表紙 > 曹魏 > 巻17・張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃、朱霊伝、初期の曹操軍

03) 徐晃、朱霊

『三国志集解』で、巻17をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、兗州や豫州の人たち。200年代前半まで。

徐晃:楊奉の部将をやめ、曹操に兵を授かる

徐晃字公明,河東楊人也。為郡吏,從車騎將軍楊奉討賊有功,拜騎都尉。李傕、郭汜之亂長安也,晃說奉,令與天子還洛陽,奉從其計。天子渡河至安邑,封晃都亭侯。及到洛陽,韓暹、董承日爭鬥,晃說奉令歸太祖;奉欲從之,後悔。太祖討奉於梁,晃遂歸太祖。

徐晃は、あざなを公明。河東の楊県の人。郡吏となる。車騎將軍の楊奉にしたがい、功績あり。騎都尉となる。

徐晃は、楊奉の部下。楊奉の部下であることを、よく記憶したい。
楊奉と韓暹は、董卓に代わり、河東政権をつくろうとした 02

李傕、郭汜が長安を乱すと、徐晃は楊鋒に言った。「献帝を洛陽にうつそう」と。献帝は黄河をわたり、安邑にきた。徐晃は、都亭侯。献帝が洛陽にきた。韓暹、董承は、日々あらそう。徐晃は、楊奉に言った。「曹操に帰そう」と。楊奉は、徐晃にしたがうが、のちに悔いた。曹操は、楊奉を梁県で討った。徐晃は、曹操に帰した。

ぼくは思う。楊奉が、なぜいちど曹操にしたがい、のちに曹操に離れたか。わからない。献帝の周りの人たち、わかりにくい。董承も、わかりにくい。盧弼は、注釈しない。
歴史書のつね。曹操にしたがった徐晃は賢く、曹操にそむいた楊奉は愚かだ、というレッテルが、あとから貼られがち。楊奉のもとにいるとき、徐晃の助言がやたら賢そうなのも、レッテルによる歪み。じつは楊奉が、じぶんの意思で動いたのだろう。


太祖授晃兵,使擊卷、卷音墟權反。原武賊,破之,拜裨將軍。從征呂布,別降布將趙庶、李鄒等。與史渙斬眭固於河內。從破劉備,又從破顏良,拔白馬,進至延津,破文醜,拜偏將軍。與曹洪擊氵隱強賊祝臂,破之,又與史渙擊袁紹運車於故市,功最多,封都亭侯。

曹操は、徐晃に兵をつけた。卷県、原武(河南尹)の賊をやぶった。裨將軍。曹操にしたがい、呂布を征した。曹操とわかれ、呂布の部将・趙庶、李鄒らをくだす。史渙とともに、河内で眭固を斬った。曹操にしたがい、劉備をやぶる。曹操にしたがい、白馬で顔良、延津で文醜をやぶる。偏將軍。

ぼくは思う。張郃と徐晃に共通する。「兵を授け」られた人は、独自の部隊がないからか、曹操に密着してうごく。曹操の本隊のもとで、指揮する人になるのだろう。っていうか、張遼の別働ぶりが、際立っているのか。

曹昂とともに、隱強の賊・祝臂をやぶる。史渙と、故市で袁紹を撃つ。功績がおおく、都亭侯となる。

太祖既圍鄴,破邯鄲,易陽令韓範偽以城降而拒守,太祖遣晃攻之。晃至,飛矢城中,為陳成敗。範悔,晃輒降之。既而言於太祖曰:「二袁未破,諸城未下者傾耳而聽,今日滅易陽,明日皆以死守,恐河北無定時也。原公降易陽以示諸城,則莫不望風。」太祖善之。

すでに曹操は鄴城をかこみ、邯鄲をやぶった。易陽令の韓範は、いつわって降伏し、曹操をこばむ。徐晃は、城中に射かけた。韓範は悔いて、徐晃にくだる。

易陽令の韓範を降したことが、鄴城を陥とすのに重要。またやる。

これより前に徐晃は、曹操に言った。「二袁(袁譚と袁尚)がいる。河北は定まらない。易陽県をおとして、諸城をなびかせよう」と。曹操は、みとめた。

別討毛城,設伏兵掩擊,破三屯。從破袁譚於南皮,討平原叛賊,克之。從征蹋頓,拜橫野將軍。

徐晃はわかれて、毛城を討った。伏兵して、3つの軍屯をやぶる。曹操にしたぎ、南皮で袁譚をやぶる。平原の賊をやぶる。曹操にしたがい、蹋頓を征す。橫野將軍。

朱霊:袁紹から曹操にうつり、名声が徐晃につぐ

初,清河硃靈為袁紹將。太祖之征陶謙,紹使靈督三營助太祖,戰有功。紹所遣諸將各罷歸,靈曰:「靈觀人多矣,無若曹公者,此乃真明主也。今已遇,複何之?」遂留不去。所將士卒慕之,皆隨靈留。靈後遂為好將,名亞晃等,至後將軍,封高唐亭侯。

