02) 于禁、張郃
『三国志集解』で、巻17をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、兗州や豫州の人たち。200年代前半まで。
于禁:楽進とならぶ兗州兵、青州兵に劫される
于禁字文則,泰山钜平人也。黃巾起,鮑信招合徒眾,禁附從焉。及太祖領兗州,禁與其黨俱詣為都伯,屬將軍王朗。朗異之,薦禁才任大將軍。太祖召見與語,拜軍司馬,
于禁は、あざなを文則という。泰山の钜平の人だ。黃巾が起つと、鮑信が兵をあつめた。于禁は、鮑信にしたがう。
曹操が兗州を領すと、于禁とその党は、ともに都伯となる。將軍の王朗に属した。王朗は、于禁を特異とみとめ、大将に推薦した。曹操は于禁とかたり、于禁を軍司馬とした。
梁商鉅はいう。『通典』兵二はいう。曹操の軍令では、伍長が進まなければ、什長がその伍長を殺す。什長が進まなければ、都伯がその什長を殺す。都伯とは、隊長のこと。
原文で王朗は、于禁を「大将軍」に薦めるが、盧弼は「軍」の字はいらないとする。
使將兵詣徐州,攻廣威,拔之,拜陷陳都尉。從討呂布於濮陽,別破布二營於城南,又別將破高雅於須昌。從攻壽張、定陶、離狐,圍張超於雍丘,皆拔之。從征黃巾劉辟、黃邵等,屯版梁,邵等夜襲太祖營,禁帥麾下擊破之,斬(辟)邵等,盡降其眾。遷平虜校尉。從圍橋蕤於苦,斬蕤等四將。
曹操は于禁に命じ、徐州の廣威(彭城)をぬかせた。陷陳都尉となる。濮陽で呂布を討ち、曹操とわかれ、呂布の2営を城南でおとす。須昌(東平)で、高雅をやぶる。曹操にしたがい、壽張、定陶、離狐(済陰)を攻めた。
雍丘で、張超をかこんだ。すべて、勝利した。
曹操にしたがい、黄巾の劉辟、黃邵らを征した。黄巾が夜に曹操を襲ったので、于禁が斬った。黄巾は、すべてくだる。平虜校尉。曹操にしたがい、苦県で袁術の部将・橋蕤をかこむ。橋蕤ら4将軍を斬った。
このとき楽進は討寇校尉で、于禁は平虜校尉。同格だろう。
(197) 宛城で、張繍を降した。ふたたび張繍が叛く。曹操はやぶれた。舞陰で、軍がみだれた。于禁が、張繍を攻撃した。于禁の兵が、青州兵に劫された。于禁は、青州兵を討った。曹操は言った。「淯水のとき、私はヤバかった。于禁が立て直してくれた」と。于禁は、益壽亭侯となる。
このとき楽進は、廣昌亭侯となる。曹操は、197年に爵位をばらまいたらしい。ねらいは2つか。献帝を手に入れたことを活かす。張繍にやぶれたので、求心力を回復する。
穰県で張繍を攻め、下邳で呂布をとらえた。于禁は曹操とわかれて、史渙、曹仁とともに、射犬で眭固を斬った。
于禁:昌豨を斬り、法律に潔癖で、朱霊を吸収
太祖初征袁紹,紹兵盛,禁原為先登。太祖壯之,乃遣步卒二千人,使禁將,守延津以拒紹,太祖引軍還官渡。劉備以徐州叛,太祖東征之。紹攻禁,禁堅守,紹不能拔。複與樂進等將步騎五千,擊紹別營,從延津西南緣河至汲、獲嘉二縣,焚燒保聚三十餘屯,斬首獲生各數千,降紹將何茂、王摩等二十餘人。
(200) 袁紹は兵が盛んだ。于禁は、先登をねがう。曹操は歩卒2千人をつけ、于禁に延津をまもらす。曹操は、官渡にもどる。劉備が徐州でそむくと、曹操は東へゆく。袁紹は、于禁を攻めたが、ぬかれず。ふたたび楽進らと、歩騎5千人をひきい、袁紹の別営を撃った。延津から西南にゆき、黄河にそって、汲県、獲嘉の2県にゆく。30余の軍営を焼く。数千を斬った。何茂、王摩ら、20余人の部将をくだした。
太祖複使禁別將屯原武,擊紹別營於杜氏津,破之。遷裨將軍,後從還官渡。太祖與紹連營,起土山相對。紹射營中,士卒多死傷,軍中懼。禁督守土山,力戰,氣益奮。紹破,遷偏將軍。冀州平。
曹操は于禁をわけて、原武(河南尹)におく。杜氏津で、袁紹の別営をやぶる。裨將軍となる。ふたたび官渡にあわさる。袁紹は、土山から射こむ。于禁は、曹操軍を奮わせた。袁紹をやぶり、偏將軍となる。冀州を平らげた。
