01) 言語の手のひら
3週間ぶりの更新です。ご無沙汰してます。
更新していないあいだ、アクセスいただいた皆さま、ありがとうございます。
この3週間で考えたこと
9月の三国志学会で、研究者の方々に触れました。刺激を受けました。
結果ぼくは、じかに三国志そのものに、興味が向かいませんでした。
ぼくの関心は、
「どういう態度で『三国志』を読めばいいだろう」
という、もっと奥深い問題に向かいました。のめりこみました。
すでに三国志学会の前、新宿の紀伊国屋で買った、
遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会
を読んでいました。
この本をキッカケに、20世紀の歴史哲学に、はまりました。
「ぼくが『三国志』を読むとき、20世紀の歴史哲学をどう絡ませるか」
この問いに対し、自分なりの展望が見えました。だから今回、書きます。
半酔半覚で、おもい本をもって、夕暮れの街をさまよったり。廃人!
ぼくは研究者ではありません。だから、狭義の師匠がおりません。どのように史料を読むかは、自由です。その自由ゆえに、史料にたいする態度について、自分なりの答えが欲しかったのです。
このテーマのために、書籍代を10万円くらい使ったかなあ。
いま落着を見たのは、09年に刊行された、
『岩波講座 哲学11 歴史/物語の哲学』岩波書店
を読んだからです。
09年時点の最前線っぽい「まとめ」を読み、思考が収束しました。
これがぼくの限界です。限界を宣言するのは残念ですが、線引きがないと生きていられないと思うから(社会で学んだことだ)これでよし。ぼくのテーマは、20世紀の思想史ではなく、三国志なのですから。
これから書くことが、とくに、ぼくと同じように、大学で研究しているわけじゃない「史料読み」の皆さんにとって、参考になることをと願っております。
青春の遺産をつかい、このホームページを作ってきました。
10年ぶりに、青臭いこのテーマが再燃。諸書を読んで気づいたのは、「ぼくが大学で習った技法もまた、絶対のものじゃなく、歴史的な産物だ」ということ。18世紀以降、西欧でおこなわれた試行錯誤の結果を、たまたまぼくは大学で習っただけ。このように、一歩そとに出て、大学で習った技法をながめることが、できた。10年ぶりに、青春の苦悶をした成果だ。
前置きが、やけに長くなりました。本題です。
さきに種明かしをすれば、ぼくの結論は、
「正史に書いていないことを、シロウトは、大胆に妄想して楽しめばいい。むしろ、それ以外の方法はない」
という開き直りです。一周まわって、戻ってきた。
三国志をやるとき、歴史哲学からの問題点
竹田晃『曹操』講談社学術文庫1996を読んでいて、あらためて中国古代史の特徴に気づきました。
● 『後漢書』に、どんなことが書いてあるか
● 後漢は、どんな時代だったか
このふたつが、ほぼイコールになってしまうのが、中国古代史の特徴だ。これを受けて、どのように史料を読むか。指針が必要となるだろう。
20世紀の歴史哲学の本では、とても関連が深い問題だろうに、わざと避けて通ったかのごとく、いちども語られていないテーマだ。
また中国古代史の研究者も、いちども語っていないと思う。
「研究の対象となる地域がちがうから、触れなくていいのだ」
とは、言わせません。なぜなら、中国古代の歴史家みずからは、西洋で育った歴史学の手法を使っているのです。どんな道具かも理解せず、ただスイッチをオンにして、振り回しているとしたら、いけないことだと思います。
この点について、意見を述べておくことが、ぼくの悩みへの答えになるのではないか。
まず20世紀の思想史を、ぼくなりに超ザックリとまとめます。そのあとで、『三国志』の読み方を述べようと思います。答えを書きます。
実際はどうであったか
19世紀のドイツ。ランケは、史料を読むときの態度について、言いました。
「実際はどうであったか。それだけを述べよ」
訳文は、アーノルド『1冊でわかる 歴史』岩波書店より。
ランケがどんな文脈で言ったのはともかく、これが現代の歴史家たちも共有している、読み方の方針だと思う。客観的で科学的で実証的であれと。
19世紀以降の歴史哲学は、ランケを「素朴だなあ」と批判した。
素朴さを批判しつつ、いかにランケの言うことを可能にするか、悩んだ。もしくは、いかにランケが不可能かを、言い立てた。
結果、言語に注目することになった。言語に注目すれば、とりあえず、科学っぽさを保つことができるぞ、という話の運びになった。つぎに書きます。
言語を通じてしか、理解できない
20世紀の歴史哲学のメインテーマは「言語論的転回」でした。
20世紀のはじめ、哲学者たちが考えるには、
「人間の思考は、すべて言語をつかって、おこなわれる。っていうか、言語を抜きにした、思考なんてあり得ない」
これを尖らせて、
「言語は、何かを指し示しているのではない。はじめに言語ありきで、そのまま終了なんだ。言語の背後に、何かがあるわけじゃない」
エンブリー『使える現象学』ちくま学芸文庫
で、哲学を実践することができます。が、歴史学を論じる範囲において、のめりこむ必要はないと思う。歴史学で考えるべきテーマは、つぎに書きました。
20世紀の後半、歴史学は、言語にかんする哲学を取りこんだ。
「史料の背後に、事実があるのではない。人間がなにかを伝えるには、言語を使うしかない。言語で書かれた史料を読み、考えた結果を、これまた言語をつかって、論文で発表する。言語の手のひらで、飛び回っているだけだ」
すなわち、
「もし歴史学が、科学でありたいなら、どうすべきか。言語の外側に、客観的な事実をもとめてはいけない。言語の意味を追いかけている範囲でのみ、歴史学は科学である」
ということを、言い始めた。
岩波講座によれば、20世紀の歴史学の人々は、「言語の手のひらから、出られない」という考え方を、黙殺したらしい。そりゃそうだ。なぜか。
下世話な言い方をすれば、
「史学の研究室が、文学の研究室に吸収されるのか?」
という危機感である。近親憎悪ともいう。笑
歴史学は、文学をやる人を、どこかで甘いと思っている。「彼らは、ただ作品のなかに、センチメンタルにひたるだけ。客観をめざさず、主観のぬるま湯にひたっているだけだ」と。
ところが、突然ある日、「歴史学の諸君。キミらは、文学と同じだ」と宣告されたに等しい。文学の人には失礼だが、歴史学からすれば、文学と一緒にされては、プライドが許さないのだ。
10年の三国志学会で、文学にかんする発表のときの、会場のため息を思い出す。いや、ため息を聞いたのは、ぼくだけだったのだろうか。笑
次回「歴史と文学研究はちがう」という足掻きについて。