184年冬、黄巾をあらかた平定
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
184年6月、潁川、汝南、陳国の平定
張曼成は、宛城で100余日こもる。184年6月、南陽太守の秦頡は、張曼成を斬った。
交趾は、おおく珍貨を産出する。歴代の刺史は、金をかせいだ。吏民は、刺史を怨んで叛した。吏民は、交趾刺史と、合浦太守の來達をとらえ、柱天將軍を名のった。
三公の府は、京令する東郡の賈琮を、交趾刺史にえらぶ。賈琮は着任して、吏民の言い分をきく。吏民は、みな言った。「税金が重いのに、交趾は遠隔地だから、朝廷は無関心だ。だから盗賊になった」と。賈琮は、反乱のリーダーだけ斬った。賈琮は、財政と人事を、正した。交趾の百姓は、安じた。巷路で歌う。「賈琮が来るのがおそいから、私たちは反した。いま役人は、百姓を食いものにしない」と。
北中郎將盧植連戰破張角,斬獲萬餘人,角等走保廣宗。植築圍鑿塹,造作雲梯, 垂當拔之。帝遣小黃門左豐視軍,或勸植以賂送豐,植不肯。豐還,言於帝曰:「廣宗 賊易破耳,盧中郎固壘息軍,以待天誅。」帝怒,檻車征植,減死一等;遣東中郎將隴 西董卓代之。
皇甫嵩と硃俊は、潁川の勝ちに乗じて、汝南、陳國の黃巾を討った。波才を陽翟に追ったい、彭脫を西華で破った。のこりの賊は、降散した。三郡は、ことごとく平らか。
ぼくは思う。潁川、汝南、陳国の3郡が、黄巾の主戦場だ。190年代を思いだす。潁川は、曹操が本拠にする。汝南は、袁氏の故郷だ。袁紹や袁術が、汝南に手を伸ばす。陳国は、後漢の王が守るが、袁術が攻めとる。のちに曹操が、袁術を陳国から追いだす。官渡のあとまで、この3郡は、天下を争う主戦場である。二袁と曹操が、奪いあう。
皇甫嵩は、戦況を上言した。功績を、朱儁につけた。朱儁は、西鄉侯にすすみ、鎮賊中郎將にうつる。皇甫嵩を東郡に、朱儁を南陽に向かわせる。
北中郎將の盧植張角をやぶり、万餘人を斬獲した。張角は逃げ、廣宗(鉅鹿)をたもつ。盧植は、鑿塹をかこい、雲梯をつくり、城攻した。
霊帝は、小黃門の左豐に、軍を視察させた。ある人は盧植に、左豊へのワイロを勧めた。盧植は、ワイロしないい。左豊は、霊帝に言った。「広宗の賊は、破りやすい。だが盧植は、防塁をかためて、軍を休ませ、天誅を待っている」と。霊帝は怒り、盧植を檻車でおくる。減死一等。東中郎將する隴西の董卓を、盧植に代えた。
184年秋、五斗米道が郡県を寇し始める
八月,皇甫嵩與黃巾戰於蒼亭,獲其帥卜已。董卓攻張角無功,抵罪。己已,詔嵩 討角。
巴郡の張脩は、妖術で療病した。法略は、張角とおなじだ。病家から、五斗米を出させた。「五斗米師」と呼ばれた。184年秋7月、張脩は、郡県を寇した。「米賊」とよんだ。
ぼくは思う。張魯は、ほんとうに宗教家の孫なのか?ぼくは、張脩が宗教家で、張魯は張脩を殺して、宗教の基盤を乗っ取ったと思ってる。後日やる。
184年8月、皇甫嵩と黃巾は、蒼亭(東郡の范県の境界)で戦った。黄巾の帥・卜已をとらえた。董卓は、張角を攻めても、功績がない。董卓は、罪にあたる。8月己已、皇甫嵩に張角を討たせる。
184年9月、安平王の劉續は、不道したから、誅した。安平国を除く。
