表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』序章の要約と感想

1節_所有と文化

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。

目標は、渡邉義浩氏の研究を、まず自分のなかに取りこむこと。史料を読むときに、ふまえたい。
あわよくば、渡邉義浩氏への反論を、くみたてたい。自分で原典史料を読んでいる人ならば、誰もが、反論のチャンスがあると思うのです。ただのファンにすぎなくても。
構成は渡邉氏の本のまま。タイトルの後ろの数字は、ページ数。

はじめに_5

両晋南北朝の貴族には、5つの性質がある。
 1)農民にたいする直接&間接の支配者
 2)国家の高官を世襲する、官僚
 3)身分において、「庶」にたいする「士」
 4)文化の優越者
 5)皇帝権力に、自律性をたもつ
5つめの自律性が、渡邉氏が着目する性質。
自律性には、3つの特徴がある。家系をおもんじる名族主義、とじた通婚圏でつくる人的結合、貴族でない人をはずす仲間意識。
西欧の封建制とはちがう。西欧の貴族では、土地の所有によって、皇帝から自律した。しかし中国の貴族は、土地の所有でなく、文化によって存立した。

この節のタイトルは「所有と文化」だ。さっそく抽象的で、分かりにくい。結論を先どれば、マルクス史観で、中国史を研究してきた先人たちへの宣戦布告である。
マルクスで歴史を見るときは、土地の所有がキーワードである。もうマルクス(土地)はいいから、べつの見方(文化)で中国史をやりましょうよと。渡邉氏は、きっとこれを云いたい。
マルクスに則った、戦後の研究史を批判するのは、アイサツみたいなものだ。渡邉氏が特別ではない。また、否定されるマルクス系の研究者が、バカだったのではない。研究者のいきる時代のニーズがちがうだけ。


日本における貴族制研究の展開_6

内藤湖南は、唐末までを中世&貴族政治の時代とした。貴族は、地方の名望家だ。皇帝がみとめなくても、貴族は永続する。
宮崎市定はいう。唐までは、西欧の封建制と同じになるはずだった。しかし皇帝は九品官人をつかって、封建領主となるはずの人を、官僚貴族として釣りあげた。封建制は、成立しなかった。
矢野主税は、中国の貴族が「所有」で成り立たないのは、皇帝からのサラリーに頼ったからだとした。しかし史料に見える「貧」は、本当のビンボーではない。矢野氏は、ちがう。

谷川道雄は、貴族の定義をめぐる論争を、2択に整理した。
 1)貴族とは、みずから郷党社会で、決まるものか。
 2)貴族とは、皇帝権力により決められるものか。
この2択が殺しあうのを避けるため、川勝義雄と谷川道雄は「共同体」という、3つ目の選択肢をつくった。
 中国貴族は、郷里を所有しない(1でない)
 皇帝権力により決められるものでもない(2でない)
では、貴族は、どうやって貴族になるのか。民衆の輿論により、貴族は貴族となるのだ。渡邉氏はいう。谷川氏は、中華「人民」共和国の成立に、影響されただけだ。

ここまで書いて渡邉氏は、貴族を外枠から描くことを、やめろという。つぎは、貴族の内側から、描いてみましょうと。つづく。


岡崎文夫は、貴族のなかの階級意識を見つけた。
森三樹三郎は、公的な官僚としてだけでなく、教養を尺度にして、私的な秩序をつくる貴族をえがいた。貴族が、自分たちで秩序をつくるのは、郷論のなごりである。
吉川忠夫はいう。印刷が発明される前、貴族は知識を独占した。四学と三教を、オリジナルの教養として囲いこんだ。貴族の秩序のなかで、地位の向上をめざした。

四学は、玄学、儒学、文学、史学。三教は、儒教、仏教、道教。あとで渡邉氏が、それぞれの動向について、くわしく教えてくれます。

西晋で、旧呉の出身者は、排除された。旧呉の田舎ものは、文化的な価値をもたないからだ。貴族が皇帝から自律するとき、文化的な価値をもっていることが、決め手になった。

もう見通しはあると思いますが、いちおう注記。
渡邉氏がいいたい「名士」は、文化的な価値でつながる人だ。


「通」玄儒文史・儒仏道_15

◆四学
中国の貴族は、学問や宗教を複数マスターして、地位を上げた。
後漢の光武帝は、儒教で政治をすると宣言した。儒教は、漢の正統性とむすびついた。何休が注釈した『春秋公羊伝』はいう。『春秋』が、麒麟をつかまえるところで終わるのは、漢の登場を示していると。

