと。
ぼくは思う。火徳であることは、光武帝だけにプラスでない。
むしろ、劉氏のライバルが増えてしまった。
火徳は、光武帝の競合優位性でない。強調する匙加減に注意。100828