02) 正史の手のひら
文学と歴史学の差別化から、ぼくの結論まで。
言語の手のひらから、抜け出すために
「歴史学の研究は、文学の研究とおなじだ」
そう決めつけられ、気がすまない人は、代替案をだす。
ぼくなりの答えも、この代替案のひとつです。まずは、ぼくが気になった、先人による代替案を見たあとに、ぼくの考えを書きます。
解釈学のゲオルグ・ガダマーは、折衷的なことを云って、お茶を濁した。少なくとも、ぼくにはそう見える。
「史料を書いた人が見た地平線と、史料を読む人が見る地平線は、まじわることがない。しかし2つの地平線を、融合しよう。融合して、史料を解釈すればいいのだ」と。なんのこっちゃ。
地平線の比喩については、入不二基義『相対主義の極北』ちくま学芸文庫で、とてもうまく使われていた。地平線と国境線のちがいを、うまく利用していた。機会があれば、後日紹介。
遅塚忠躬氏は、西洋史の研究者。統計数字など、言葉の捉え方に左右されない史料なら、客観的なことを言えそうだと期待する。
貫成人『歴史の哲学 物語を超えて』頸草出版2010は、ブローデルの地中海研究が、言語(による物語り)を超えている述べる。地勢や気候をメインにして、淡々と述べてゆけば、客観的な歴史の記述になると。
遅塚氏も貫氏も、言語の手のひらを超えるために、工夫している。歴史学が文学に飲み込まれないために、工夫している。いずれも、言葉で語られた史料の外側から、情報を得ようとしている。
だが残念なことに、中国古代史では、遅塚氏や貫氏の方法をつかうのは、極めて難しい。なぜなら、統計数字も、地勢や気候も、正史に書いてあるものを、使うしかないから。
だったら、どうするか。ぼくの意見を書きます。
三国志に立ちはだかる、ふたつの手のひら
中国古代史で「実際にどうであったか」を探究するには、ふたつの手のひらを、飛び越えなければならない。ほかの歴史学とくらべて、しんどい。
ひとつめが「正史の手のひら」だ。
ふたつめが、すでに見た「言語の手のひら」だ。
つまり、20世紀の歴史哲学が苦闘した「言語の手のひら」にゆくまでに、もうひとつの関門があることになる。つらいなあ。
まず「正史の手のひら」について。
正史は、すでに中国の史学史の研究者が、たくさん述べているように、おおくの特徴がある史料です。なかでも、ぼくがとくに特徴的だと思うのは、長らく保存されてきたというところ。
● 外的な批判:その史料は、ホンモノだろうか
● 内的な批判:史料に書いてあることは、ホントウだろうか
内的な批判に目が向かいがちだ。しかし、外的な批判を忘れてはいけない。
ここから膨らまして。
正史が長く保存されてきたことは、外的な性格において、注意を要する。正史は、いわゆるニセモノではなかろうが、保存されていることが「不自然」だ。正史以外の史料が散逸したことが悲劇なのではなく、散逸していない正史が「めずらしい」のだ。これを忘れてはいけない。「なぜ正史に認定されたのか」「なぜ残されたのか」に、しつこすぎるくらい注意して、読みたいと思います。
正史が、あまりにキレイに残り、他があまりに少ない。
考古学の出土資料とか、同時代のほかの史料を読んでも、どうにも少なすぎる。研究者が「正史の手のひら」から抜け出すために、わずかな痕跡を探していらっしゃいます。しかし、いかんせん、正史の保存状態が良すぎる。シロウトが、会社勤めをしながら、何かを発見することは、ほぼムリ。
つぎに「言語の手のひら」について。
もし幸運にも、正史と同時代に書かれた史料が見つかったとして。もし、三国時代の木簡が見つかったとして。喜ぶのは、早いです。「言語の手のひら」が立ちはだかります。
「三国時代は、実際に、どんな時代であったか」は、まだまだ分からない。
「正史の手のひら」に、さんざん打ちのめされた中国史の研究者は、同時代の史料や木簡に小躍りするでしょうが、早計です。じつは他の分野とおなじ、スタート地点に立ったに過ぎない。道のりは、ながい。
それでも三国志が好きならば、仮説をぶつける
ふたつの手のひらについて、書きました。
この手のひらのあいだを、超えることは、おそらく原理的にムリでしょう。
もし、手のひらが抜けられないと絶望したなら、どうするか。度合いの激しい順番で、書いてみましょう。
● 歴史をキライになる
● 中国史をキライになる
● 三国志をキライになる
● 三国志を「陳寿による文学」と割り切る
いちばん下に書いた「文学と割り切る」というのが、20世紀に栄えた言語論的転回に、降伏を申し入れる態度です。
しかし三国志を、ただの言語をつかった記号の集まりだとは、割り切れない。割り切りたくない。割り切りたくないから、あんなにおもしろい『三国演義』に飽き足らず、一見おもしろくない陳寿を、わざわざ読み始めたわけで。
「実際にどうであったか」が、それでも気になるわけで。
というわけで。三国志を楽しむためには、正史&言語の外側にあること(どこにも書いていないこと)を、想定するしかないと思う。仮説を史料(おおくの場合は正史)にぶつけて、妄想だと言われようが、話を膨らますしかない。
渡邉義浩先生に「それは研究者には出来ないことだね」と言われました。でも、それでいいのです。なぜなら、職業としての研究者ではないから。
でも、実証=すばらしい、という話は、すでに崩れている。野家啓一『科学の哲学』ちくま学芸文庫2007で紹介されているとおり、トマス・クーンによってケチがついた。理系(自然科学)だって、なにが実証的&客観的だか、分からなくなっている。まして文系(人文科学)なんて。
大学の歴史学は、揺らいでいるのかな。こんな時代です。シロウト史学が、19世紀の名残に縛られる必要はない。
もちろん、史料を正しく、たくさん読めることが前提だが。(これ重要)
少数派に注目する風潮に乗る
前述の岩波講座に、森明子『マイノリティの歴史学』という論文があります。マイノリティは術語だけど、むりに翻訳すれば、少数派。
いままで虐げられていた側、描かれてこなかった側の歴史に、注目しましょうと。これは、20世紀の社会状況を反映した話です。
話は飛びますが(すぐつなげます)
吉川英治『私本太平記』を読みました。
吉川氏は、鎌倉幕府をほろぼした、最後のガッカリ君主・北条高時を、再評価しようとしている。
吉川英治は『三国志』で「恋の曹操」を描いた。悪役とされる(らしい)曹操の人間くささを描いた。『太平記』でも、おなじことをしたようだ。
虐げられて語られない、少数派の歴史、、
敗者もまた、少数派だ。
20世紀から現代につづく流行に、敗者の考察をつなげられるのではないか。考察の手法を、借りてこれるのではないか。史料がない事柄について、どうやって仮説をたてて、膨らませるのか。
おわりに
「自信をもって、袁術について妄想しよう」
という、しょーもない結論に到りました。
派生して思うことは、もっといろいろありますが、
会社に行かねばならんので、今日はこれまでです。101019