はじめ劉續は、黃巾に捕われた。國人は黄巾から、劉続を買い戻した。朝廷は、劉続を安平王にもどした。議郎の李燮は言った。「劉続は、藩国を守れず、後漢をはずかしめた。安平王にもどすな」と。朝廷は、李燮をきかず。李燮は、宗室を謗毀したから、輸作左校された。1年もたたず、劉続が誅された。李燮は、議郎にもどった。京師は語った。「父は皇帝を立てるのに反対し、子は王を立てるのに反対した」と。
184年冬、張梁と張宝を斬る
184年冬10月、皇甫嵩と、張角の弟・張梁は、廣宗で戦った。張梁が勝つ。翌日、朝駆して、張梁を斬った。皇甫嵩は、3万級を斬首した。黄巾は黄河にむかい、5万人ばかりが死んだ。すでに張角は、病死した。皇甫嵩は、棺をあばき、張角のクビを京師に送る。
11月、皇甫嵩は、張角の弟・張宝を、下曲陽(鉅鹿)で斬った。10餘萬人を斬獲した。皇甫嵩は、左車騎將軍となり、冀州牧を領す。槐裡侯に封じる。皇甫嵩は、士卒にものを配ったから、功績を立てられた。
北地の先零羌と、枹罕や河關(ともに隴西)の群盜が、反した。ともに、湟中義從胡の北宮伯玉、李文侯を將軍とした。護羌校尉の泠征を殺した。金城の人・邊章、韓遂は、西州で著名だ。金城太守の陳懿を殺し、州郡を焼いた。
184年、涼州刺史に歯向かう、義勇ある蓋勲
武威太守は、權貴をたのみ、恣行は貪暴だ。
涼州從事する武都の蘇正和は、武威太守から、罪を受けた。涼州刺史の梁鵠は、武威太守を懼れた。梁鵠は蘇正和を殺し、武威太守の矛先からにげた。梁鵠は、漢陽長史する敦煌の蓋勳を訪ねた。蓋勲は、蘇正和と仇同士だ。ある人が、蓋勲に勧めた。「このチャンスに、蘇正和を殺そう」と。だが蓋勲は、忠と仁に照らし、蘇正和への仇を晴らさず。蓋勲は、梁鵠を諌めた。「武威太守の顔色を見て、蘇正和を殺すな」と。梁鵠は、蘇正和を殺さず。
のちに蘇正和は、蓋勲にお礼を言いにきた。蓋勲は、蘇正和に会わず。蓋勲は言った。「私は、梁鵠のために、きみ(蘇正和)の殺害をとめた。きみ(蘇正和)のために、とめたのでない」と。もとどおり、蘇正和と蓋勲は、仲が悪化した。
のちに、涼州刺史の左昌は、軍と穀物をぬすんだ。蓋勲が、左昌を諌めた。左昌は怒り、蓋勲を阿陽(漢陽郡)にゆかす。蓋勲に敗退させ、罪を着せるためだ。だが蓋勲は、しばしば戦功あり。
北宮伯玉が、金城を攻めた。蓋勲は左昌に、金城を救えと言う。左昌は、きかず。金城太守の陳懿が死んだ。辺章らは進み、左昌を冀城にかこむ。左昌は蓋勲に、助けを求めた。蓋勲は、辺章のかこみを解いた。
叛羌は、校尉の夏育を、畜官(右扶風)にかこむ。蓋勲は、州郡と兵をあわせ、夏育をすくう。狐槃(天水)で、羌族に敗れた。
蓋勲の兵は、100人も残らず。身に3つキズを受けた。蓋勲は座って動かず。木を指差して「私はここで死ぬ」と言った。句就種羌の滇吾は、「長史の蓋勲は、賢人だ。蓋勲を殺せば、天にそむく」と言い、蓋勲を助けようとした。蓋勲は羌族を罵り、「私を殺せ」と。羌族は、蓋勲の義勇に服す。蓋勲を、漢陽に送還した。のちに、涼州刺史の楊雍は、蓋勲を漢陽太守とした。
184年冬、朱儁と孫堅が、南陽の黄巾を平定