はじめ清河の硃靈は、袁紹の部将だ。曹操が陶謙を征すと、袁紹は朱霊に、3営を督させ、曹操を助けた。戦功あり。袁紹の部将はもどったが、朱霊はもどらない。「曹操のような明主、はじめてだ」と。士卒は朱霊をしたい、曹操にうつる。

ぼくは思う。曹操が陶謙を攻めたとき、袁紹の援助があった。曹操が陶謙を攻めることは、袁紹に利益をもたらすためである。
朱霊が、やたら曹操に感激しちゃったセリフは、アトヅケだろう。曹操も袁紹軍の一員だから、朱霊の異動は、それほど大騒ぎでなかったはず。「転職」でなく「部署異動」である。
曹操が陶謙を攻めたとき、朱霊は袁紹から曹操にうつり、劉備は公孫瓚から陶謙にうつった。戦闘のたび、人事異動があったのだろう。まだ乱世が始まったばかりで、勢力は混沌とする。はなれた盟主より、ちかくの大将にしたがう。

朱霊は、のちに良将となる。名声は徐晃につぐ。高唐亭侯。

九州春秋曰:初,清河季雍以鄃叛袁紹而降公孫瓚,瓚遣兵衛之。紹遣靈攻之。靈家在城中,瓚將靈母弟置城上,誘呼靈。靈望城涕泣曰:「丈夫一出身與人,豈複顧家耶!」遂力戰拔之,生擒雍而靈家皆死。

『九州春秋』はいう。はじめ清河の季雍が、袁紹にそむいて、公孫瓚につく。朱霊は、家族を犠牲にして、公孫瓚を攻めた。

朱霊は、ちゃんと袁紹の部将として、有能だったという話。


魏書曰:靈字文博。太祖既平冀州,遣靈將新兵五千人騎千匹守許南。太祖戒之曰:「冀州新兵,數承寬緩,暫見齊整,意尚怏怏。卿名先有威嚴,善以道寬之,不然即有變。」靈至陽翟,中郎將程昂等果反,即斬昂,以狀聞。太祖手書曰:「兵中所以為危險者,外對敵國,內有奸謀不測之變。昔鄧禹中分光武軍西行,而有宗歆、馮愔之難,後將二十四騎還洛陽,禹豈以是減損哉?來書懇惻,多引咎過,未必如所雲也。」

『魏書』はいう。朱霊は、あざなを文博。曹操は冀州を平定すると、朱霊に新兵5千騎をつけ、許南におく。曹操は朱霊をいましめた。「冀州の新兵は、袁紹に甘やかされてきた。朱霊が、あまり新兵を締めると、事変がおきる」と。朱霊は陽翟にきた。はたして、中郎將の程昂が反した。朱霊は、程昂を斬った。曹操は、不問にした。

ぼくは思う。さっき于禁伝で、「つねに曹操は、朱霊をうらんだ。朱霊を、于禁の配下に格下げした」とあった。曹操は、もと袁紹軍の朱霊に、冀州の新兵を手なずけてほしかったのだろう。しかし朱霊は、それに失敗した。曹操は、新兵をきびしく締めた朱霊を罰することができないが(ルールに違反はしてない)、朱霊は、期待された役割を果たさず。マイペースだった。
もともと朱霊は、曹操と同格だったかも知れない。初平のころ、曹操も朱霊も、袁紹の部将にすぎなかった。曹操は、朱霊が助けてあげなければ、徐州を攻められないほど、頼りなかったのだ。朱霊が曹操に対して、強硬な態度にでる理由は、なくはない。
曹操が、劉備と朱霊をペアにして、袁術を討たせたのは、なぜだろう。考えてみたい問題。


朱霊は蛇足でしたが、おしまい。曹操軍で、初期の将軍をわけるなら、2つの軸が設定できるだろう。自前の兵のあるなし、出身地が兗州か否か。自前の兵がなく、兗州が出身だと、曹操と密着してうごく傾向がつよい。110519