臣松之以為圍而後降,法雖不赦;囚而送之,未為違命。禁曾不為舊交希冀萬一,而肆其好殺之心,以戾眾人之議,所以卒為降虜,死加惡諡,宜哉。
ふったび昌豨がそむく。于禁と昌豨は、旧知だ。昌豨は、于禁にくだる。于禁は「包囲されたあとに降っても、赦されない」と言い、昌豨を斬った。曹操は、于禁を重んじた。東海が平らいだので、虎威將軍となる。裴松之は、于禁の処置に反対である。
後與臧霸等攻梅成,張遼、張郃等討陳蘭。禁到,成舉眾三千餘人降。既降複叛,其眾奔蘭。遼等與蘭相持,軍食少,禁運糧前後相屬,遼遂斬蘭、成。增邑二百戶,並前千二百戶。
のちに臧覇らと、梅成を攻めた。張遼、張郃らは、陳蘭を討った。于禁がくると、梅成ら3千人はくだる。ふたたび梅成はそむき、陳蘭にはしる。張遼は陳蘭を攻めたいが、軍糧が足りない。于禁が軍糧をおぎなったので、張遼は陳蘭、梅成を斬った。
このとき、于禁、張遼、楽進、張郃、徐晃は、名将としてならぶ。于禁は、戦利品を私しない。法律にきびしく、あまり兵士の心を得られず。曹操は、つねに朱霊をにくむ。于禁に命じ、朱霊を配下にくりこんだ。朱霊とその兵は、動揺せず。于禁のきびしさは、こんな様子だ。左将軍、假節鉞。
張郃:袁紹を裏切り、曹操を勝たせる
張郃字俊乂,河間鄚人也。漢末應募討黃巾,為軍司馬,屬韓馥。馥敗,以兵歸袁紹。紹以郃為校尉,使拒公孫瓚。瓚破,郃功多,遷甯國中郎將。
張郃は、あざなを儁乂。河間の鄚県の人だ。
漢末に黄巾を討つことに応募し、軍司馬となる。韓馥に属す。韓馥が敗れると、兵をつれて袁紹につく。校尉となり、公孫瓚をこばむ。公孫瓚をやぶると、功績がおおきいので、甯國中郎將となる。
このあたり、盧弼は注釈なし。「配下大勢」のなかの、1人なんだ。
漢晉春秋曰:郃說紹曰:「公雖連勝,然勿與曹公戰也,密遣輕騎鈔絕其南,則兵自敗矣。」紹不從之。紹遣將淳於瓊等督運屯烏巢,太祖自將急擊之。
郃說紹曰:「曹公兵精,往必破瓊等;瓊等破,則將軍事去矣,宜急引兵救之。」郭圖曰:「郃計非也。不如攻其本營,勢必還,此為不救而自解也。」郃曰:「曹公營固,攻之必不拔,若瓊等見禽,吾屬盡為虜矣。」紹但遣輕騎救瓊,而以重兵攻太祖營,不能下。太祖果破瓊等,紹軍潰。圖慚,又更譖郃曰:「郃快軍敗,出言不遜。」郃懼,乃歸太祖。
臣松之案武紀及袁紹傳並雲袁紹使張郃、高覽攻太祖營,郃等聞淳於瓊破,遂來降,紹眾於是大潰。是則緣郃等降而後紹軍壞也。至如此傳,為紹軍先潰,懼郭圖之譖,然後歸太祖,為參錯不同矣。
官渡のとき、張郃は袁紹に言った。「淳于瓊をすくえ」と。郭図が反対した。袁紹は郭図にしたがい、曹操の本営を攻めた。はたして曹操は、張郃の言うとおり、淳于瓊をやぶり、袁紹軍はついえた。郭図が張郃をそしった。張郃はおそれ、曹操に帰した。
裴松之はいう。武帝紀と袁紹伝では、張郃と高覧が、曹操にくだったので、袁紹軍はついえた。いま郭図がそしったので、張郃が曹操にくだった。ちがう。
ぼくは思う。張郃の名誉を守るために、悪役にされた郭図って、かわいそうだ。きっと郭図は、ろくに子孫が残らなかったから、ドロをかぶったのだろう。
太祖得郃甚喜,謂曰:「昔子胥不早寤,自使身危,豈若微子去殷、韓信歸漢邪?」拜郃偏將軍,封都亭侯。授以眾,從攻鄴,拔之。又從擊袁譚於渤海,別將軍圍雍奴,大破之。從討柳城,與張遼俱為軍鋒,以功遷平狄將軍。別征東萊,討管承,又與張遼討陳蘭、梅成等,破之。
曹操は張郃が来たので、よろこんだ。「微子が殷を去り、韓信が漢に帰したこととおなじだ」と。偏將軍、都亭侯。軍兵を与えられ、鄴県をぬく。
曹操にしたがい、渤海で袁譚をうち、わかれて雍奴をやぶる。曹操にしたがい柳城にゆく。張遼とともに、軍鋒となる (207)。平狄將軍。わかれて、東萊で管承を討つ。ふたたび張遼とともに、陳蘭、梅成らをやぶる。
つぎは、徐晃です。つづく。