張曼成の余党は、趙弘をリーダーに、10余万で宛城による。朱儁と、荊州刺史の徐璆らは、6月から8月まで包囲したが、宛城をぬけず。
有司は、朱儁を洛陽にもどせと言う。司空の張温は、上疏した。「朱儁は潁川で勝った実績がある。戦闘の途中で、将軍を変えるのは、兵家が忌むところだ」と。霊帝は、朱儁をのこす。朱儁は、趙弘を斬った。
黄巾の韓忠は、ふたたび宛城で、朱儁をこばむ。朱儁は鳴鼓して、西南を攻めた。黄巾が西南にむかうと、朱儁は精卒で東北から入城した。韓忠は、降伏したい。朱儁は断った。「いま海内は統一され、黄巾が造逆するだけ。楚漢戦争のときと、ちがう。もし降伏を受け入れたら、どうなるか。黄巾は、強いとき戦い、弱いとき降る。このくり返しとなる」と。朱儁は急攻したが、連戰しても勝たず。
朱儁は、山に登り、宛城を見た。朱儁は、司馬の張超に言った。「私が降伏を断れば、黄巾は必死になる。想定内だ。いま、もし包囲を緩めれば、黄巾は必ず、宛城から出てくる。いちど圧縮された黄巾の戦意は、散るだろう」と。朱儁は包囲をゆるめた。黄巾は、宛城から出撃した。朱儁は、黄巾を1万余級、斬首した。
南陽太守の秦頡は、韓忠を殺した。黄巾の余衆は、孫夏をリーダーとして、宛城による。朱儁の司馬・孫堅は、先んじて城壁をのぼる。11月癸巳、宛城をぬく。孫夏を、西鄂(南陽)精山に追い、1萬余級を斬った。南陽の黄巾は、破散した。南陽のほかでも、1郡で数千人を殺した。
184年12月己巳、天下を赦して、改元した。
ということは。袁紹は、さっさと河北に籠もってしまったが、曹操や袁術は、洛陽の近辺でウロウロしたと言える。曹操や袁術が、ガメツいのでない。天下をねらうなら、ふつうだ。袁紹の戦略が、思い切ったものだったのだろう。いくら光武帝の前例があるにせよ。光武帝は、更始帝に迫害されて、仕方なく河北に行っただけだし。
184年、豫州刺史の王允が、張讓と対立
旬日間,復以它 罪被捕。楊賜不欲使更楚辱,遣客謝之曰:「君以張讓之事,故一月再征,兇慝難量, 幸為深計!」諸從事好氣決者,共流涕奉藥而進之。允厲聲曰:「吾為人臣,獲罪於君, 當伏大辟以謝天下,豈有乳藥求死乎!」投杯而起,出就檻車。既至廷尉,大將軍進與 楊賜、袁隗共上疏請之,得減死論。
豫州刺史する太原の王允は、黃巾を破った。張讓の賓客からの文書を得た。王允は上書した。「張讓は、黄巾と交通した」と。霊帝は、張讓に怒った。張讓は、叩頭して陳謝した。霊帝は、張讓を罪にできず。張讓は、王允を下獄した。大赦があり、王允は刺史にもどる。
旬日のうちに、張讓は王允を、ほかの罪で捕えた。楊賜は王允に、囚人の苦痛を味わわせたくない。楊賜は、王允に伝えた。「張讓のことだ。どうか深く考えて(自殺して)くれ」と。從事たちは、流涕して、王允に毒薬をすすめた。
王允は、声をはげました。「私は人臣だ。君主から罪を受ければ、死んで天下に謝る。張讓のため、毒薬など飲めるか」と。杯を投げて立ち、檻車にのった。大將軍の何進と、楊賜、袁隗が、王允を助命した。王允は、死なずにすんだ。101217
ぼくは思う。王允に死ねという楊賜は、どういうつもりか。また、王允が豫州刺史をしてたのは、知らなかった。おいの王淩も、この地域を担当する。関係あるのか?