何休は『後漢書』に列伝がある。読むべきだ。

貴族の前身である名士は、儒教にさからう宦官と対立した。名士たちは、儒教国家の改良をこころみた。

のちの曹魏の章で、くわしく読めます。


曹操は、名士の儒学に優越するため、文学をもちあげた。丁儀が推進した。阮籍とケイ康が、文学を創設した。だが文学は、南北朝になっても、評価は低かった。
玄学は、何晏や王弼がはじめた。偽善的な司馬氏の「孝」に、竹林の七賢は玄学で対抗した。しかし、魏晋革命がおわると、緊張をうしなった。退廃的になり、仏教に吸収された。

もともと史学は、帝王の記録だった。班固は投獄された。
漢が崩壊して、自由になった。人物評価を有利にはこぶため、自分の一族を良くかいたの史書がつくられた。すでに帝王の記録ではないから、裴松之は史料批判ができた。

魏晋だけに、史書が爆発的にふえることが、あとで読めます。ぼくらが『三国志』を楽しめるのは、この傾向のおかげ。


◆三教
道教の五斗米道は、琅邪の王氏、高平のチ氏を信者にした。
仏教は、五胡十六国に受容された。後趙の石虎など。

貴族は、諸価値に「通」じることを目指した。鄭玄ですら、袁紹のしたの名士たちに、「通人」と認められなかった。儒教だけでは足りない。この風潮は、後漢からはじまった。
「通」がおもんじられたことは、は『南斉書』にある「誡子書」や、顔之推『顔氏家訓』にみえる。

貴族の根底たる「儒」と皇帝の文化愛好_23

貴族の根底に、儒教がある。ほかの学問や宗教は、儒教の上につくオプションだ。儒教しか知らなければ「通」でない。ただし儒教を知らないと、けなされる。喪礼の違反をけなす記事がおおい。
王弼は玄学を語るとき、詭弁した。孔子は「無」をとっくに体得したから、「無」について語らなかったのだと。王弼は、玄学を孔子と結びつけておかないと、支持をえられなかった。

知らなかった! 魏晋の人が「儒学は最高だ」と宣伝しないのは、名士が儒学に飽きたからではない。儒教は「身体化」され、儒教を身につけているのが当たり前だったと。ひとつ、かしこくなりました。


皇帝は、新しい文化価値を、すべて君主権力のしたに集めようとした。正始石経は、曹魏の皇帝による、儒教の確立。張魯の受け入れは、道教をしたに置いた。類書『皇覧』は、まとめ作業。
南朝で梁の武帝が、編纂事業をやった。北朝の高歓がみとめた。

おわりに_27

所有と文化は、まったく対極にある視角ではない。

さんざんケンカして、仲直りする。そう見せかけて、さらに相手を攻撃する。恐いなあ。

文化を学ぶためには、財産を所有する必要がある。書籍だって、所有する必要がある。マルクスのいう「所有」の概念は、中国貴族を分析するとき、もう使いものにならない。しかし中国貴族は、まちがいなく、いろいろ持っていた人だ。

巧妙に、言いくるめられてしまった。笑

「文化」を「所有」している人たちを、三国時代の「名士」とよぶ。
ちなみに「名士」は、分析概念なので、もともと史料に出てくる意味とはちがう。『礼記正義』でこの言葉は、名望がたかいくせに、仕官しない人をさす。しかし渡邉氏の「名士」は、仕官した人もふくむ。

渡邉氏は、ちがう意味でつかうから、「名士」とカッコつきで書く。しかし、ぼくは面倒くさいので、カッコをつけない。むしろ、カッコなしで出てきたら、かならず注釈します。笑


めでたく「名士」という用語が登場しました。
つぎは二節。三国時代の諸問題。